0.竜人の少年
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―――――勇者の誕生
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人間と俗世を嫌う竜人。あらゆる生物の中で最強と謳われ、神の座に近き存在。
成人の儀と共に仮の肉体を捨て、空を羽ばたく翼、何物にも劣らない鋭き牙、鉄さえ引き裂く剛腕の爪、紅蓮の炎をもろともしない強靭な肉体、大地も天空も支配しうるほどの力を持つ四肢を持つ―――――真の竜に進化する。
そんな竜人達の住まう地にて、鬼の子ならぬ竜の子が生まれた。
竜人を越え竜神となった王の子は、数多の民から誕生を待ち焦がれられていた。
偉大なる王の子供なのだから、さぞかし強き力と勇敢なる心を持っているに違いないと、民らは待ち遠しくその日を待っていた。待ち続けていた。竜人の歴史に残される、素晴らしき日になるであろうと。
しかし一つの予言が天から到来したその時、全ての幸福は打ち壊された。
「悪しきお告げを天が与えた!」
「生まれし竜神の赤子は世界を狂わせる歯車となり、竜人は愚か万物をも破壊しうる巨悪と化す」
「望まれない赤子。凶兆をもたらす象徴」
「今すぐにでも殺さねばならない。このような存在がここにいてはならない」
「だけども神の子を殺すなど、できるわけがない。できてたまるものか。あんなにも無垢な魂を消せるものか」
「殺せば更に厄災が増す。天は告げる。この子を生かせと!いったいどうしたら」
世界の破壊者となりうるかもしれない魂が、この世に生を成してしまった。
嘆く民に竜神は適切に、冷徹とまで表せる対応、処置を取った。
「赤子に死を。呪われし因果を断つべく処を成す。次の満月が昇る夜に刑を執行する」
凶兆と共に産まれた子―――――存在そのものが罪である。
悲しみに嘆く竜人達であったが、それが一番の最善策であるということを痛いほど理解していたので、反論も異論も出さなかった。
呪われし赤子の乳母であった女、ただ一人以外。
赤子自身には何の罪も無い。健康そのもので産まれた赤子。誰にでも無垢な笑顔を向けてくれた。何一つ問題が生じなければ、やがて赤子は一族を統べる王となれたかもしれないというのに。赤子は生まれながらにして罪人だった。数多の咎を、不を、呪を喚起させる者として、魂を否定された。
産まれてすぐに死を望まれた赤子を哀れみ、たまらず乳母は赤子を抱え、世界の果てにあると言われる竜人の住処から逃げ出した。それは満月が昇る前の晩のことだった。
その行動は長年心を通わせた仲間達に反旗を翻すということに等しく、乳母は胸が引き裂かれるようであった。それでも母性的な本能が、赤子を生かせと叫び声を上げていた。
この先どれほどの災害や戦争、この世を狂わせるような事件が引き起こされようとも、まだ喋ることさえできない赤ん坊が殺されてしまうよりかはよほどましだと乳母は心から思ったのだ。
数年前に自身の子を失った乳母には、この赤子が自身の愛した子供に重ねて見えていた。
この赤子だけは決して死なせるわけにはいかない。命に代えても守り通すと強く決意していた。
ひたすら逃げ続け、自分だけでこの子を育てるつもりでいた乳母であったが、竜人の追手達は彼女を見逃してはくれなかった。
竜人は血族の繋がりを何よりも重んじ、裏切りの行為は死罪に値する。
何度も殺されかけ、紙一重な死の回避を繰り返した乳母はやがて疲弊し、深い傷の影響で身動きが取れなくなってしまった。
険しい山奥の洞窟に籠った乳母は、自分がもう長くないということを悟った。
自分は死しても構わない。しかし、赤子だけは見逃してもらいたい。
乳母は自身の神の顔に泥を塗ってしまったため、何にも祈ることはできなかった。
涙しながら悲壮感に暮れていたその時、偶然その場を通りかかった人間が乳母を見つけた。
人間の男は見慣れない竜人の姿にひどく驚いたが、瀕死の状態である乳母を放っておけなかったのか、すぐに傷の手当てを行おうとした。
しかし乳母はそれを断り、その代わりと人間に頭を下げて懇願したのだった。人間を毛嫌いする高潔高貴な竜人からは想像だにできない行動であった。時間は刻一刻と迫っており、手段を選ばざるをえなかったのだ。
「どうかこの子を、私の代わりに守ってあげてください。この子はやむを得ぬ事情から、竜人に命を狙われています。だから、決して竜人であるとばれぬよう、人間の中で生かしてあげてください。真っ直ぐな心を持つ本当に良い子です。どうか、お願いします……」
生と死の境に伏そうとする乳母の必死な頼みを断りきれず、男は頼み事を了承した。
「その子の名前はソウリュウ。竜神様の御子、ソウリュウ様です」
乳母は男に赤子を渡すと心から安堵したのか、幸せそうな笑みを浮かべてその一生を終えた。
ユラシア大陸東の山脈地帯の奥地、人間のほとんどが住まわない辺鄙な地、無名であるその地を男は〝ナナシア〟と呼んでいた。
ナナシアのソウリュウ。それが彼の新たな字名となった。
「竜神の子……」
男が抱きかかえている赤子に目を落とすと、白布に包まれた赤子は純粋無垢な笑顔で、男に小さな手を伸ばしてはしゃいだ。人間の赤ん坊とほとんど変わらない短い五本指に柔らかな肌。
優しくも力強い太陽の光を想起させるその笑い顔に、男は己の人生が一転するほどの一大決心をするのだった。
それから数年。
すくすくと成長したソウリュウは、育て親となった男の計らいで人間として育てられた。
活発で明るい性格のソウリュウは、自分は竜人ではなく生まれながらの生粋の人間だと思いこんでいた。
それでも幼少から大の大人をはるかに超えるような怪力を保持していたりと、人間離れの力を多々持っていた。
彼が人間ではないと露見すること、ソウリュウ自身が人間ではないということを自覚してしまうことを恐れた男は、彼に武術を仕込んだ。
もともと男が山に独りで籠っていたのは武術の修行の為だったので、ソウリュウの指導も始めることができた。
武術の型を教え、立ち回り方や基本的な技も叩きこませ、見る見るうちにソウリュウは武術の腕を上げた。
男はソウリュウの竜人としての桁違いな力を抑え、人間の拳士としての力だけを引き出せるようにしようと考えたのだ。
彼が拳士として完成するまで、絶対に山から出さないと―――――男は戒めのように誓っていたのだった。
男とソウリュウは父と子でありながら師匠と弟子のような関係で、それはそれは幸せに暮らしていた。苦しい道も、辛い修行も山ほどあったが、ソウリュウはそれを乗り越えて心身共に磨かれた。
しかしそんな平和な日々も長くは続かなかった。
「―――――師匠?」
朝の鍛練から戻ってきたソウリュウが見たのは険しい表情を浮かべる師匠である男と、見たことのない種族達が対峙している光景であった。
こんな山奥を尋ねてくる者などほとんどいないため、ソウリュウは「山の下にはあんな変わったやつもいるのか。俺よりも変な髪の色してるなぁ」と、興味と新鮮さが沸いた。
しかし奇妙な種族の者達に目を向けられた瞬間、ソウリュウは戦慄する。
その塊のような殺意と執着心に、ぞっとしたのだ。
「ようやく見つけたぞ。神の呪われし子」
神の呪われし子。
そう自分が呼ばれたのだと、ソウリュウが理解するのにはしばし時間が必要だった。
「お前ら、俺のこと知ってるのか?」
咄嗟に身構えたソウリュウだったが
「ソウリュウ!こっちに来るな!逃げろ!」
男の渾身の叫びに、思わず足を止めてしまいます。
「な、師匠。これはいったいどういう」
ことなんだ、と言いかけて―――――その先の言葉は出てこなかった。
「この世が乱れる前に、お前を殺す―――――許せ」
いきなり竜人達が目を疑うほどの俊敏な動きでソウリュウに飛びかかってきたのだ。
驚きつつも反射的にソウリュウは対抗しようと拳を作ったが―――――どうしようもない不安感が背筋を奔った。
あまりにも竜人達の持つ覇気が、力が、気配が、強すぎる。
戦う前から―――――勝てるわけがないと、ソウリュウは察してしまったのだ。
「馬鹿野郎!逃げろと言っただろう!」
竦みそうなソウリュウの盾となるように、男は竜人と彼の間に割り込んだ。
「邪魔をするならば、お前にも死を与えるのみだ。仮にも呪われし子を今の今まで匿い続けていたのだからな」
構わず師匠は竜人に拳を振り上げた。竜人も手刀で斬りかかった。
その攻防はあっという間の出来事であった。
「御免」
逃げる間もなく茫然としたソウリュウの視界が、真っ赤に染まった。
自分を庇った男の胸から生える竜人の腕が、鮮烈に目裏に焼き付いた。
鮮血はソウリュウも竜人も草木さえ濡らし、濡れた個所を赤く染め変えた。
「―――――ははっ。おいおい……冗談きついぜ」
人間には決して手におえない竜人の強さに、熟練の拳士であった男は呆気なく倒されることになった。
勝負は、本当に一瞬だったのだ。
あれほど強かった男が、手合せで一度たりとも負けなかった、師匠が。
人間風情など、相手にならないほど。
男は血を吐きながら自身の胸を貫く竜人に、思わず笑いかけてしまう。
血が、花弁のように散る。
「師匠―――――!」
ソウリュウは叫んだ。
斬り捨てられた男を受け止め、気が動転したままソウリュウも倒れ、腹の底から絶叫した。
血溜まりの中に沈む男を見て、ソウリュウはどうしようもない衝撃を感じていた。
自分の唯一の育て親であり、たった一人の家族である男は、明らかに致命傷を負っていた。
急所を深く抉られてしまっている。苦しげに呼吸をしている。更に追撃をしようと手を振り上げる竜人。
「―――――ッ!!!」
ここからはソウリュウの意識が、己の肉体を切り離す勢いで、覚醒した。
竜人のうめき声と、腕が圧し折れる音が同時に響いた。
声にならないソウリュウの雄叫びが地を揺らし、空気を震わせた。
たまらず竜人達は吹き飛び、地面にたたきつけられる。
「やはり竜神様の血を引く者。その力は絶大」
「あの男は、呪われし子の強さを押さえつけていたのか」
制御を失い、暴走にも似た荒々しさで、ソウリュウは竜人に襲いかかった。
竜人達も同じく、動き出していた。
人間らしさを見失った少年は声を荒げ、今まで習った武術の心得も型も技も全てを放棄し、本能のままに戦った。
木が折れ、草は千切れ、土は抉れ、暴風を呼んだ。
ソウリュウは戦い続けた。
竜人達も戦い続けた。
お互いに命の在り処さえ忘れてしまったかのような、遠慮も躊躇も加減もない―――――身を滅ぼすような暴れ方だった。
山が半壊する勢いで戦いは繰り広げられ―――――やがて、静かになった。
どれほどの時間が経過したのだろうか。
気づけばソウリュウだけがただ一人、立ち尽くしていた。
全身が血に塗れている。自分の血なのか他者の血なのかさえ区別がつかないほどの、赤さだった。橙色の髪が真っ赤に染め上るほどの濃血だった。
少なからず傷も負っていた。
眼前には微動だにしない血塗れの竜人が倒れている。
死んでいた。亡骸だった。
そこでソウリュウは初めて深い悪夢から目が覚めた後のように、はっと我に返るのだった。
誰かを殺すのは生まれて初めてのことだった。
しかもほとんど覚えていない。戦っていた記憶も、何もかもが不安定だった。
ただ、自分のこの手で命を潰した感覚だけが、手に取るようにはっきりと分かった。
この手は畑で野菜を育てる手でもなければ、拳士として歩む手でもなく―――――殺しの手をしていた。
悲鳴を上げて、ソウリュウは泣き叫んだ。
喉が潰れそうになるほどの大音声で、ただただ叫んだ。
「ソウリュウ。泣くな。男だろう」
息も絶え絶えな男が動けぬまま、か細い声で泣くソウリュウに言った。
「師匠。俺は、人間じゃなかったんだな」
全てを理解したソウリュウは項垂れて、ぽろぽろと涙をこぼした。
「本当の俺は、あんな化け物だったのか……」
ソウリュウには声が聞こえた。
竜人達が戦いながら囁いた、幾つもの言葉が繰り返し耳にこびり付いていた。
〝お前は呪われし忌み子であり、いつしか世界に仇を成す存在と化する〟
それが本当ならば、恐ろしいことだ。
ソウリュウは震えるのだ。見の内に潜む、自分の本性に対して恐怖が拭えなかった。
「人を―――――殺してしまった」
何よりも怖かったのは、自分が簡単に殺人を犯してしまえたことだった。
正当防衛も何も、ソウリュウの耳には入らなかった。どんな理由でも納得がいかなかった。
底知れない畏怖の念、虚無感―――――それらがソウリュウの心を巣食った。
「ああ。お前は人間じゃない。俺は最初から知っていたよ」
男は微笑んだ。
そして、言うのだ。
「いつかは話さなければいけないと思っていた。お前の本当の生まれについて、全て話しておく必要があった―――――同時に、この世界の在り方について」
「師匠……?」
「俺はずっと考えていた。お前のためにできることを、お前が世界の為にできることを」
そして男はソウリュウの耳元で囁くのだった。
その際の内容は、ソウリュウと男にしかわからない。
それでもソウリュウの心を打つには充分過ぎる話であった。
長いようで短い話―――――。
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「最後にソウリュウ。一つだけ約束をしようじゃないか」
「何だよ今更……約束って……」
「もう二度と人を殺してはならない。人間も、亜人も、誰一人として殺すな」
「……!」
「これから独りで生きて行かねばならないお前には苦行かもしれない。苦悩することかもしれない。苦難に追い込まれることかもしれない。それでもこれを守ってほしい。お前が今のお前でありたいのならば」
そう言って、男はソウリュウの血だらけの手を握った。弱弱しい握力だけれども、それが痛いくらい―――――心強かった。
「お前の拳は人を殺めるモノではなく、人を生かすモノだ」
それでも、血に汚れた手を握ってくれている。
冷たくなる体温の中に温かさを感じ、ソウリュウは涙を拭った。
「わかった、わかったよ……誰も殺さない。俺が全部守るから、師匠は安心していいぜ……。」
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「さらばだ。我が息子よ」
「さよなら。父さん」
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〝ナナシア ショウイン〟
師匠の墓を作り、花を添えた。
おそらくは当分の間は戻ってこれないだろうと、普段は感けていた家の掃除もしっかりとした。
僅かな荷物を用意してソウリュウは山を下りた。自給自足の生活ゆえに金銭類はほとんど無かったが、野宿同然の環境で育った彼からすれば、金品での取引よりも自分で獣を狩って食べる野性的な暮らしが常識として馴染んでいた。
山の下で生きる人々の話は男から聞いているので、何となくだがわかっていた。わからずとも、これから何とかしていけばいいと思っていた。
人間、亜人、異人。まだ見ぬ者、知らぬ者がこの世界にはたくさん点在している。
幼い頃からずっと山で生きていたため、地上に赴くというのはどうにも奇妙な感じがしたが、それでもソウリュウは歩いた。
いつしか高台からの景色は終わりをつげ、山の麓まで到達した。
見渡す限りの荒野は、山の上からしか見たことが無かった。今、この地に足を着けていられるのが奇跡のようだった。
もともとは大きな集落があったであろう場所は荒み、遮蔽物がほとんどないため太陽がやけに近く感じられた。
―――――どこへ行こう。
どの方向に何があるのかなんて、さっぱりわからない。
そう考えると、悩む必要が無くなってソウリュウは笑ってしまいそうになるほどほっとした。
―――――この世界の全てが見たい。
自分が呪われし子であるということを知った今、より一層世界の姿をこの目で見に行きたかった。
この世界にある全ての景色を、生き物を、本当の姿を―――――心に留めておきたかった。
いつの日か、自分自身の力と決着をつけるためにも。
まだ、死ぬわけにはいかない。
適当にそのまま真っ直ぐ行こうとしたその時だった。
「―――――こんにちは」
長い黒髪を後ろで結わえ、眼鏡をかけている男。魔法使いが身に着けるような外套(マント)に身を包んでいる彼は、にこやかに微笑んでいた。
こんな殺風景な荒野には似つかわない人物であったが、ソウリュウは特に気にしなかった。
「こんにちは。山以外で人に会ったのは、これが初めてだ」
「そうなんですか。どうですか?地上の姿は」
そう尋ねられ、ソウリュウは笑顔のまま両腕を大きく広げた。
「そうだな―――――すげえ面白そうだな!」
期待に胸を膨らませるソウリュウに、眼鏡の男はくすりと笑った。
「世界は広いですよ。貴方が思っている以上に」
「上等!これから全部見て行ってやるよ!」
「ふふふ。御武運を。健闘を祈ります」
風が吹く。
ソウリュウの髪が尾を引き、男の外套も陽炎のように揺らめいた。
「そういえば師匠曰く、地上には強いやつらがたくさんいるって言ってたな―――――アンタはその強い一人か?」
「どうでしょうね。そう見えます?」
「何となく強そうな気が見えるぜ!」
「何となく?」
眼鏡の奥の青色の瞳が、怪しげに煌めいたような気がした。
「いや、すげえ強そうな感じがする!―――――ここで手合せ願おうか!俺と勝負だ!」
堂々と宣言し、ソウリュウは力強く師匠直伝の武術の構えの姿勢を取った。
それに対して男は笑みを絶やさぬまま、あくまで自然体のまま立っていた―――――ただ、凄まじい量の魔力素(マナエネルギー)が彼の元に集束していくのを、ソウリュウは肌で感じ取った。
面白い。面白い!純粋に本心から思うのだった。
「構いませんよ。初めて世界に触れた貴方への祝いに一つ、お相手させてもらいましょう―――――私は〝ロミ〟。貴方は?」
「俺は―――――ナナシアのソウリュウだ!」
〝ナナシアのソウリュウ〟として生きる道を選んだ竜人の少年は、迷わずにそう名乗った。