祭りの日が近づくに連れて、集落全体の様子が忙しくなりつつあった。
 相変わらず多忙な神官や、祭儀用の衣類の製作に精を出す女達、一層気持ちを高めて訓練に励む戦士達、親の手伝いを行う子供達、慌ただしくも皆が一様に一丸となって祭りを待望にしているかと思うと、自然と微笑ましくなる。
 石造りの質素な集落に、祭りの飾りが取り付けられて、だんだんと色鮮やかになっていく。
 まるで真冬の灰色の草原に、だんだんと花が咲いていくようだと、フゥは思った。
 長きに渡って訪れなかった春の季節がようやく到来したような、そんな不思議な感覚に陥る。
「フゥ。今年の舞も楽しみにしてるよ」
「怪我するんじゃないよ」
「踊り頑張ってねフゥ!」
 住民とすれ違うたびにフゥは声をかけられ、そのたびに彼は会釈をしたり軽く挨拶をした。
 踊りに対してはどのような場面でも緊張することがないのがフゥの強みだが、さすがに過度な期待をされると少しばかりどきどきしてしまうこともあった。

 何より、問題のあの衣装でちゃんと最後まで踊れるのかという心配があるため、今回のフゥはちょっぴりぎこちない。

 

「よっす!フゥ!」
「うわっ!」

 

 そんな中でいきなり背中を叩かれ、フゥは跳び上がりそうになる。
「そんなに驚かなくてもいいだろ」
「なんだトクサか」
「なんだってなんだよ!」
 むっとした表情を浮かべるトクサだが、武術訓練の際に身に着ける衣装を着ていることから、休憩中であることが窺えた。
 そのまま二人は他愛の無い話をしながら歩き、石垣の上に腰かけた。
 石垣からは祭りの色に染まっていく集落の様子から、柵を越えた大地の広大な姿を一望することもできた。眺めがとても良いここは、踊り場の木の下の次にフゥのお気に入りの場所だ。
「もうじき祭りだな。本番でとちるなよ」
「わかってるよ。ちゃんと練習してるよ」
「ま、お前のことだから何だかんだでうまくやれるだろうけどさ」
 トクサの笑い声に「本当にそのままうまくやれたらいいんだけどね」と、フゥは呟いた。とりあえず、あの恥ずかしい衣装を着て冷静に踊れるかどうか、それだけは非常に不安の種である。
 二人は時折喋って時折黙ってを繰り返し、空を見上げた。
 抜けるように青い空には、真っ白な雲が川を下る魚のように、風の流れに従って移動をしている。
 雲は水であり、雨となって海に注ぎ、再び雲として循環を繰り返すのだと物知りが言っていたような気がするが、フゥにはにわかに信じられなかった。
 何故水なのにあんなにもふんわりと空に浮かべるのか、不思議でならなかった。
 この世界には様々な謎が満ち溢れている。いつしか解き明かされてしまう謎、永遠に明らかにならない謎、一生気づいてもらえない謎―――――とにかく世界には、無数の謎が渦巻いている。
 こうしてぼんやり空を仰いでいると、フゥは自分のことについて幾つもの疑問が沸いてきてしまう。
 フゥの記憶は五年前の森の中から始まり、こうして今まで何も問題なく過ごせているが、本当に自分はどこで誰の下に生まれ、何をして過ごしていたのか。本当の名前は何なのか―――――。
 五年経過しても記憶は一向に戻らず、記憶喪失前の彼を知る人物も現れない。
 それでもリリアンナやトクサはフゥを大事な仲間だと認めてくれ、カトス夫妻は実の息子のように時に厳しくも優しく面倒を見てくれている。集落の皆も、すでにフゥの存在を立派なランシスの民だと認定してくれている。
 例えこの先フゥの記憶が何らかのきっかけで蘇ろうとも、自分の過去を知る者が登場しようとも、フゥの中ではランシスの里は一番の故郷であり、民は全員家族のようにかけがえのない存在であるという認識は揺るがないことだろう。
 優柔不断なフゥでも、それだけは確信できた。
「―――――い、おい、おいフゥったら。寝てんのか?」
「え、あ、なに?」
 トクサに呼びかけられていたことに気づき、青空に吸い込まれそうだったフゥの意識はすとんと体に舞い戻る。
「しっかりしろよ。寝不足か?」
「ちょっと考え事してただけだよ」
「考え事〜?いっつもぼーっとしてるお前が?」
 露骨ににやにやされると、思わずその額を指で弾いてやりたくなるが、倍返しにされても困るのでフゥは控える。
「トクサっていちいち一言多い気がするんだけど」
「トクサさんのありがたいお言葉だぞ」
「いや別にありがたくないから」
「それよりさ、聞きたいことがあるんだけど」
「なに?衣装交換の話?」
 急に活きづくフゥに、トクサはぽかんとしてしまう。
「お前まだ引きずってんのかよ……交換してやりたいけどリリアンナ様の逆鱗に触れる未来しか見えないぞ。あの衣装相当の自信作らしいし」
「僕の時に実力を発揮しないでよかったのになぁ……」
 がっくりと項垂れるフゥは、あの服を着ねばならないことは充分承知しているため、葛藤もまた大きい。逃げようとしたところで、地獄の果てまでリリアンナが暴虐な悪鬼のように怒鳴り散らしながら追いかけてくることだろう。彼女なら本当にやりかねない。
 予想以上に落ち込みが激しいフゥを慰めるべきなのか喝を入れるべきなのか迷っていたトクサだが、彼に言おうとしていたことを思い出す。
「衣装の話がしたいんじゃなくてさ……フゥってリリアンナ様のことが好きなのか?」
 こそりと小さな声で、トクサは内緒話をするようにフゥに囁いた。
 質問に対してフゥは特に驚くことも照れることもなく、
「うん、好きだよ?」
 恥じらいも躊躇も無く即答するフゥに、トクサは脱力しそうになる。
「お前絶対意味わかってないだろ。顔からして」
「意味?好きに理由が必要なの?」
「何にもわかって無い顔で割と良いこと言うなよ」
「じゃあどんなことを言えばいいのさ」
「お前の好きは、友達としての好きなのか?それともその~……夫婦になりたいって感じの好きなのか?」
「めおと?……父さんと母さんのこと?」
 フゥが思い浮かべたのは、自分にとっては父のような存在であるカトスと、母のように優しいカトスの奥さんだった。
「まあだいたいそんな感じ……お前って本当に馬鹿だよな」
「トクサに言われたくないんだけど。戦うことしか能がないくせに」
「それを言ったらお前も踊りだけだろ!」
 トクサの言葉に、フゥは反論することなく納得してしまう。
「あ、確かにそうだね」
「お前なぁ……地味に痛いとこ突いてくるよな」
「それで、夫婦になりたいって思ったら、それが好きってことなの?」
「普通そうだろ。中には〝せーりゃくけっこん〟ってやつのがあるみたいだけど」
 知らない単語だ。きっと地位の高い〝お偉い様〟の間でしか使用されない類だろうと、フゥは首を傾げた。
「へえ、なんだか難しいんだね。でも、別に僕はリリィを奥さんにしたいとは思わないなぁ」
 するとトクサは意外そうに目を丸くした。
「まじか。てっきり俺はお前がリリアンナ様に惚れてるのかと思ってたぞ」
「どうして?」
「だってお前、いつもリリアンナ様の傍にいるし。それにリリアンナ様ってすっげー可愛いじゃん。結構惚れてる奴いるんだよな。気をつけろよフゥ。お前の子と妬んでる奴多分かなりいるぞ」
「ええ!?」
 さすがに腕っぷしの勝負になると、戦闘訓練を詰んでいないフゥは完膚無きまでに叩きのめされてしまう。年下相手にも勝てる自信がない。
 その気になれば脚力を生かして回避に徹することができるが、それでも荒事は勃発する前に避けていきたい。
「ま、お前を苛めるような奴がいたらオイラがすぱっと助けてやるからよ」
 腕組みするトクサの腕はフゥの倍近くの太さがあり逞しい。正面から殴り合いをしたら数秒も経過しないうちにフゥが吹っ飛ばされることだろう。もちろん喧嘩になろうがそんなことはされないが。
「ありがとう……リリィは僕の大事な友達だけど、多分それ以上?には、ならないような気がする」
「まあでもお前って鈍いから、そんなことだろうとは思ってたよ」
「何だかトクサに言われるとちょっと腹立つかも」
「オイラはお前よりは感性豊かだと思うぞ」
「何だい感性って」
 フゥが不機嫌そうに唇を尖らせた直後、麓のほうからただ事ではなさそうな悲鳴と騒ぎの声が響いてきた。
「何?」
 人が集まっている気配は感じながらも、実際の様子はここからでは死角になっていて見えない。
 二人の視力はかなり優れているが、さすがに透視紛いのことは行えない。
「見に行こうぜ」
 一足先に石垣から飛び降りて走り出すトクサに、フゥも後を追う。
 坂を下り、中腹部にある木をよじ登り、その上から事態を覗き見る。野次馬と勘違いされるのは二人とも避けたいため、ある意味賢明な判断と言えるのかもしれない。
「事故でも起きたか?」
 葉っぱを掻き分けたトクサとフゥが目を凝らすと、人溜まりは集落の入り口辺りに集中していることがわかった。
 明るい歓声には程遠い喧騒から、大人達の間で何らかの諍いが生じたのかもしれない。
「祭りの前にごたごたは嫌だなぁ」
 フゥが本音を洩らして数瞬後に、トクサが目を剥いて驚愕する。
「見ろよフゥ!怪我してる奴がいる」
「え?」
「ほらあそこ!」
 トクサが枝の隙間から指を指すと、その方向には屈強な男達に運ばれている傷だらけの戦士がいた。体の刺青から、集落の外で偵察を担当している者であることは明らかだった。
「ひどい……」
 思わずフゥは苦しげに口元に手を当ててしまう。身体中に生々しい傷痕が刻まれている戦士の苦悶の表情は見ていられない。
「大きな動物にやられたのかな?」
「馬鹿。獣が刃物を使うかよ。ありゃ全部斬り傷だ」
 そう言われても傷口をまじまじと観察できる度胸はフゥには備わっていない。そもそも血を見ること自体、彼は慣れていないのだ。
「また他の部族にやられたのか?……ここからじゃ何も聞こえねぇや」
「他の部族?」
「お前だってそれくらいは知ってるだろ。最近ますます荒っぽくなってきてるらしいぜ」
 部族間の抗争はどのような時でもある程度は起きてしまうものだが、近頃は一層激しい勢力争いがあちらこちらで突発していると、戦闘には無縁のフゥでも小耳に挟んでいる。
 何やら、とある部族が巨大な国を作り上げ、そのまま大陸全体の統一、全部族の統合を謀っているとも噂されている。
 大元の機関の傘下は鼠算式に増え、そのまま他部族への侵略を始めているようで、世間はひどい混乱の渦に呑まれている……そこまで聞くと、ランシスの里内での世界しか知らないフゥからすれば、感覚的な大きさが壮大すぎて頭が痛くなってしまう。
「集落を支配しようとするのは、人をたくさん奴隷にしたいからなんだってさ」
「奴隷に?」
「そのまま生贄として代用するんだとさ」
「生贄……」
 人の命を神に謙譲する儀式があること自体は知っていたが、それを頻繁的に行うということはにわかには受け入れがたい。
「でっかい国は毎日のように祭壇の上で生きた人間から心臓を取り出して神様に捧げてるらしいぜ」
「ひっ」
 やけに真面目な顔で告げられ、フゥは青ざめてしまう。
「捧げ物用の人間がたくさん必要だから、奴隷を手に入れて心臓抉り出すためだけに戦争をふっかけたりしてるんだってさ。笑えねえよ本当に」
 人間が神への捧げのために、罪の無い人々を殺す。
 おそらくは生贄に選ばれた人間は名誉ある人間として讃えられるのだろうが、フゥの感覚からすれば悍ましいことこの上ない。
「どうしてそんなことができるんだろう。同じ人間なのに……」
「人間には、人間でもわからない何かがあるんだとさ」
「じゃあ、誰にもわからないじゃないか」
「それこそ神様とかなら、わかるかもな」
「神様……」
 神は何でも知っている。 
 人間の知らないことを、背負う謎を、ありとあらゆることを知り尽くしている。聖賢を以上に、人知を超えた存在。
 少なくともこの時のフゥは、神に勝るモノは無いと心から思っていた。
 思うことしか、できなかったのだ。
「オイラ、人身御供は嫌いだ。いくら神様を讃えようにしても、やり過ぎだ。ランシス様が惨いやり方を好む神様じゃなくてよかったよ。名誉だろうが何だろうが、心臓抉り出されて死ぬのはおっかねぇもん―――――きっとオイラもそのうち、戦争に駆り出されんだろうなぁ」
 カトスの言葉にフゥは何かを言おうと口を開きかけるが、唐突に鳴り響く鉄をぶつけ合うような音にはっとする。
「おっと、そろそろ時間だ。また後でな」
 どうやら休憩時間の終了を告げる音らしく、カトスは木から一気に飛び降り、そのまま手を振って走り去っていった。
 彼は戦いの鍛練を熱心に行っている。それも狩猟ではなく、対人用の戦闘訓練だ。
 人は何かを奪い、傷つけることで生を繋ぐ。弱肉強食の基盤。
 人間同士が争うことは日常茶飯事なのだ。
「……でも、それって本当に正しいことなの?」
 傷だらけの戦士は、すでにどこかの家に運び込まれたのか、姿形も無い。不穏な空気の中で集合していた大人達も、雲の子を散らすようにあちらこちらへ移動を始めている。
 そうだ。祭りの支度があるから、忙しかったんだ。
 フゥも木から降りて、意味も無く右足を軸にくるりと一回転する。踊りの稽古も続けなければならない。
 きっと大人達は防衛策やら対抗策を練りながらも、祭り事を最優先に話しを進めるのだろう。
 それでも、宴は始めなければ。
 何故なら、神に関連する行事なのだから。
 神はいつだって、人類の善業も所業も俯瞰している。
 例え誰が死のうが、誰の血が流れようが―――――世界も、神も揺るがないのだから。

「……僕にはよくわからないや」

 彼が、人間がいかに矮小で浅ましい存在であるか、胸を掻き抉るほどの絶望と共に痛感するのは、そう遠くないことである。

 


 ◆

 

 

 空が黄昏に染まるたびに、フゥはどうしようもなく懐かしい感覚に沈みそうになる。
 どこかに帰らなければならないような、どこかへ戻らなければならないような、筆舌しがたい奇妙な不安感に襲われるのだ。
 茜色の夕焼けが灰色の雲に焔を灯すように色を付け、太陽の加護が終わる時間が刻一刻と近づいていることを天空中に知らせていた。空だけではなくいつしか大地も眠りにつくように、ゆっくりと暗がりに包まれていく。光と闇の境界線は地平線となり、彼方からは、薄らと夜闇と星々の瞬きが天幕のように下がってきている。
 時期に夜が降りてくるだろう。
 夜が降りれば、人類は星と月の光と虫の光、火の力を借りなければ安心して眠りにつくこともできない。獣と違い、夜目が利かないのだから。
 人間は弱い生き物である。
 人々は、自然の力を信仰し、神に頼って食いつないでいる。
 特に太陽は偉大であり、何よりも必要なモノであるがゆえに、人間達は太陽を司る神に生贄を捧げる。
 不思議だ―――――何故、太陽は生命に活力と栄気を与えてくれるのに、人間は生命を食し、同種である人間の魂を太陽に送り返すのだろうか。生まれし命を、どうして刈り取らねばならないのだろうか。
 突き詰めれば、あらゆる生命にも同等のことが言えてしまうかもしれない。
 数が多すぎてはいけない。しかし、少なすぎてもいけない。 
 思いついた言葉は、間引きだった。
 命は朝に生まれ、夜に眠る。
 まるで人の一生のようだと、ぼんやりと思った。他人事のように、思ってみた。 
 この世界は、美しいけれどとても残酷なのかもしれない。そういう風に、できているのかもしれない。
 では―――――この世界は誰が創ったのだろうか。
 この世界は何なのだろうか。
 この世界は―――――〝誰〟?

「……?」

 お気に入りの木の下で蹲っていたフゥは頭痛を覚え、頭を押さえた。
(まただ。またこの感じだ)
 どこかへ帰らなくてはならないような義務感。
 どこかへ戻りたいと懇願するような寂寥感。
 帰るべき場所と戻るべき場所はランシスの里にしかないはずなのに、どうして?
 五年経ってもフゥの記憶は復活しないが、稀にこうして何かを思い出せそうな兆候が、脳裏を駆け巡ることがある。
 
 とても大切なことを忘れているような―――――思い出さなければならないような―――――でも思い出してはいけないような―――――不思議で―――――不可思議な―――――遠い昔の―――――――――――――――

 

「フゥ?どうかしたの」
 気がつけば、目の前には珍しく沈痛な面持ちでフゥを見つめているリリアンナがいた。
 彼女の白い肌は、夜色に塗り替えられつつある世界には対極的で、見惚れそうになるほど映えている。
 数瞬だけフゥは、眼前の少女のことを見失いかける。
 この場には彼女以外の人間はいないはずなのに―――――〝違うモノ〟を幻視してしまった。
 覚えているはずもないモノを。
 そして、水に溶ける泡のように、忘れてしまった。
「……リリィ?」
「ぼーっとしちゃって、気味が悪いわよ」
 そう言いながらも安堵の表情を浮かべて、リリアンナはフゥの隣に腰かけた。
 肩と肩が密着したけれど、リリィの体温はひんやりとしており、フゥの熱を移した。
「夕日を見ていたの?綺麗よね」
「うん。今日ももう一日が終わっちゃったよ。早いね」
「一日はあっという間よ。もうじきお祭りだし、悔いのないように頑張りなさいよ」
「そうだね」
「……本当にどうしたのフゥ。お腹でも痛いの?」
 あまり元気の無いフゥが気がかりなのか、リリアンナは彼の頬を摘まんで引っ張った。
 肉がちょっとしかついていないせいで、頬肉の伸びはよくない。
「いたたたたたたたたたた!ら、らにするの」
「元気の無いフゥは不気味だから!ほら、笑って。笑いなさいよ」
「んな無茶な……」
 とりあえず要望されたのでぎこちなく笑うと、一応合格点なのかリリアンナは手を離してくれた。
「元気無くは無いよ。ただちょっと、昼に怪我した人見ちゃってさ」
「あ……」
 リリアンナもその件についてはすでに知っているようで、表情に陰を落としてしまう。
「……この近隣でも戦争が始まるみたい。嫌になるわよね、もうじきお祭りだっていうのに―――――どうして皆、仲良くできないのかしら」
「トクサは、神様にしかわからないって言ってたよ」
「神様……神様が私達の目に見えて、触れることができれば、どんなによかったことか」
 ぽつりと呟いたリリアンナの髪が、風になびく。
 風もだいぶ冷えてきており、そろそろ家に帰らなければならない。日が沈んでも外にいれば、いつ獣や忍び込んできた刺客に恐れてもおかしくない。

「―――――来年も再来年も、ずっとずっと皆とお祭りできるのかしら」

 胸の内に深い危惧を抱えているのか、リリアンナは沈みゆく太陽を眺めながら、か細い声を発した。
 たまらずにフゥは言う。何だか、哀しげなリリアンナを見るのは嫌だったのだ。彼女に対する嫌悪ではなく、自分の意志が許せなかったのだ。
「大丈夫だよリリィ。ランシス様はいつだって僕達を守ってくれるよ」
「……そう?」
「そうだよ」
 真剣に言い聞かせると、リリアンナは今までには無い色を秘めた瞳を、フゥに向けた。
「あのね、フゥ―――――言いたいことがあるの」
 それは、
 今、
 今にでも、
 大粒の、
 涙を、
 こぼしても、
 おかしく、
 ないような、
 吸い込まれそうな、
 深い、
 深い、
 一度たりとも目にした事のない、
 海のような、
 そんな、
 そんな―――――青い星を想起させる、目をしていた。
「―――――やっぱり、いい」
 ふわりとリリアンナの服の裾が舞ったと思えば、彼女は立ち上がって走り出していた。
「リリィ!」
 引き止めようとフゥが手を伸ばすが、彼女はもう随分と離れてしまっていた。
 それでも彼女は微笑んで、一度だけ振り返る。

「お祭りの日に話すから―――――待ってて!」

 身を翻すリリアンナの背中が見えなくなるころには、世界は夜に閉ざされる。
 時間の流れは一定だが、確実に、着実に、砂のように落ちていく。
 祭りの開催まで、残り僅かとなっていた。

 


 



 

 

 

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 あと二話か三話で終わる予定です。

 次話からは気が重い展開ばかりが続くので注意です。