死なない私達
※妹紅と輝夜は実はそれなりに通じ合ってたらいいと思います
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―――――欠けない月があるように
□ ■ □
藤原妹紅は死んだ兎と遭遇した。
遭遇したと言っても別に兎に怨霊などが乗り移って妹紅のほうへ直々に訪れたというわけではない、強いて言うならば偶然藤原妹紅は死んだ兎を見つけてしまったのである。
溶解兎ではなく、ただの兎。普通の兎。
彼女はいつも通り起床し、いつも通り身だしなみを整え、いつも通り朝餉の準備に取りかかろうとしていた。
そのさいに、見つけてしまった。
死んだ兎を。
即ち、兎の死体を。死骸を。屍を。
真っ白な毛を持つ小柄な兎。骨付きからしてかなり弱々しい。弱かったからこそ死んだのだろう。もともと病弱だったからこそ、長生きできなかったのであろう。
藤原妹紅は手にしていた桶を地面に置いて、そっとその兎に触れた。
兎にはすでに体温と呼べるものは無く、冷たかった。このまま放っておけば筋肉がかちかちに硬直して、やがては腐り、朽ち果てる。
おそらくは昨晩の内に死してしまったのだろうと予測がついた。
つまりそれはつい昨日の晩までは生きていて、呼吸をしており、心臓は鼓動していたということである。
でも、今は微動だにしない。全ての感覚や神経は消失しており、そこに魂は無かった。
夜の間に、命は消え失せていた。
それこそ蝋燭の炎が風に吹かれて消えるように。細く煙を天へと伸ばして、失せるように。
この兎は死んだ。
一目瞭然、もう死んでいる。
藤原妹紅は冷たくなった兎を抱える。
抱えたところで帯びるのは妹紅の体温だけであり、兎の体内の熱が戻っていくわけではない。
命は一度きりなのだから。一度きりの、短い命なのだから。
しばらく妹紅は何も言わずに兎を抱え、優しい手つきでその体を撫でた。
柔らかさを失くしていく兎。これはもう兎ではなくただの死骸なのだろうか。それはわからなかったけれども、妹紅にとっては兎を撫でようが死体を撫でようが、どちらでもよいことだった。
どちらにしても―――――そこに魂は宿っていないのだから。
冷たい兎。
短命で薄幸の、哀れな兎。
藤原妹紅は、そんな兎に語りかける。
独り言のように―――――言葉を紡ぐ。
「あの世では幸せにな」
兎に墓を与える。
抜け殻になった肉体を眠らせる場所を作る。
藤原妹紅はそこに兎を埋め、花を添える。
線香は無かったので、代わりに細く切った竹炭に火をつける。花に燃え移らないように気を付けながら。
朝。
立ち昇る煙。
それは朝飯の香りを乗せたものではなく、ただ単に炭の香りだけを乗せていた。
少しでも手向けになるようにと、安らかにあの世へたどり着けるようにと。
手を軽く合わせて、藤原妹紅は空を見上げる。
早朝の空はまだまだ靄がかかっており、陽も少々霞んでいた。
薄っすらと真ん丸の月が窺えたような気もした。
この兎の魂が、兎が永遠に焦がれる対象である満月に届くようにと―――――不死の娘は今だけ月に祈った。
□ ■ □
薄雲に少しばかり隠された夜空に、美しくも儚い印象を与えてくれる満月がぽっかりと浮かんでいる。
少しもかけていないその衛星は、己の身は完璧であると主張せんばかりに神々しい光を降り注いでいた。
そのため本来ならば真っ暗闇であるはずの大地は、天から注ぐ星砂の様な月光に照らされて、闇を切り裂いていく。
幻想的で雅な宙の光景に、見るものはたちまち心を奪われてしまうであろう。
今宵、幻想郷から観測できる月はいつに増しても素晴らしいものであった。
まるで、御伽噺の中で語り継がれる月の姫君が、迎えとともに都に戻っていったときのような―――――幻じみた幻想がここに存在していた。
―――――無限に広がっているんじゃないかと錯覚してしまうほどの広大で巨大な竹林、通称『迷いの竹林』。
妖精でさえも迷ってしまうと言われているほどの、天然の迷宮である。
この竹林の竹の一本一本の識別判別が非常に困難であり、そのため歩いて実際に移動してもずっと風景が変わらないように見えてしまうのだ。
だから、ほとんどの人間や妖怪でさえもこの竹林を好んで突破しようと考えるものはまずいない。
そんな奥深い緑の迷路の中で―――――今晩は激しい戦闘音が轟いていた。
驚くことに二人の少女が竹林内を高速飛行して飛びまわり、お互いに攻撃を仕掛け合っていた。
一人の少女は腰ほどまであるきめ細かでよく手入れされている黒髪の少女。
どことなく知的で穏やかなイメージがある少女は、口元に薄く笑みを浮かべて弾をかわし、反撃で発射をする。
もう一人の少女は足首近くまである長い白髪を赤色のリボンでまとめている少女。
黒髪の少女とは正反対で、こちらは好戦的で激しいイメージがあり、背中から火炎を纏った威厳を感じさせる大きな翼を生やしている。
二人の少女が駆け、飛来するたびに―――――竹が圧し折れ、切断され、焼き焦げて灰になる。
色鮮やかな弾幕と、紅の弾幕。
どちらともかなりの威力を持っており、空中でぶつかり合っては爆音をあげて相殺する。
「さて―――――いつまでもグダグダ続けてたら時間の無駄ね」
とは言っても、私たちに時間切れなどないけれど。
黒髪の浮世離れな美しさをもつ月の姫―――――蓬莱山輝夜はにっこりと微笑む。
彼女が言うとおり、かれこれこの戦闘が開始してからすでに一刻ほど時間が経過している。
その一時間、ほとんど知略を巡らせた攻防戦を二人は繰り広げていた。
「そうだな!じゃあ―――――私から先にいかせてもらう!」
白髪の見目麗しい人間―――――藤原妹紅は楽しそうに笑う。
さすがの彼女もこのステージの風景と同等に変わらないバトルスタイルに飽きてきていたのか、一気にけりをつけようと防御を解く。
そして、先行した妹紅が高々と一枚の札……スペルカードを宣言する。
蓬莱「凱風快晴 -フジヤマヴォルケイノ-」
たちまち妹紅の周囲から紅蓮の弾が発生し、一斉に輝夜に襲い掛かる。
名前の通り〝富士山の噴火〟。
日本一の山の火口から噴き出た溶岩が冷えた空気に触れたかの如く、少し時間をおいてから高熱の弾丸は爆炎をあげて大爆発を引き起こす。
妹紅のスペルは皆高火力で破壊力のある物が多いが、その中でもこれはかなり上位の実力を誇るものである。
しかし輝夜は怯もせず、それどころかるんるんと散歩するかのような気軽さで灼熱の火の海の隙間を縫って泳ぐ。
何にしても、輝夜は妹紅のスペルカードを何年にもわたって見続けてきている。
日々強化されてはいるが、それでもコツを掴めばすいすいとかわせてしまうのだろう。
「!」
連射を行いながらも、輝夜にひるまない様子に妹紅は少々悔しげに歯噛みする。
「それじゃあ私もいくわね」
軽やかで滑らかな優雅な動きで、輝夜は懐から一枚の札を取り出し―――――宣言する。
神宝「ブリリアントドラゴンバレッタ」
七色の閃光が蓬莱の人の形の視界を埋め尽くした。
古から伝わる繊細な技法を披露するかのように集束して多重に編み込まれた光の筋は、真っ直ぐ中空を貫く数多の光線へと変貌を遂げる。
「ッ!」
精確に自分を狙って掃射されるそれらを、妹紅は少々顔をしかめながらも背中の翼を打ち鳴らして回避に徹した。
暗闇の中で瞬く炎。煌々と煌めく灼熱の赤。
それを呑み込まんとばかりに七つの艶やかな輝きが、深紅の翼の持ち主を捉えていた。
先ほど妹紅が放ったスペルはいきおいに押され、快音を鳴らしてスペルブレイクしてしまう。
反撃とばかりに発射した弾丸は相手の攻撃を相殺することも叶わず、小規模な花火のように爆ぜる。
「このっ」
それでも挽回のチャンスを窺う妹紅を、彼女よりも上空にいる輝夜は怪訝そうな表情で見下ろしていた。
「妹紅―――――貴方、後ろがら空きよ」
美しき月の姫は手にしている蓬莱の玉の枝をすっと振り下ろした。
無論、躊躇なく。
「え」
輝夜の言葉が信じられないと言いたげに眼を見開いた妹紅は、首だけを動かして背後を確認する。
妹紅は最後の最後まで気付けていなかった。
だから、すぐ鼻先まで迫ってきていた光の筋に対応できる術は皆無だった。
衝突。
被弾。
轟音。
竹林の中が数瞬だけ真昼のように眩しくなり、砂煙を巻き上げる。今日一番の激しい衝撃に耐えきれなかった数本の竹が軋む音をたてながら横倒しになる。
「……?」
真上から戦場の状況を眺めている輝夜の表情は、実に不思議そうなものであった。
濛々と立ち昇る濃い茶色の煙の奥を見据えながら、しばし何も行動せずに待機する。
数分するとだいぶ土煙も晴れ、地面の様子も視認できるようになった。
「うえぇ……」
地が晴れれば、苦しげに咳き込む声も聞こえてくる。
もちろんこの声の主は藤原妹紅ただ一人である。
赤色の少女。不死の少女。赤色の不死の少女。
そんな少女の腹部には―――――倒れてきた竹の枝が深々と突き刺さっていた。
おそらく落下する際に枝と接触してしまったのだろう。
白色の上衣をたちまち真っ赤に染める血液。腹を完全に貫通してしまっている枝もまた赤色に染まっている。傷はかなり深いのか、たちまち地面に水溜りが生まれる。
「ぐぅ」
吐血しながらも、深手の重傷を負いながらも、眼に宿した炎はまるで失せておらず、それどころかぴくぴくと痙攣している両腕を伸ばして、枝をぐっと掴んだ。
そしてそのまま迷いなく、根元の部分を圧し折って引っこ抜く。
堰を切ったかのように抑えを失った傷口からごぽりと血が溢れ出て、零れ落ち、滴る。
普通の人間がやれば激痛にのた打ち回るか、大量出血で死んでしまうだろう。普通の人間ならば。
「あ~……死ぬかと思った。いや、一回死んだかもな」
だが、藤原妹紅は死なない。
何故なら―――――彼女は普通ではなく、不死の人間なのだから。
時間の流れを逆にして再生するかのように、たちまち彼女の腹部の傷は塞がっていく。体中の細々とした傷でさえも例外ではなく、元通りに治っていく。
再生。そして完治。
ほんの数瞬の内に、藤原妹紅は復活する。
あっという間に何事も無かったかのような状態に、戻る。
痛みが完全に退いてから、妹紅はうんざりとした顔色で溜息をつき、傍にある竹を背もたれにして腰を下ろした。
「今日の勝利は譲ってやるよ輝夜。お前の勝ちだ」
どこか投げやりにそう言う妹紅に、輝夜は思わず目を丸くしてしまう。
「どうしたの妹紅?」
輝夜は彼女に起こった非現実的な現象に驚いているわけでは決してない。
むしろ―――――負けず嫌いな妹紅があっさりと負けを認めるという状況に驚愕していているのだ。
「なんだか今日の貴方は貴方らしくないわよ」
「え?」
「普段の貴方なら背後の攻撃もちゃんとかわしてるはずよ」
輝夜は音も無く妹紅の前へと降り立つ。
長い黒髪がふわりと広がり、また流れる。
妹紅の瞳は鏡のようにそれを映している。
宿敵同士であるはずの輝夜と妹紅。
数百年も前からの関係。
最初は純粋な殺し合いであったはずなのに、いつからかは遊びにも似た行事のようになっている。
もちろん妹紅は本気で輝夜を殺しにかかっている。輝夜もまた同じ。
お互い―――――死なない。
幾ら殺したところで、死ぬことがない。
死んでもすぐ蘇る。復活する。再生する。
死んだなどとは到底呼べないことである。
彼女たちは不死なのだから。
不死であるがゆえに何度も戦い、何度もお互いを殺している。
だからこそ―――――相手の心意や行動も自然と読めてしまう。
輝夜が「普段の妹紅ならかわせる」という言葉にも、どうしようもないほどの説得力が生まれてしまう。
それに反論するほど妹紅も現実を認めていないわけではない。
「なぁ輝夜」
妹紅は問う。
紅玉を想起させる瞳で―――――輝夜を見つめながら。
「何?」
輝夜は首を傾げる。
黒真珠を連想させる瞳で―――――妹紅を見つめながら。
「私たち―――――なんで死なないんだろうな」
風が吹く。
竹の葉が揺れ、枝同士がぶつかり合って音を奏でる。
河のさざめきのように、ざぁざぁと。
雨音のように、さぁさぁと。
沈黙はほんの数秒だっただろう。
もしくは―――――永遠に近いほどの時間だったかもしれない。
「決まっているじゃない。蓬莱の薬を服用したのだから」
月の頭脳こと八意永琳が作り出した禁忌の薬。
飲めば永遠の命を手に入れられる、恐ろしき秘薬。
八意永琳と蓬莱山輝夜と藤原妹紅はこれを飲み―――――蓬莱人と化した。
即ち、永久に死ぬことができない。
どれだけ望もうが、足掻こうが、未来永劫不変の身である。
生まれ変わることもできない。彼岸にも黄泉へも行くことは不可能なのだから。
いつまでも、この世に形を留めておかねばならない。
過ぎ行く時の流れに身を任せることもできずに、ただ―――――存在する。
一つの固定概念のように存在する。それだけの存在。
それが―――――彼女たちである。
「妹紅。もしかして貴方また昔みたいに死にたがりになっているんじゃないでしょうね?」
「断じて違う」
きっぱりと即答されて、輝夜はほっと胸を撫で下ろした。
「よかった。またあんな状態になられたら面倒臭くてかなわないわ」
「うるさいな」
「なら、なんでこんな当たり前のことを聞いたの?」
「……」
ふっと、妹紅は目を細めた。
脳裏に浮かぶのは―――――今朝の光景。
「今朝。兎が死んでいたんだ。私の家の傍で」
「それで?」
「埋葬してやった」
「偉いじゃない。てゐに報告してあげるわ」
「別にいい」
「何?兎が死ぬのが可哀想だって言いたいのかしら」
「違う―――――死んだら、魂はどこに行くんだろうなって思っただけ」
魂。
命。
予想外の発言に輝夜はぽかんと呆気をとられ―――――やがて吹きだした。
「な、何がおかしいんだ」
慌てる妹紅に構わず、輝夜はふふふと声を洩らして肩を震わせる。
「妹紅。貴方って意外にロマンチストなのね」
「ロマンも欠片も無いと思うんだが……」
「そうね。魂はどこにいくか……考えたことがなかったわ。死ねば意識は途絶え、何も考えることができなくなる。それだけだと思っていたわ。まぁ幻想郷にはちゃんと死神が死者の魂を運んでくれるみたいだけれどね」
「……兎の魂もか?」
「さぁね。詳しいことはよくわからないわ。獣の魂はどこに行くのか」
「―――――月に行けると、いいのにな」
ふいに妹紅は空を見上げる。
竹林の切れ間から真ん丸の満月をわずかに見ることができた。
兎は―――――今日も月で餅をついているのだろうか。
「月?」
「兎は月を焦がれて跳ねるって聞く」
「……そうね。月は何の穢れも無く、平和なところ」
風がまた吹く。
輝夜の黒の髪と妹紅の白の髪が、夜闇にたなびく。
見上げるものは同じ―――――月。
かつての月の姫君。禁忌を犯して月から追放された罪人。
かつての人の子。蓬莱の薬を飲んで復讐にその身を焼いた蓬莱の人の形。
奇妙なことに、数奇な運命を共にした彼女は―――――同じ月を見上げている。
いくら手を伸ばしたところで、もう届かないものだけれど。
「兎は死んで。私たちは死なない」
あの兎は死んだ。
「そうね」
藤原妹紅も死んだ。
「当たり前のことだけれど、急に変なことのように思えたんだ」
蓬莱山輝夜も死んだ。
「妹紅―――――死ねないのはつらい?」
でも、ここにいる。
「―――――慣れたこと」
まだ、生きている。
背筋力だけで立ち上がった妹紅は伸びをする。
そして彼女らしい笑顔を輝夜に見せつけた。
「今が楽しけりゃ、それで満足」
「それはよかった」
輝夜もそれにつられて微笑んだ。
毎日のように殺し合っているはずなのに、顔を見合わせて笑える。
いったい―――――そんな関係になるまで、何百年の月日が必要だったのだろうか。
おそらく、二人は数えてはいないのだろう。
過去は過去として胸の奥にしまい、今は前を向いて生きているのだから。
死ねないなりに―――――希望を抱いて。
「変なこと聞いて悪かったな」
「構わないわ―――――ねぇ妹紅。今夜の月は綺麗ね」
満月。
望月の欠けたることもなしと思へば。
大昔、いつかの人は、過去の人は満月を見てそんな和歌を詠った。
完璧で、欠けている個所が無い。格別のもの。
「あぁ。そうだな」
まるで、蓬莱人のように。
まるで、不死者のように。
まるで―――――魂のように。
美しかった。
「今度私も兎の墓参りに行こうかしら」
「好きにすれば」
「手土産は何にしようかしら。お酒?」
「どうせなら食べ物のほうがありがたいんだけど」
彼女たちは今日も生きていく。
満月のように―――――欠けることなく。
―――――また明日。終わらない明日を待つように。