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  全ては君のために捧げられた魂。

 

 

 

 

1/

 

 

 天から降り注ぐのは、地を貫かんとばかりの激しい雨。
 月や星を完全に覆い隠す分厚い黒雲は、天蓋を一層不気味で重々しい色に変えてしまっており、今宵は誰も空を見上げることは無いであろう。
 冷たい雨水は樹木の葉や枝に圧し掛かり、田畑や土壌を乱し、民家の屋根を騒々しく打ち鳴らす。
 豪雨はもう随分と長い時間降り続いているが、一向に止む気配が見えない。現状が長引けばいずれは川が氾濫し、甚大な水害が出ることは避けられないであろう。
 雨の驚異にさらされている最中の街のある者は、家の中で怯えながら呟く。 
 この雨は神のもたらした怒りであると。
 同じくしてある者は、忌々しげに吐き捨てる。
 今晩は厄日だと。
 同様に、ある者は、震えながら言う。
 厄災か天罰か、とにかく何かよくないモノの訪れだったらどうしようと。
 また、ある者は、打ち据えるような雨粒の音色を聞きながら溜め息をつく。
 これは、彼女と彼の滂沱の涙であると。 

 そして、少年は雨の中を疾走していた。
 普段は穏やかな傾斜の丘だが、今ははぬかるんだ土や斜面の窪みに溜まった泥水が足を絡めとって転倒させようとしている。
 しかし少年は転んでも構わないとばかりに全力で丘を駆けあがる。事実、すでに何度も転んでいるのか服は雨でも洗い流しきれないほど汚れてしまっている。泥水をたっぷり吸った服は重りのように重量感があり、外套はもはや外套の意味を成さず、浸水した靴の中で足が滑っている。至る所に転倒時の怪我を負っており、腕を伝う雨水が僅かに赤色に染まる。
 それでも少年は走ることを止めない。どれほど汚れようが傷つこうが知ったことではないと叫ぶように、何もかもを振り切るように、名状しがたいモノに取り憑かれてしまったかのように、荒い呼吸で走り続ける。
 走り、走り、走り続けたその先に、待っていたのは殺風景な墓地だった。
 晴れた昼間でも閑散としているそこは雨のせいでより暗い影を落としており、大抵の者は近寄りたいとさえ思わないだろう。
 だが、少年は墓地に到着した途端に目の色を変える。
 その目は平静とはとても言い難く、狂気にも似た輝きを秘めていた。
 少年はとある墓の前に立つ。それは周りの墓よりも比較的真新しく、つい最近作られた物であるということが一見でわかる。
 墓石に刻まれた名前を鬼のような形相で睨みつめる。強く噛みしめた唇からは、血が零れそうになる。

 

 ニーシェ・フリューライン

 


 それが墓の下に眠る者の名前だった。
 
 少年は縄で括り付けて背負っていた薄汚れたスコップを乱暴に引き抜き、そのまま墓下の土めがけて渾身の力で突き刺した。
 しかしいくら雨で土が柔らかくなっているとはいえ、死者を覆う土はそう簡単に突き抜けることは無い。
 少年はスコップを何度も何度も突き立てては引き抜き、強引に土を掻きだしていく。禍々しい空には時折稲光がけたたましく駆け巡り、一瞬だけ世界を明るくする。墓を掘り返す少年の姿は雷光によって照らされ、影絵のように映しだされる。
 それは、常軌を逸した行動だった。
 例え信仰心をそれほど持っていない者でも、この行為は決して行ってはならない禁忌であると瞬時に理解するだろう。理解するしない以前に、ごく普通の一般常識や観念からしても、絶対にしてはならないことだと把握しているに違いない。
 死者の眠る墓を掘り起こすなど、あってはならないことだ。
 あってはならないことだというのに、少年は躍起になってスコップで墓穴を深く深く暴いていく。
 墓周りに小さな土の山が複数できる頃には、未来永劫日の目にさらされることの無かった木製の棺桶が顔を出す。
 簡素な棺桶はいかにも安物で、壊そうと思えば容易に叩き壊せることだろう。
 少年は躊躇することなく墓穴の中に跳び下り、屈んで棺桶の蓋にそっと手を載せる。土や泥が爪に詰まった汚れた手は、愛おしげにざらついた表面を撫でる。
 しかし彼が愛を向けるのは棺桶ではなく、棺桶の中の死者だ。むしろ棺桶に対しては多大な憎悪さえ剥き出していた。
 少年は丁寧に棺桶を開けながら、心の中で吐き捨てる。
 
 彼女を閉じ込める穢らわしい箱も墓も焼き消えてしまえ。

 棺桶の中には、少女が永遠の眠りについていた。
 整った顔立ちは可憐であり、満月の色の髪もほとんど日焼けしていない肌も綺麗に保たれ、汚れ一つ無い。
 彼女の周りを飾る花々は瑞々しいとは言えないが枯れておらず、淡い色の花弁は少女に実に映えている。
 痛むことも、腐ることも、朽ちることも、まだ知らない肉体。
 死んでいることが嘘のように、少女は美しかった。
 少年は渇望するように目を見開き、小刻みに震える手で少女の頬に触れる。
 ひやりと、冷たい。
 長時間雨に当たって体温が下がっている少年よりも、少女のほうがよほど冷え切っていた。
 死んでいるのだから、冷たくて当たり前。
 生きていないのだから、熱が無くて当たり前。
 魂が無いのだから、息をしていなくて当たり前。
 少年は今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、優しく少女を抱きしめる。
 着実に硬くなってはますます精気を失っていく華奢な体は、腕に力を籠めるだけで折れてしまいそうなほど脆く感じた。
 目蓋を閉じ、安らかな顔をしている少女に少年は頬を寄せる。
「ニーシェ」
 そして囁くようにその名を呼ぶ。無論、返事はない。
 死体に口無し。死した彼女は二度と言葉を発さない。
「ニーシェ。ニーシェ。ニーシェ」
 それでも少年は、彼女の死を否定するように、あるはずのない希望に縋りつくように、彼女の名前を呼び続ける。
 やはり返事はない。
 少年は絶望と共に再認識する。そして思い知らされる。
 もう二度と彼女は微笑むことも、目を開けることも、心臓を鼓動させることもないという覆せない事実を、叩きつけられる。
 少年は少女を抱きしめる手に僅かに力を籠め、憤怒と悲愴が入り混じった形相できっと雨空を見上げた。もしも雨空が人間のような実態を有していたのならば、間違いなく少年はその首に渾身の力で噛みついていたことだろう。
「神よ!何故、何故、何故、俺からニーシェを奪った!」
 雨音ばかりが絶え間なく聴こえる世界で、少年の悲鳴にも似た叫び声が響き渡る。
「何故彼女だった!何故ニーシェだったんだ!何故ニーシェが死ななければならない!ニーシェには何の罪も無いというのに、貴方をずっと信仰していたというのに!幸せになるべき人だったのに、どうして!」
 ただでさえ嗄れている声を張り上げ、少年は空めがけて捲し立てる。
 喉が焼けるように痛み、口腔内に容赦なく雨水が流れ込んでくるが、少年自身はそんなことには気づいてさえもいない。
 強すぎる憎悪は、もはや悲鳴のようでさえあった。
「こんな世界に、土などにニーシェをくれてやるものか。神の名の下の眠りなど、彼女が望むわけがない!」
 ああ、返せ。返せ。
 彼女を返せと、絶叫は雨に吸い込まれていく。
「神など死に絶えてしまえ!泥に塗れて腐ってしまえばいい!彼女を奪った死を、世界を呪ってやる!」 
 呪われてしまえ。呪われてしまえ。
 彼女を失くした世界など滅びてしまえ。
 彼女に手を差し伸ばさなかった神など消えてしまえ。
 彼女を救わなかった愚者など死んでしまえ。
 彼女を守り切れなかった自分がなくなってしまえばいいとさえ、少年は思ったのだ。
 少年の叫びはいつしか涙声が混じり、頬に雨とは違う熱いものが伝う。ぽたりと、それは少女の額にも滴る。
 叫び、泣いて、叫び泣いた少年は、激情に支配された意識を急激に冷静の範疇にまで引き下げ、少女に自分の外套を着せてフードも被らせる。そしてそのまま抱き上げてはふらりと立ち上がる。その顔つきは、どこかが決定的に壊れてしまった者のようだった。
「誰にも」
 少年は少女を抱えたまま墓穴から這いだそうと忌々しい墓土に手をかけるが、墓土は少年の行く手を阻むように手をかけた個所の土を崩した。
 少女を庇って土砂を浴びた少年は、舌打ちをしながら再度挑戦する。
 しかし、容赦なく土は崩れては少年を足止めした。
 動かぬ少女を連れ出すまでの術は考えていたが、墓穴からの抜け出し方までは頭が回らなかった少年は、だからと言って自責の念に駆られることはなかった。
 今の少年の胸中には少女しかなく、少女以外の思考はほぼ全て停止していた。
「誰にもニーシェは渡さない」
 邪魔をしてくる土も雨も、自然の全てが少年に牙を剥くようだった。
 少年は苦難の中で、自分に言い聞かせるようにぶつぶつと呟きだす。もしくは、自然に対する警告だったのかもしれない。
 どれほどの困難が待ち受けていようと構わない。どれほどの地獄を見ようが構わない。全てはニーシェのために、ニーシェのためだけに。
「方法を、探すんだ。探して、探して、ニーシェを」
 土を噛む少年の爪から痛々し血が滲み始めたその時だった。

「そのお嬢ちゃんを生き返らせる術を探しに行くのかぁ?」

 血も凍りそうなほど冷たい声が少年の背中を舐める。 
 驚愕のあまり体勢を崩してひっくり返りそうになるが、何とか引いた足を踏ん張って耐え、警戒しながら声の主を凝視する。
 墓穴には少年と少女以外には誰一人いなかったというのに、何の予兆も気配さえも無く声の主は平然とそこに立っていた。
 宵闇を想起させる外套にすっぽりと覆われた体、フードによって隠された顔は気味の悪いことに悪趣味な笑みを作る口元しか視認することができない。手には身の丈をも超える無骨な大鎌が握られており、人間の首など容易く狩り取れるであろうそれに少年は戦慄する。
 その者の姿が、まるでおとぎ話に登場する〝死神〟そのものだったからだ。
「お前は、誰だ」
 かちかちと音を立てそうな奥歯を一度強く噛みしめ、少年は問う。
「オレは死神……とは正式にはもう違う立ち位置なんだろうけどよ、まぁ今テメェが考えてんのとだいたい正解だぜ」
 〝死神〟はにやりと笑んだまま少年を値踏みするようにじろじろと見やる。少年は少女を抱える手に一層力を込め、限界まで後ずさる。
 目の前の得体の知れない存在からこれ以上になく溢れ出ている異質な気配は、死を司る使者でなかろうとも明らかに人知を超えている。
 少年が恐怖に耐え切れず叫び声を上げなかったのは、何としてでも少女を守るという頑なな決意のおかげだった。
「何だ何だ。威勢のいい声で神を呪っている楽しそうな奴がいると思って見に来たらガキじゃねえか。てっきり磔にされた聖者かと思ったぜ」
 青ざめている少年の様子が面白くてならないのか、〝死神〟はけらけらと笑いだす。
 そして大鎌をくいと動かして、まだ雨にほとんど濡れていない死体の少女を指し示す。
「死者を蘇生させる術なんて、この世のどこを探したって見つかりゃしねぇよ。ちっとは魔法をかじってるお前ならよりわかるだろ。人間は一度死んだら二度と生きかえることはないってよ」
「黙れ」
 〝死神〟の言葉が最後まで言い終わる前に、少年は怒りを露わに口を挟んでいた。体の震えも止まり、殺意にも似た激情が少年の畏怖も逃避願望も一瞬にして払拭してしまっていた。
 この反応は意外だったのか、ますます〝死神〟は愉快気に袖に隠れているであろう手を景気付けとばかりに叩いた。
「へへ、まぁ待てよ。オレはこの世のどこを探したってとは言ったが、この世の摂理からかけ離れたやり方では可能性はあるって話を提唱したいんだぜ」
「ニーシェを生き返らせる術があるのか!?」
 少年は耳を疑いながらも、目を剥いて話に食いつく。
 少女を生き返らせる術を探そうとしていた少年は、どんな可能性にでも縋りつくつもりだった。
 例えそれが邪な者との取引であっても、大罪であっても、どれほど非人道な結果を生むとしても、実行に移すつもりでいた。
「坊ちゃん。テメェの名前を教えろよ。オレは気が短いことで有名なんだよ」
 名を問われ、少年は数秒黙してから覚悟を決めたように口を開く。
「マーティス。マーティス・セルレイ」
「マーティス。おもしれぇ名前。兎にも角にも、テメェは人類の敵になる覚悟はあるか」
 少年、マーティスは頷く。
「誰からも何からも憎まれ、恨まれ、呪われる存在になる覚悟はあるのか」
 マーティスは頷く。
「殺人鬼と何ら変わらねえ罪人になる覚悟はあるのか」
 マーティスは頷く。
「この契約によってテメェはテメェ自身の命を縮められ、死後にも救済は無いと言われてもか?」
「何度も言わなくていい」
 今度は頷くことなく、宣言した。
「俺はニーシェを蘇らせるためならば、何億人だって殺す。自分だって殺す。周りがどうなろうと、世界がどうなろうと知ったことではない」
 人間としてあってはならない禁忌の発言を聴いた〝死神〟は素直に驚いたようでもあり、どこか恍惚としているようでもあり、厭味ったらしく嘆息したようでもあった。
 何にしても〝死神〟ははっきりわかるほど喜々として、少年の耳元で何かを囁いた。生物の熱を一切含まない吐息はまるで氷のように冷たい。
 だが、少年は竦むことなく目だけで了承する。
 〝死神〟は外套のフードの下でにたりと三日月形に口を歪め、今にも鼻歌でも歌いだしそうな様子で鎌を垂直に放り投げ、音も無く空中で掴み直す。柄の部分に巻き付いている鎖だけが、乾いた音色を立てた。
 しゃらん、しゃらん、しゃらん。

「契約・成立だぁ」

 しゃらん―――――
 ふっと、少年の視界がぶれる。
 否、鎌が少年の動体視力で追いつかないほどの速度で振るわれたのだ。    
 回避不可能な速度で振るわれた鎌が、少年と少女を音も無く斬り裂く。


「さぁ、初めましてだ。オレの主人。そしてオレの奴隷―――――精々あがけよ〝魂狩人〟!」

 それは世界の全てを嘲笑うような、悪の雄叫びだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1/Dead/

 

 

《某日深夜、西の大陸の外れの辺鄙な農村にて大勢の村人が虐殺される》

   

《死体の全ては外傷がほとんど無く、〝魂〟だけが引き抜かれた状態で発見》

 

《しかし例外もあり、酒屋の亭主、村長、滞在していた異端審問官の三名のみが短剣と思わしき刃物で滅多刺しにされていた。死体の損傷は甚大であり、見るも無残な有様とのこと》

 

《尚、行方不明者が一名》

 

《そして、教会の聖堂の壁には、血の一文が残される》

 

 

 

 

 

《これは彼女を殺めたお前達への復讐。全ては彼女のために捧げられた魂》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                  ……coming soon ?

 

 

 

 

 

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