誰かの為に

 

※同人処女作の思い入れのある話です。

  三万文字近くあるので長いです。

 

 

―――――

 

 

愛は世界を救うと同時に世界を壊す  

 

 

 0

 

 

 大きな月が雲一つない幻想的な夜空にひときわ目立って瞬いていた。
 白い月。真ん丸の満月。
 全く欠けてなく、完璧で。完成している一つの天体。惑星を回る衛星。たった一つの道筋だけを繰り返し巡る最も近き旅人。
 見惚れてしまうほどの光を散らし、幽玄に瞬いている。 
 無限に終わりないように思えるほどの壮大な天球は数多の星々に飾り立てられ、まるで一つの巨大な宝石箱の様であった。
 あちこちに点在する星たちを小さな宝珠の粒と例えるのなら、月はそれらとは一線を画したダイヤモンドだろうか。それほどまでに目立ち、ひときわ魅力的なのだ。
そんな絵に描いたような夜の神秘のはるか下、鬱蒼と葉の多い木々が生い茂る怪しげで湿った森の中。一匹の蝙蝠は綺麗という単語だけでまとめてしまうには勿体ないほどの空を仰ぎ見ていた。
 円らな漆黒の瞳に、宇宙という名の天界で光り輝く天体を鏡のように映している。
 優しげに吹く風の音と、その風によって揺さぶられる草木の音以外は何も聞こえない。
 耳が痛くなるほどまでの静けさ。静寂そのもの。
 蝙蝠は何を思ったのか、翼を伸ばせば届いてしまいそうなほどの巨大な月に、文字通り翼を伸ばした。
 だが翼手目の特徴である骨格が露わになった羽は、すぐに地に落ちた。
 よく見ると翼は深く傷ついており、血が滲み、傷口には泥や砂といったものが混ざり込んでかなり不衛生な状態になっていた。
 それ以外にも全身がボロボロの瀕死状態であり、右足に至っては完全に折れてしまっている。
 しかも、その右の足には、鎖が繋がっていた。
 猟師が獣を捕らえるために仕掛けた罠だったのか、あらかじめ意図的に地中深くまでじゃらりとチェーンが埋め込まれている。引っ張っても抜けないようにするための細工だ。
黒光りする堅牢な鉄輪はとてもじゃないが蝙蝠に壊せる代物ではない。
 どうやらこの野生の蝙蝠は運悪くこのトラップに引っかかってしまったようである。
 傷だらけなのは何度も暴れて逃げ出そうとした形跡であろう。
 しかし、どれだけ激しく動いたところで鎖は千切れなかったのだ。
 体力は限界を迎え、疲弊に加えて体中に走る激痛が追い打ちをかける。
 蝙蝠は死にかけていた。
 すでに衰弱し始めており、もう十分ももたないかもしれない。
 死を待つだけの末路をおくることになってしまった蝙蝠の、かすれた視界に映る風景。
 穏やかな風にそよぐ、森の木の葉の向こうに窺える夜の幻想。  
 まるで写真たてに収まった写真のような光景。
 だけどもそれは静止せずに、ゆっくりと形を変えていく。 
 蝙蝠はつい先ほどまで、死を恐れていた。
 全力で抗おうとしていた。
 でも、何故だか今はひどく心が落ち着いていた。
 二度とあの星の海を泳ぐことはできないのだという悲しい事実が覆せないであろうことも、いつしか受け止めていた。
それにどちらにしても、自分は助からないということはわかっていた。
 ナイフで突き刺されているかのような苦痛は、だんだんと麻痺してきている。
 痛覚だけではなく五感全てが、だんだんと遠のいていく。
 恐怖も、焦燥も、絶望も、空を見つめていたら薄らいで、安らかな気持ちになった。
 蝙蝠は最後に自分の大好きな夜空を見ることができて幸せだと、心から思った。 
 そして目裏に自分が恋する夢のような景色を焼き付けて、目蓋を閉じて自分の生涯に幕を下ろそうとした途端

「お前もこの景色が好きなのか」

 誰かの声が、かすかに聞こえた。
 蝙蝠はもしかしたらこの声は神様の声なのかもしれない、と錯覚する。極限状態で耳にした声はひどく神々しく感じたのだ。
 自分を天国に連れて行ってくれる、偉大なる神に。
 わざわざこんな所まで迎えにきてくれたのかと、胸の内にこれ以上にない感謝の気持ちが湧き上がる。
 蝙蝠は声無き声で答える。

〝はい、神様。私はこの景色が好きです。この美しい夜空に――――私は恋しています〟

 蝙蝠は夜の動物。
 神のごとく壮大で、雄大な夜の空に憧れ、恋い焦がれるのは当たり前のこと。
 それはもはや本能とも呼べる、敬愛。心酔。讃美。
 狂おしいほどの、愛。 

「……ヨは神などという大したものではない。しかし……そうか。お前もこの空が好きか」
 蝙蝠は暖かな涙を零し、精一杯微笑む。
 頷くことはもう出来なかった。
「お前も――――恋をするのだな」
 その意味は良くわからなかった。
 だけど、ふわりと神の手に抱え上げられたということは、眠たくなった蝙蝠にでもわかった。
 暖かい手。
 ぬくもりのある大きな手。
 まるで、胎動する世界のよう。
 蝙蝠にとっては初めての感覚。
 こんなにも優しく、愛しい暖かみは今まで一度たりとも感じたことがなかった。
 神様の力。
 足枷はガラスの割れるような透明感のある音と共に跡形も残らず消滅し、蝙蝠は解放され自由の身となる。

「――――生きろ」

 死んではいけない、と神は言う。

 蝙蝠は、自分は死後の世界に送られるのではなかったのかと、不思議そうに思った。
 靄がかかった視界に、神の姿がシルエットだけ確認できた。
 だんだんとぽかぽかしてくる体。
 痛くて痛くてたまらなかった体の傷が、癒えていく。鋭い痛みが水に溶けるように消えていく。
 だけど眠たくて、眼を開けていられない。
 眠りに落ちる瞬間まで、蝙蝠の瞳に映っていたものは夜空を隠して空を覆った神の姿。

 そして、この蝙蝠は
 次に目を開けた時は夜の幻想ではなく、自分の命を救ってくれた神のごとく存在に恋をする。

 

 

 ◆


 
 1

 

 懐かしい夢を見た。

 ナスタシアはベッドの上で眼を覚ましてすぐに、自分が昔の夢を見ていたということを察した。
 寝室の天井に視線を向けているが、意識は全く別方向に向いており、脳裏には今さっきまで見ていた夢の内容が展開されている。 
 とても懐かしい記憶。
 まだ自分がただの蝙蝠で、自分がこの世界で誰よりも忠誠を捧げている存在と出会った時の話。  
 忘れたことがない、大切な思い出。
――――何故今になって……。
 ただの夢にしては随分とリアリティがあった。
 どんなリアリティであったかは説明しがたい。
 夢で見た内容をうまく、そして尚且つわかりやすく言語に変換して、言葉として表現するのは非常に難解なのだから。
 とにかくナスタシアは自身の過去の記憶を客観的に観るという不思議な体験を初めてし、少なからず動揺していた。
 まるで過去にそのままタイムスリップして、当時と同じことを行っていたかのような、奇妙な感覚。
 しかも、内容が内容だった。 
――――あの時の、夢。
 嫌なことを思考しそうになり、ナスタシアは我に返って慌てて首を振る。 
 ひとまず上半身だけ起こして、胸まで掛かっていた毛布を横にどかす。 
 まだ完全には覚醒しきっていないぼんやりとした意識を覚ますため、ぺちっと軽く頬を叩く。
 すると、手に何か水のようなものが付着した。
 不審に思い、ナスタシアは何かが付いた手を顔の前に持っていく。
 透明な、雫。
――――涙。
 ナスタシアは、涙を流していた。
 夢を見ながら、泣いていた。
――――伯爵様……。
 ナスタシアは胸が締め付けられるような思いを痛いほど感じながら、手をぎゅっと握る。
 震える肩だけは、抑えようがなかった。
 室内のカーテンが風になびく。
 薄い布と窓の外は、朝日に照らされた街と雲一つない蒼穹が広がっていた。

 

 ♪

 

――――あの時、私は何も知らなかった
 毎朝の日課であるシャワーを浴びながら、ナスタシアは自分の今までを振り返る。
 忘れていた記憶を少しずつ呼び戻していくように、厳重に保管されていた貴重な書物を緊張とともに読むようにゆっくりと。
――――助けられてすぐに、私は伯爵様に部下にしてくれるよう頼んだ
 あれからナスタシアは命を救ってくれた恩人に惹かれるようになった。
 この方の御傍にいて、お役にたちたい。
 この方の所望すること、願うことを全て叶えてあげたい。
 この方の為になれるような存在に、なりたいと。
 そう強く望んだ。 
 我ながらしつこいやつだ、とナスタシアは自嘲気味に笑んだ。
――――しつこく何度も頼んで許しもらい、私は主従の契約を結んだ。そして、この姿になった。
 ナスタシアは契約を交わし、頼んだ。
 自分を人型にして欲しい。この蝙蝠の姿では、貴方様の為に尽くすことができない、役に立てない、と。 
 最初は拒んだ伯爵であったが、やがてそれを受け入れ、彼女に魔法をかけた。
 永遠に解けない、禁断の変化の術を。 
 二度と元の姿には戻れないというリスクを背負い、ナスタシアはその身を変えた。
 無力の蝙蝠ではなく、伯爵に魔力を与えられた赤髪の女性に。  
――――伯爵様と主従関係になってこの姿になったけれども、私は社会というものについては無知だった。
 ナスタシアは元野生の蝙蝠で、人気のない森に暮らしていた。  
 弱肉強食の世界を生きていたのであり、あたりまえだが社会の常識など全くもって知らなかった。
 会話だけは何とかかわせたが、身の回りのことなどは当初ほとんど何もできなかった。
 あの時のナスタシアは無知であり、人型になった瞬間に今までの生き方をがらりと変えなくてはいけなくなったのだ。
 だから生きていくために必須な知識は全て主人であるノワール伯爵から学び、成長した。
 ナスタシアが相当の知識を持ち、マナーも弁えられる立派な人物となれたのは全部伯爵のおかげであるといっても過言ではない。
 否、そうとしか言いようがない。
――――今思うとすごい恥ずかしいことね……常識も知らなかったのだから
 水に濡れてより濃くなった赤色の髪の先端を摘まみながら、溜息をつく。
 だいぶ伸びた髪は、すでに肩よりも下のラインを越えていた。
 水滴がバスルームの床を叩く。
――――最初は、バスタブの使い方さえ知らなかったもの
 子供でもわかるあたりまえのことがわからなかったナスタシアは、伯爵のお役にたちたいと望んでこの姿になったのだが、実際は伯爵に迷惑をかけてばかりだった。
――――だけど伯爵様は私を捨てないで傍に置いてくれた。
 どんなに失敗しても、伯爵はナスタシアを見捨てなかった。
 ちゃんと部下のままでいさせてくれた。
 自分の思いには、振り向いてはくれなかったけれども。
 何故なら、伯爵には心から愛する女性がいた。
 その女性の名は、エマ。
 ナスタシアはずっと昔からその名前を知っていた。
 一番最初に伯爵の部下になったがゆえ、伯爵の目的も望みも全て知っていた。その名前がいかに重要なキーであるかということも、あますことなく。
 自分がいくら伯爵に思いを寄せても、それはかなわない一方通行の者であると、初めからわかっていたのだ。
 それでも少しでも伯爵のサポートができるのならと、ナスタシアは彼に御供することを決断したのだ。
 自分の恋は叶わなくてもいい、伯爵様が幸せになってくれるのならば、それでも良いと。
 ずっと、そう割り切っていたつもりだった。
 だけど、それは最後の最後に狂った。
 今まで押さえてきた思いが土砂崩れに巻き込まれて崩壊した砦のように止まらなくなったのは、今から一月ほど前。
 混沌のラブパワーの力によって滅びかけた世界を守るために伯爵が犠牲になった、あの時。
 世界の崩壊を食い止めるために、伯爵はエマと永久に終わらない愛を約束して、消えた。
 その時に、ナスタシアの心の奥底の何かが、砕けた。
 もう、どこにもいない。
 ナスタシアの主人はナスタシアが恋する伯爵は。
 いない。
――――あの方はもういない。私はいったいどうしたら。
 眼が熱くなるのを感じたナスタシアははっとして、乱暴に目を擦った。
 また泣き出しそうな弱い心を叱責し、シャワーを止める。 
――――泣いてはいけない
 この一か月で、何回この言葉を自分に言い聞かせてきたのだろうか。
 それは本人でも数えるのをあきらめるほどの回数であろう。
 ナスタシアは、伯爵の為に生きてきた。
 伯爵の為だけに、己の全てを捧げてきた。
 伯爵が望むのならば、どんなことでも迷わず行った。
 たとえ伯爵に死ねと言われたら、喜んで死ねる。
 ナスタシアはそこまで、伯爵に忠義を尽くしてきたつもりだった。
 それほど尊敬し、愛していた存在であったのに。
――――これも、夢のせいだ。
 忘れたい。
 忘れたくない。
 忘れてはいけない。
 ナスタシアはいったい自分がどうしたいのか、わけがわからなくなってしまっていた。
 こう悩むたびに、胸が張り裂けそうになり泣きだしたい衝動に駆られる。
 情けない、とナスタシアは自虐的な笑みを口元に浮かべた。だけどもそれは笑顔には遠く似つかない、苦しげなもの。
――――結局私は、伯爵がいなければ何もできないじゃない。
 バスルームからでて、清潔なタオルで体と髪を拭く。
 いつも通りに髪を乾かしてから、ブラシで梳かして高い位置に結い上げる。きめ細やかな絹を思わせる長髪は口紅のように艶やかだった。
 髪を整えバスタオルを外し、籠に入れていた服をとり、着替える。
 着なれたスーツ。
 ナスタシアは寝間着以外はこの服しか決して着ない。
 それはいつでも伯爵の秘書として、威厳を保つためのおまじないのようなものであったから。
 でも今はこの衣装を着続ける意味などないに等しい。
 だけどナスタシアは伯爵がいなくなった今でも、呪縛に囚われ続けているかのようにこの服だけを着続けている。
 ぴっちりしたスーツは、ナスタシアにはよく似合った。
 そして最後に赤縁の眼鏡をつける。
 伯爵がプレゼントしてくれたこの眼鏡は、ナスタシアの大切な宝物であり、心の支えとも言えた。
 これをかけているから、人前で泣かずに済む。
――――伯爵様はもういないのに。私はまだ伯爵様の為の格好をする。
 鏡に映った自分は一般から見ればとても整って別嬪なのかもしれないが、自分から見たら全然そんな風には思えなかった。
 ナスタシアは前に一度だけ、伯爵にエマ……伯爵がこの世で一番愛していた女性の写真を見たことがあった。
 写真に柔らかな笑顔で映っていたエマは、美しかった。
 それこそ、ナスタシアとは比べ物にならないほどまでに。
 鏡に映った自分は、エマには勝てない。
 そんなことをぼんやりと考えていた自分を、ナスタシアは恥じた。
――――また私は、エマ様と自分を比べている。
 勝てるわけなどないのに。
 割り切っていたはずなのに。
 それに、もう全て終わったことなのに。
 伯爵が愛していたのは、自分ではなく、エマ。
 所詮ナスタシアは、彼の部下にしか過ぎない。 
 ナスタシアは受け入れていたつもりだった。
 自分は伯爵の幸せを祈って、応援をするつもりだったのに。
 でもいつもどこかに、その思いに反抗する自分がいた。
 エマ様ではなく私を愛して、と望む浅ましく醜い自分が。
――――嫌だ。
 ナスタシアは鏡から眼を逸らし、半ば逃げるように洗面所を後にする。
――――私は……私は何を……。
 糸屑が絡み合ってしまったかのように、意味不明になってしまった自分の気持ちが制御できず、震える手で扉を閉める。
 もう何もかもが嫌だった。
 伯爵がいない世界。
 主人が存在しない世界。
 生きていると必死に信じ続けても、信じ切れていない自分は確かにここにいる。
 例え無事生き延びてくれていたとしても、彼はおそらく二度と現れることないだろう。
 色のない毎日。
 それはたまらなく苦痛で、幸福も何もなかった。
 いつだって空っぽで、どこか乾いていた。 
 伯爵がいなくなっても、世界は回り続ける。
 朝は来るし夜も来る。
 時間は刻一刻と過ぎて、戻らない。
 変わらない。
 何も変わらない。
 ……否、変わっていないのは
――――私だけ?
 自分以外の仲間達は、だんだんと現実を受け止めてきている。
 でも、自分だけは何も受け止めきれない。
 信じられない。
 否定したい。
 否定して否定して、何もかもが嘘だと言ってほしい。
 これもまた夢で、自分は悪夢を見続けているのではないのか。
 だとしたら早く目覚めなければ。
 目覚めなければ、目覚めなければ、目覚めなければ! 
――――伯爵様のいない世界なんて、滅んでいるのと……同じ……
 あぁこれが悪い夢なら、きっとこんなに女々しい私も、幻で終わってくれるはず。 

 

 ♪

 

「ナッちゃん!」
 ドアをノックする音にどこか遠くに飛んでいた意識が呼び戻される。
「ナッちゃん起きてる?朝ご飯できたわよ!食べましょうよ!」
 お世辞でも品性のあるノックとは言えない乱暴な打音が連なる。あんなにも激しく叩いてよく扉が壊れない、ものだ。
 ナスタシアはあまりのうるささに耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、これも毎朝のことである。
こんなドアの叩き方をする人物を、ナスタシアは一人しか知らない。 
そして、ナスタシアのことを「ナッちゃん」という愛称で呼ぶ者は、この世界には一人しかいない。
「ちょっと聞いてるの?起きてるの?ナッちゃん返事してよ~!」
「き、聞こえてるわマネーラ。だからそんなに乱暴に扉を叩くのはやめなさい」
 返事を返した直後、向こう側からの連続ノックはぴたりとやんだ。
「なんだ起きてるじゃない。なんですぐ返事返してくれないのよ~。シカトされてるのかと思ったわ」
「ごめんなさいね……ちょっと立て込んでて……」
 部屋の扉を開けると、向こう側にはマネーラが仁王立ちで立っていた。
 モノマネ師マネーラ。
 ナスタシアと同じ、ザ・伯爵ズのメンバーの一人。
 どんな姿にでも変身できる力を持った少女。
 もっとも、少女と言ってもそれは外見だけで、年齢はナスタシアよりもずっと上だろう。詳しい詳細は知らないが、それだけは確かなことである。だけどその割に言動や行動は子供のように幼く感じるが、それも彼女の性格及び個性の一つなのだろう。
 本人も年齢をさらけ出したくはないのか誰にも告げていない。少なくとも親しい間柄であるナスタシアでさえも知らない。
 出自や出生も不明だが、そんな不明集団が集まって結成されたザ・伯爵ズなので、年齢不詳ぐらいどうしたことでもない。
 とにかくナスタシアとマネーラは、主軸を失った伯爵ズの女性メンバー同士、かなり仲良しである。
 朝食などの呼び出しのさいに、マネーラは必ずナスタシアの部屋までわざわざ来てくれるのだ。 
「いつも本当にわざわざごめんなさい」
「そんな謝らないでよ!アタシとナッちゃんの仲じゃない」
 得意げに胸を張って、マネーラはその場でくるりと身軽に一回転する。ふわりと膨らんだ純白の裾がバレリーナの衣装のように可憐に見えた。
 今朝の彼女の服は白いレースのワンピースで、胸元につけられた赤いリボンが可愛らしさを主張している。 
 ナスタシアと違ってマネーラの洋服は数が非常に豊富であり、同じ服を二度来ていたことがいまだ確認されていない。彼女は相当のおしゃれ好きなのだ。
 ナスタシアが部屋から出てくると、マネーラはにっと笑った。 
「ま、い~わ。じゃあご飯食べに行きましょう!今日は力作よ力作!アタシが手によりをかけて作ったんだからね!楽しみにしてなさいよナッちゃん!」
 マネーラは、前と変わらない眩しい笑顔を見せてくれる。
 それに引き替え、ナスタシアの微笑はどこかぎこちない。
 マネーラはまだナスタシアが自分の気持ちに整理をつけていないことをわかっているのか、何も追求しない。
 今まで通りの関係のまま、通してくれている。
 ナスタシアはそれに深く感謝していた。
 今、過去のことに触れられたら、きっと自分はどうかしてしまう。
「行こう!」
「えぇ……」
 マネーラの勢いに乗せられ、楽しそうにはしゃぐ彼女の背中を歩いて追いかける。
 彼女を見てナスタシアは思う。
 どうして伯爵様がいなくなってしまったというのに、あんなにも明るく笑っていられるんだろう、と。
 思考して、瞬間腹を切って自害したいような、今すぐ消えてしまいたい、そんないたたまれない気持ちに苛まれる。 なんてひどいことを考えているのだろうか、自分は。
 ナスタシアは舌を噛み千切ることもできず、ぐっと手を握りこんで拳を作り、自分に対する憎悪を堪えた。 
「ナッちゃん、どうしたの?」
 マネーラが待っている。行かなくては。
 ナスタシアは重々しく廊下へと一歩を踏み出した。
 差し込む日差しが鬱陶しくて、マネーラに悟られぬように拭いきれない光を払った

 

 

 ◆

 

 

 2 

 

 コントンのラブパワーの影響によって、伯爵ズ全員が住居にしていた暗黒城は根こそぎこの世界から消滅してしまった。
 その為、残されたドドンタス、マネーラ、そしてナスタシアは他の場所に移住しなければならないという状況に陥り、一時期はてんてこまいであった。
 結局、マネーラはサンデールの館に住まうことに決まり、彼女に誘われてドドンタスとナスタシアもそこで暮らすことになった。
 サンデールはしょっちゅう留守にしており、部屋も余るほどあるので狭くて大変~という問題は一切なく、むしろ快適で暮らしやすい生活をおくれる環境はしっかりあった。
 マネーラ曰く「このままサンデールが帰ってこなければいいのに~へへへ。だってそうなったらこの屋敷はぜ~んぶ丸ごとあたしたちの物よ!」である。
 毒舌で何に対してでも厳しい評価を付けるマネーラがここまで気に入る建物であるということは、この屋敷は大層立派なものなのだろう。
「ナッちゃん!これあたしの新作よ」
 マネーラとナスタシアはキッチンにいた。
 キッチンもまた豪勢で、設備万端な様子であり、何よりもとても広い。
 マネーラはダイニングテーブル(これもまたでかい)の上にせっせと自分が調理したものをのせていく。
 暗黒城時代の彼女は料理など全くしなかったが、サンデールの屋敷に住まうようになってからは進んで行うようになったのだ。
 本人は「イケメンを惹きつけるには料理ができたほうがいいと思ったの~」と語っていた。
 以前、伯爵ズ全員のご飯を作っていたのはナスタシアであった。
 最近めっきり料理をしなくなったナスタシアと入れ違いで料理をするようになったマネーラに、ナスタシアは若干の申し訳なさを抱いていた。
 マネーラは「イケメンのため」だとか「趣味」だとか言っているけれども、本当は皆の為に努力しているのではないのか。
 そして、ナスタシアはマネーラに無理をさせているんじゃないのかと、悩んでいた。
「はい!どうぞ~」
 屈託のない笑顔には、苦しいという感情は見えない。
 むしろ、とても陽気そうである。
「ありがとうマネーラ――――だけど」
 ナスタシアはマネーラの作る物は好きであり、特に好き嫌いもない。
 だけど、今朝のメニューはちょっと顔をしかめるものがあった。
 触れるだけで壊れてしまいそうな繊細な皿の上に乗っているのは、ケーキ。
 ふわふわとした生クリームがたっぷりで、赤く熟した苺に彩られた、ショートケーキ。
 軽いシフォンケーキならともかく、朝っぱらからショートケーキというのはいささか不釣り合いであろう。
 本来ならばこれは三時のおやつの時間などに出てくるものではないのだろうか。
 しかもショートケーキ単品だけという。
「朝からショートケーキっていうのは……」 
「あ~ごめん。急に食べちゃくなっちゃって。たまにない?突然あれが食べたい~!って思うの」
「わからなくはないわ」
「だからごめんね。もし嫌だったら……」
「いいえ、とても美味しそうよ。それに、せっかくマネーラが作ってくれたんだもの」
「ありがとう~!あ、御代わりいっぱいあるからね!どでかいホールで作っちゃったからあまるほどあるよ」
 マネーラとナスタシアははにかんで、席に着く。
 二人ともまずティーカップを持って、ハーブティーを飲む。
 これもマネーラが調合してくれたものだ。
 爽やかな風味は朝にピッタリであり、味もとてもよかった。
 マネーラはそのあとすぐに子供のようにわくわくした表情で、フォークでケーキを小さく刺して口に運ぶ。 
「あ~美味しい~♪アタシって才能あるのかも~」
 幸せそうにほっぺに手を置いて顔をほころばせる。
 ナスタシアもそれに続いてショートケーキを口に運ぶ。
 たちまち口内に甘いクリームとちょっぴり酸味を帯びた苺の味が広がる。
 甘さにわずかなすっぱさがアクセントして、すごく美味しかった。
「美味しいわ」
「本当!?よかった!ナッちゃんに褒められたってことはやっぱりアタシ……天才!」
――――そんな大層な存在なんかじゃないのに。
 ナスタシアは心の中でしゅんとする。
 ケーキはとても美味しいが、朝からでは結構重たい。
 ただでさえ朝は小食なナスタシアには、一つ完食するのが精いっぱいだろう。
「……そういえば、ドドンタスは?」
 ナスタシアは正面でむぐむぐと咀嚼しているマネーラに問いかける。
「あいつならどうせもうじき起きてくるでしょ。いちいち起こしに行っても起きないから面倒くさくなっちゃって。この中で一番寝るの早いくせに一番起きるのが遅いなんて……とことんアイツらしいわ!」
 ケーキの欠片を刺したまま、マネーラはタクトのようにフォークを振る。
 苛立ちを含んだ言葉を吐いてすぐに、口の中にそれを放り込む。
「それもそうね……」
 ナスタシアはそれきり黙りこみ、スローなテンポで食事を続ける。
 しかし食事と言っても、様子はまるで機械的に食物を体内に取り込んでいるようにも見えた。
 ほとんど変わらない表情はさながら真っ白な仮面を思わせる。
 仮面。
 本音を隠す、道化の武器。
 かつて伯爵ズのメンバーだった、つねに本心と正体を隠し続ける道化師ほど上手いものではなかったけれども。
「ナッちゃん。もしかしてあんまり気に入らなかった?」
「え?」
「ケーキ」
「そんなことないわ。ごめんなさい態度が悪かったわ。やっぱり私、朝は苦手なのね。ケーキはとても美味しいわ」
 ナスタシアは申し訳なさを露わにして、ケーキを食す速度を上げる。
 何かに焦っているかのように、怯えているかのように。この沈黙の状況から早く逃げようともがいているかのように。 
「……」
 そんなナスタシアを見てマネーラは何を思ったのか、半分ほどケーキを食した途端、フォークを置いて彼女の顔をじっと見つめる。
 急にまじまじと凝視されてしまい、ナスタシアは戸惑ってしまう。
「な、なにかしら?私の顔に何かついてる……?」
「……ナッちゃん」
 急に先ほどまでの可憐で明るい表情は真剣そのものに変化しており、口ぶりも落ち着いている。
 割といつもおちゃらけてハイテンションな彼女にしては稀な様子。
 ナスタシアは思わず身構えてしまう。
 すでに意識はテーブルの上のケーキではなく、目の前に座るモノマネ師に向けられている。
「ナッちゃん……もう、もういいんじゃない?」
「え……」
 いったい何がいいのか、その言葉だけでは理解できない。
 マネーラの長い睫が表情に陰を落とす。
 何故だか悲しそうに、マネーラは続ける。
「伯爵様のこと……もう、いいんじゃない?」
「!」
 ナスタシアは驚愕し、口元を両手で反射的に覆ってしまう。
 〝伯爵様〟という単語を出されただけで、ナスタシアの体は自然に震える。 
――――何を……!
 今朝の夢を見た直後の時のような気分の悪さが、再びここで舞い戻る。
 ナスタシアのあきらかな動揺に、マネーラも少なからず罪悪感を覚えているようであった。
 しかし、それでもやめない。
「だって……伯爵様がいなくなってから……ナッちゃんずっと様子がおかしいもの。アタシやドドンタスが呼びかけなかったら部屋からも出てこないし、ご飯だって食べないし……いつもいつも追い詰められてるみたいで……アタシ、もうそんなナッちゃんのこと見てられない!」
 心拍数が急上昇する。
 胸を鷲掴みにされた気分。
「伯爵様がいなくなって悲しいのはわかるよ!だってアタシもドドンタスも悲しいもん!でももう……過ぎたことよ……それに……伯爵様は、エマさんと……幸せになってくれたはずよ……!」
 マネーラの叫びが、ひりつくように耳にこびり付いて残る。
 目尻が熱い。
 眩暈と共に揺らいでいく視界。
 やけに冷たい汗が背中を伝う。
 伯爵様とエマ様。
 もうどれだけ足掻いたところで、とどかない存在。
「ナッちゃん……もう……もうやめよう?ナッちゃんは過去にしがみついてちゃだめだよ……このままじゃ壊れちゃうよ……」
―――やめる?

 やめる?ヤめる?ヤメる?ヤメル?

 伯爵様は、私の〝全て〟なのに?
 伯爵様がいなくなった今、私は―――

「……や」
 自分の物とは思えない、かすれて嗄れた声がもれる。 
「いや……」
 否定するように首を横に振って、耳をふさぐ。
「伯爵様は……私にとっての……!」
「もういいの!ナッちゃんはナッちゃんだよ!そのことで苦しむ必要なんてないのよ!」
「でも……私は……私は……!」
「……ッ!いいかげんにしてよっ!いつまで過去のこと引きずってんのよ!ナッちゃんこのままずっとそんなんでいいの?落ち込んだままでいいの?」
「――――……私にとって、伯爵様は全てだった。その人はもうこの世界にはいない。どこにもいない……」
「確かにそうだけど……!だけど!」
 これは、ナスタシアの本音だった。
 正真正銘、紛れも無い、本当の気持ち。 
「伯爵様のいない世界なんて……――――もう〝世界〟じゃない……」
「――――っ!」

 パァン!

 ナスタシアは自分の右頬に物凄い衝撃を感じた。
 じんわりと広がった痛みの正体が――――マネーラのビンタであったことに気が付いたのはだいぶ後だった。
 身を乗り出したナスタシアを打ったマネーラは、肩を上下させて潤んだ鋭い眼孔でナスタシアを睨んでいる。
 テーブルからティーカップとケーキののった皿が音をたてて落下して、染み一つなかったカーペットを汚す。
 淹れ立てで湯気たつ紅茶は台無しになり、甘美なスイーツもぐちゃぐちゃになった。
 ぐちゃぐちゃの、ずたずたに。
 まるで今のナスタシアの心境のように。
「そんなこと言って……!まだそんなこと言って……ッ!!」
 マネーラは怒っていた。
 確実に激怒していた。
「馬鹿!!せっかく伯爵様とエマ様が命と引き換えに守ってくれたこの世界に対してなんてこと言うのよ!アンタのその言葉じゃ――――まるで伯爵様たちはそんな価値の無い世界の為に消えちゃったみたいじゃない!」
 その言葉が氷のナイフのように、ナスタシアの胸に突き刺さる。
 あまりに鋭利な言葉の刃に、息ができなくなる。
「伯爵様たちがああでもしてくれなきゃアタシ達みんな死んでたのよ!どうしてそれがわからないの?馬鹿じゃないの!」
 ナスタシアはふらりと椅子から立ち上がった。
 打たれた頬はじんじんと腫れあがり、赤くなってしまっている。
 だけどその痛みさえろくに感じず、ナスタシアの意識はどこか遠かった。  
「それに――――伯爵様はナッちゃんをそんな風にしがみ付かせたいだなんて!思ってないわよッ!」
――――自由に
 ナスタシアの脳裏に、あの時の夜空が浮かび上がる。
 かわした主従の契約。
 主人の命令に従い、命を懸けてでも守る。
 主が飢え乾けば己の血肉を捧げ、主が喜べば共に喜びを分かち合い、主が悲しめばその悲しみを全て受け止める。
 主人の為に存在する。主人の為だけに存在する。主人の為だけに生きる。
 主人を失えば、自分も死んだのと同じ。
――――嫌だ。
 ナスタシアはぎゅっと自分自身を抱きしめるように腕を交差させる。
 がたがたと寒冷地のブリザードの中を彷徨っている者のように、震えていた。
 恐怖なのか、それとも憤怒なのか、表情は歪み、皮が破れて血が滲むほどまで唇をぐっと噛んでいる。
――――嫌だ。嫌だ。嫌だ!
 声にならない叫びを上げて、ナスタシアは正面にまで迫ってきていたマネーラを突き飛ばした。
「きゃあ!」
 突然のことに対応できなかったのか、受け身さえ取れずマネーラは尻餅をつく。
 鈍痛に気をとられ、反応が遅れる。
 はっとした時にはもうナスタシアは駆けだしていた。
「ナッちゃん!どこ行くの!」
 マネーラの呼び声も無視して、ナスタシアは部屋から逃げるように飛び出した。
 いたたまれない気持ちに支配されながら、全力で駆ける。
 扉を乱暴に開けて、廊下に飛び出す。
「っ!」
「うおっ!」
 そこでナスタシアは何かと衝突し、盛大に転んでしまう。
 しかし本当に痛覚が遮断されてしまっているのか、まるで痛みを感じない。
「いてて……ん?ナッ……ナスタシア?」
 ぶつかった相手は、たった今起きてやってきたドドンタスだった。
 大柄の武人に小柄なナスタシアが打つかってもちっとも影響はないようで、しっかりと床に足をつけてバランスをとっていた。
「だ……大丈夫か?」
 床に突っ伏しているナスタシアに、心配だけども若干緊張気味に手を差し伸べる。
 しかしナスタシアは弾かれるようにその手を振り払った。
 乾いた音が廊下に響く。
「!」
 ナスタシアは立ち上がって、脱兎のごとく全力で走り去っていく。
 彼女の目はドドンタスという存在を一瞬たりとも捉えていなかったのか、振り返ることさえしなかった。
 あまりに唐突なことに混乱するドドンタスは動けず、ただ茫然とその後ろ姿を目でおくる。
 その後方で
「ナッちゃん待って!」
 というマネーラの尋常ではない大声が聞こえた。 
「あ……朝からいったい何事だ?」
 ドドンタスは訳のわからなさに頭上にクエスチョンマークを出す。
 だけど、それが非常に一大事なことであるというのは確かであろう。
 それだけは賢くないドドンタスにも充分把握できた。
 
 今にも泣きだしそうな表情をしたナスタシアの様子だけで、わかってしまった。
   
 ♪

 

「ナッちゃん!ナッちゃぁぁん!」
 とっくに見えなくなってしまったナスタシアを呼び止めようと、マネーラは必死に喉を張り上げて走っていた。
 すでに開け放たれていた扉を通り、方向転換して廊下を駆けようとした瞬間に、ぽかんとしているドドンタスに激突する。
「きゃぁ!」
「ぬおっ!」
 今度はマネーラと正面衝突したドドンタスはなんとか足を踏ん張り、転ばずに済んだ。
 そして反射的に自分と比べたらずっとずっと細いマネーラの腕をなるべく優しくつかんで、転倒しないよう支える。
「あ、あれ……ドドンタス?」
 腕を掴まれてつま先立ち状態のマネーラは、今更気が付いたかのごとくドドンタスを見上げる。
 そして「しまった!」と顔を引きつらせる。
「起きてたの?」
「ど、ドドンッとその通りだが……いったい朝から何事だ?」
「……」
 怪訝そうなドドンタスの視線に、マネーラはとっさに眼を逸らしてしまう。
 言いづらそうに口をもごもごと動かし
「腕、離してよ」
 いたたまれない気持ちを含んで、無理やり冷たく言い捨てる。
「待て。お前……ナスタシアに何かしたのか?」
 ドドンタスは言われたとおりにはせず、マネーラの顔を覗き込んで追及する。
 それにマネーラはびくっと身を震わせ、急に火がついたように暴れだした。
「違うわよっ!バカッ!」
「おっおいコラ!暴れるな!」
「バカバカバカバカ!ああもうどうしてアタシの周りのやつらってどぉしてこんなにバカな奴らが多いの?」
「ま、まさかそのバカの中にドドンッとオレも入ってたりするのか?」
「あたりまえじゃない!アンタが身近なやつの中で一番頭悪いもの!」
「失敬な!こ……こう見えてオレさまも前までは一国の将軍だったんだぞ!」
「アンタみたいなバカでよく勤まったわね!」
「にゃ……にゃんだとおおぉ!」
 ぎゃあぎゃあと口論はいつしか喧嘩までに発展し、マネーラに至っては訳のわからないことを叫びながら罵声と悪口を飛ばす。
 だいたい三分ほどその言い争いは続いた。
「とにかく!お前はナスタシアがああも猛ダッシュで走っていったわけをドドンッと知ってるんだろ!」
「うっ」
 ドドンタスのこの発言が決定打となったのかマネーラは明らかに図星して、ギクッとする。
 わなわなと唇をしばし震わせて、うつむく。
「う、うううう……うるさいわね!アンタには関係ないでしょ!」
 声を荒げて、マネーラは瞳を陰らせる。
 ドドンタスの見間違いでなかったら、その眼には負の感情が宿っていた。
「女同士の話に、首突っ込まないでよ!ていうかいいかげん腕放しなさいよっ!」
「いいや、話すまで、放さん!」
 マネーラの眼が、さらに悲しみで潤む。
 今度はドドンタスもそれを見逃さなかった。
「ギャ、ギャグ言ってんじゃないわよ!お願いだから、ほっといてよ!」
「ほっとけんっ!」
「!」
 無視できない迫力と、覚悟が混じった言葉に、マネーラは驚く。
「女の同士の話だかなんだかよくわからんし知らんが……オレさまは、ナスタシアとお前の……〝仲間〟だ!」
「……!」
「だから放っておくことなんかできん!……あんなに泣きそうな顔をしたナスタシアを見るのは、伯爵様がいなくなったあの時以来だ。あの時からずっと心を閉ざしたまんまのあいつを、あれ以上放っておけない!―――――きっと、お前もナスタシアの心を癒そうと、何かしたんだろ?」
「……」
 マネーラは何も答えなかった。
 ドドンタスは続ける。
「それに――――泣いてるお前を放っておくことなど、できん」
 マネーラは、泣いていた。
 ポロポロと潤んだ眼から涙をこぼして。
 それを拭おうともせず、マネーラはただただ、悲しみの証とも呼べる水を流す。
 勝気で高飛車で意地っ張りな性格の彼女が泣くのは、ナスタシア以上に珍しいことかもしれない。
 彼女は、伯爵がいなくなった時は、泣かなかった。
 マネーラが泣いたのは、伯爵に自分の存在を認めてもらえた時だけ。
 きっと本当は、あの時もわんわん泣き叫びたかったに違いない。
 それでも悲愴に嘆かなかったのは、ナスタシアを励ますためだったのだろう。
 自分が悲しみに暮れるのではなく、悲しみに暮れる自分の大切な仲間を少しでも元気にさせるために。
「なによ……」
 マネーラの口から出たのは、嗚咽の混じった涙声だった。
「アンタなんかに……言われたくないわよそんなこと……っ」
「悪かったな」
「……アタシ、ナッちゃんがどれだけ伯爵様が好きだったってこと……よくわかるから……ッ……だって……だってアタシも……――――伯爵様のことが好きだったから……!」
 マネーラは、伯爵に恋をしていた。
 ナスタシアと同じように、惚れていた。
「……」
「アタシだって、アタシだってあの時泣きたかったのに……!アタシだって……今のナッちゃんみたいに心を閉ざして引き籠ってたかった……!伯爵様がいなくなっちゃっただなんて、アタシ耐えられなかった!」
「そうか……」
 マネーラがずっと心にため込んでいたことを聞いて、ドドンタスは反論一つせずに頷く。
「でも、もう伯爵様はどこにもいない。そんなこともういやでもわかっちゃってるから……!だからいつまでも……いつまでもうじうじ悩んでちゃ仕方がない!って思ってて……!アタシも、もう伯爵様のことを引きずるのはやめたくて……でも、それ以上にナッちゃんに苦しみ続けてほしくなくて……!だけど、ナッちゃんは伯爵様が本当に好きで、大切に思っていたのに、この思いをずっと引きずり続けてなくちゃ生きていけないって……!もういいんだよっ!って言っても……駄目だった……!ナッちゃん……このままじゃ嫌な気持ちを溜めこみすぎて、パンクしちゃうよ!」
「……」
「だから、だから……ッ!」
 泣きじゃくるマネーラの叫びは、それ以上言葉にならなかった。 
 ドドンタスは黙って、そっとマネーラの手を握ってあげた。
 モノマネ師の細くて小さな手と、武闘家の太くて鍛えられた手が、重なる。
 そのままマネーラは泣き続けた。
 今まで抑えてきた感情が一気に溢れ出てきて、制御できなくなってしまったのだろう。
「――――アタシ……」
 やっと喋れるようになったのは、十五分ほどたってからだろうか。
「ナッちゃんを……――――助けてあげたかった」
 ぽつりともらしたその言葉に、ドドンタスは迷いなく返事をする。
「そうか――――だったらまだ間に合う」
「でも……どうしたらいいの……?教えてよ……っ!こんなのアタシ、全然わかんない!」
 伝えようと思っても、伝わらない。
 マネーラはずっと螺旋階段を上り続けるようにぐるぐるぐるぐると、堂々巡りを繰り返していた。
「オレさまにも、そんなことはよくわからない。でも……これだけはわかる」
 ドドンタスは半ば強引に、泣き腫らして目を赤くしたマネーラを引っ張って廊下を進む。
「――――ドドンと信じ続けろ」
 その言葉にマネーラははっと顔をあげる。
 ドドンタスはにっと歯を見せびらかすように豪快に笑んだ。
 涙で潤んだ瞳が、一筋の光を映す。 
 そして最初はされるまま状態のマネーラだったが、やがて自分の足で歩きはじめる。
 依然として目からは雫が零れ落ちているが、それでもちゃんと進む。
「うん……」
 ちょっとだけ微笑んで、ドドンタスから手を離してもらう。
 そして少し恥ずかしそうに、目を擦って顔を赤らめ
「こんなアタシ……今だけだからね」
「ドドンッと承知している!」
 そんなマネーラに対してドドンタスはなんてことなさそうに快活に笑う。
「……ていうか、気安くアタシに触んないでくれる?アンタはただでさえ汗臭いんだから」
「今更言うことか?」
「それに……――――アンタは本命のナッちゃんと手を繋いでラブラブしてればいいのよ!」
「!」
 いきなり予想外のことを言われたので、ドドンタスの顔はみるみるうちに紅潮する。
「な、ななななななな何を言って……!」
「いいかげんそろそろナッちゃんに告白すれば~?」
「こっこここっこっこっここここ告白ゥ?まっまままままままま待て!そもそもなんでお前がオレさまがナスタシアに惚れてるってこと知ってるんだ!」
「わかりやすいからバレバレよ!」
「ぬうううううううッ!!」
 顔が今にも火を噴きそうなほど真っ赤になったドドンタスは、自分の頭をポカポカと叩く。
「オレさまの馬鹿!オレさまのアホ!オレさまのドジ~ッ!」
「あはは!応援してるわよ」
 珍妙な光景を見て笑うマネーラは――――元通りの元気を取り戻していた。
「……ド、ドドンッと感謝する!」
 叩きすぎていたくなった頭頂部をさすりながら、ドドンタスは照れながらも礼を言う。
「と、とにかく!ナスタシアをドドンッと探しに行くぞ!」
「わかってるわよ!」
 そのまま二人は走り、サンデールの館の玄関を目指し始める。
 「ありがとう」と走りながらマネーラは小さな声でドドンタスに言った。
 「仲間なんだから当たり前だ」と、ドドンタスは嬉しそうに返した。

 

 

 ◆

 

 

 3       

 

 何かに躓き、ナスタシアは思い切り地面に叩きつけられる。
 乾燥した固い土の天然道はコンクリートとまではいかないがかなりの硬質であり、そこに受け身無しで体を打ち付けるとなるとかなりのダメージを受けるであろう。
 側頭部を打ったナスタシアは脳を揺さぶられ、しばらくの間身動きが取れなくなる。 
 しかし動けないというのは激痛のあまりでではなく、ただ単純に脳が安定して平衡感覚が取り戻せなかったからである。
 ナスタシアは痛みをほとんど感じていなかった。
 ここに来るまで数回は何かにぶつかったり転んだりしてそこらじゅうに傷を作っているが、呻くことさえしない。
 ここにきて彼女は何かに到達してしまったのか、痛覚を存在しない概念の如く、感じていなかった。
 むず痒い程度の感覚はあるだろうが、そんなものでは彼女をセーブできない。
 すぐに立ち上がってまた走り出す。何のために疾走しているのか、本人にももはやわからなかった。
 無意識に、無自覚に、確信的などというものはどこかに投機されていた。離散されていた。
 命令を実行する冷徹な機械のマシンのように、ただただ前へ前へと突き進む。
 目の端にいくつかの色とりどりの扉が映った気がした。それらを越えて、いくつかの小次元を渡ったような気がする。それもまた、他人事のように遠い確証だったけれど。
 どのくらい時間が経過したのかも定かではない。
 彼女は森の中をひたすら進んでいた。 
 黙々と、妨害してくる草木を掻き分けもせず、枝で皮膚が切れて補足血が流れても気にせず。憑りつかれたように延々と。
 空気は森特有のマイナスイオンのすがすがしい香りではなく、どことなく湿気って重い。森の奥に向かっていくたびに、大気の重々しさはより一層悪化する。
 地面から露出していた樹木の根に、ナスタシアは足を引っかける。
 急激なブレーキをかけられてバランスが崩れ、そのまま本日数回目の転倒。
 今度は衝撃で赤縁眼鏡が弾けるように飛ぶ。
「……う」 
 低く声を洩らして、ナスタシアは這うような形で一メートルほど離れた場所に落下した眼鏡の弦を摘まむ。
 黒ずんだ土を払ってから少しだけ傷がついてしまったレンズを指先で軽く拭く。大切な宝物を扱うように、慎重に、丁寧に。
 綺麗にしてかけたところで、ようやくナスタシアは自分がボロボロの状態であるということに気が付いた。
 服はところどころ破れ、土に塗れて汚れており、そこらじゅうに細かな掠り傷ができていた。多少の打撲もしているのか腫れてしまっている個所もあった。
「……」
 だんだんと眠っていた痛覚が呼び覚まされ、蘇ってくる。
 明確とした痛みにナスタシアは思わず呻いた。
 特に左肩の痛みがひどい。押さえてみると温かな感触が伝わる。たぶんこれは血だろう。溢れてきている。いつ怪我したのかは思い出せない。何でやられたのかさえ不明だった。
 苦痛に耐えながらナスタシアは今更ここが森であるということに気付く。
同種の木が立ち並ぶ森の日当たりは最悪であり、周辺は夜のように暗い。
どちらにしても今が何時なのかを把握する手段は、彼女にはなかった。
名称も存じない謎の森で独り座り込むナスタシアは、ぼんやりと昔のことを思いふけっていた。
このじめじめした感じが、何の手も加えられずに自生している植物の種類が、生まれ育った故郷に似ていると。 
「……」
 どうしようもない喪失感が、ナスタシアの胸を満たした。
 そっと肩口から手を外し、目の前に持っていく。
 混じりけ一つない深紅の液体が手に付いている。
 赤い、紅い、朱い、あかい、あかい、魂の流れ。
 案の定、予想通り血だった。
「何してるのかしら、私」
 血から目を逸らして、ナスタシアはとても小さな声でそう自問する。
 自答は、できなかった。
「馬鹿みたい」
――――我を忘れて、こんな場所まで逃げてきてしまうだなんて。 
 周囲を見渡すが、どこも同じような薄暗い景色でもちろん人っ子一人いない。
――――二人に、迷惑かけてしまった。
 ドドンタス。マネーラ。
伯爵様がいなくなってしまったことに、あの二人も私と同じように悲しんだはず。
 だけどそれを受け入れて、真っ直ぐ前を向いて生きている。
 うじうじして下を向いている、自分と違って。
「……本当に、私は伯爵様がいないと何も、できないんだわ」 
ナスタシアは泣きだしたい気持ちを抑えて、目蓋を乱暴に指先で擦った。
 ずきりずきりと、傷が疼くように痛みを訴える。
「――――帰らなくちゃ」
 帰ってちゃんと、謝ろう。
 馬鹿みたいに逃げ出して、ごめんなさいって。
 ナスタシアは木にもたれてふらつく体を起こし、何とか立ち上がる。
 足をくじいてなかったのが幸いか、歩くことはできそうであった。
 体力はひどく消耗していて、走るのは困難そうであったが。
 身を引きずるようにナスタシアは歩き出す。
 ここはどこなのか了解が付かない。
 少なくともサンデールの館の周辺でこんな森は見かけたことがない。
 どれほどの長時間を無心で走り続けたのだろうかと、ナスタシアは呆れ、心の中で自分を叱責する。
勘にも近い昔の本能と、風の流れをひたすら追いかけて、ゆっくりと進む。
〝伯爵様はナッちゃんをそんな風にしがみ付かせたいだなんて!思ってないわよッ!〟
 先ほどマネーラに言われたことが、深々と胸を刺す。
 ナスタシアもわかっていた。
 伯爵が自分をそんな風にしがみ付かせたいだなんて、欠片も思っていないことを。
 そもそも、伯爵は、と。
――――伯爵様は、私を必要などしていなかった。 
 やろうと思えば伯爵は、一人でも予言を執行できていた。
 そんな伯爵に配下ができ、ザ・伯爵ズなどという一つの組織が誕生したのは、メンバーの皆が伯爵のカリスマ性や魅力、新たな世界を創造できる強大な力を得ていたことに惹かれ、憧れ、尽くしたいと思ったからだ。
 伯爵は最初から仲間をつくろうだなんて考えてもいなかった。
 ナスタシアはただ単に誰よりも速く最初に、伯爵に従うことを望み、懇願しただけ。
 つまりは、無理強い。
 伯爵は一人でも世界を滅ぼせた。
それで充分のはずだったのに、そこにナスタシアが最初に割り込んだ。
――――伯爵様にとって、私など、どうでもいい存在でしかなかった。
 世界を捧げるほどまで愛していたエマとは、格が違う。
 そもそも世界が違う。
――――私は、エマさまのようになれない。
 何度も何度も、未練がましく思いめぐらせたこと。
 それの答えはずっと前から、とっくに出ていた。
―――――何故なら、格が違う。段違いなのだから。
 皮肉気に、思考する。
――――それでも私は、伯爵様の為に、お役にたちたかった。傍にいたかった。必要にされなくてもいい。あの方の為なら、私はなんだってできた。
 伯爵がいなくなった今。
 ナスタシアは、何もできない。
「伯爵様」
 伯爵様。
 どうして私を、置いて行ってしまったんですか。
 貴方の為ならば、地獄の底までお供しますのに。
 どれほどの不幸な災難が襲いかかろうが、構いませんのに。
 ……。 
 でも、いいんです。
 貴方様がエマ様と幸せになることを望んでいることはわかっています。
 私は嬉しいです。
 伯爵様の願いが叶って、伯爵様が幸福になれて、とてもとても祝福したいのです。
 自分のことのように、喜ばしいのです。
 伯爵様がエマ様と平和な生涯を共にしてくれていることを、心の底から望んでいます。
 だけど何故でしょう。
 お二人の幸せを望んでいるはずなのに、どこかでそれを妬んでいる私がいるんです。
 伯爵様を独占されたことに対する嫉妬なのでしょうか。
 わかりません。
 私は恐ろしいです。
 自分が惨めでありません。
 伯爵様にはもう、私など必要ではないでしょう。
 もともと必要としていなかったのですから、今はなおさらいらないものでしょう。
 伯爵様が生きていたとしても、死んでしまっていたとしても。どちらにしても。
 ならば私はどうしたらいいのでしょうか。
 伯爵様の為だけに生きてきた私が、伯爵様を失った今、何のために生きていけばよろしいのでしょうか。
 生きる理由が見つかりません。
 生きなければならないという義務感がまるで湧きません。
 自分の存在意義がわかりません。
 伯爵様。私にはわからないのです。見当が付かないのです。
 こんな思いをずっとずっと味わうくらいならば。
 私は消えてしまいたい。  
 伯爵様とエマ様の姿を、きっともう直視できない。
 そんな下賤で浅ましい、どうしようもない、私。
 だったらいっそのこと。
 
 いっそのこと――――?


――――答えは、すぐそこに在った。

 

 

 

 ◆

 

 4

 

「この写真に写っている女性はどなたですか?」
 いつの日か、私はそう質問したことがあった。
 伯爵様がマントの下から落とした古めかしい写真には、見たことのない美しい女の人が伯爵様と一緒に笑顔で映っていた。
 伯爵様もこんな風に笑うのだなと、初めて知った瞬間だった。 
「どこでそれを見つけた」
 伯爵様の声はいつもより語気が強く、どことなく切迫しているように思えた。
「伯爵様がたった今落とされたので、拾ったのです。申し訳ありませんすぐに返します」
 写真を手渡すと、伯爵様は丁寧にそれをマントの中にしまった。
 表情こそ変わっていなかったけれど、どことなく安堵しているようにも見えた。
 あまり深入りしてはいけないことなのだろう。
 伯爵様は目論みは語っても、自分のことは決して語らない。私もそれを心得ている。
 だけども何故だか気になった。
 伯爵様と一緒に、あんなにも眩しい笑顔で映っていた女性のことが。無償に。
「お知り合いの方ですか?」
 平静を装って尋ねてみる。
 伯爵様はしばし黙って、少しだけ悲しげに答えてくれた。
「……彼女は、エマ。私の――――」
 そこまで言って、伯爵様はそれきり立ち去ってしまった。
 女の人、エマ様は伯爵様とはどういった関係なのだろうか。
 やはり気になって仕方がなかった。
 肉親にしては顔が全然似ていない。種族が違うのだから当たり前だ。
 どうしようもない探究心に背中を押され、私は調べた。
 伯爵様にばれないよう息をひそめて、暗黒城の隅から隅まで手がかりを捜索した。
 そして見つけたのは、一冊の日記だった。
 長い間空気に触れられていなかったそれは黄ばんでいて、埃が積もっていた。
 記入者。日記の持ち主は伯爵様で間違いない。 
 私は若干の罪悪感に邪魔され、躊躇してしまったが、それでも日記を開けてしまった。
 書かれていた内容は、当時の私からしてみたら衝撃的だった。
 誰かへの純粋で直向きな愛を綴った、日記と言う名の膨大な恋文であったのだから。
 これは伯爵様が書いたもので、エマ様に宛てたものであるということはすぐにわかった。
 その日一日、一緒に過ごしたことや、あえなくて寂しいこと、心から愛していること。そう一体化に日常のことから 自身の秘めている思いまで。いろいろなことが手書きで記されていた。
 伯爵様がエマ様に恋しているのかが一目瞭然だった。
 文章は書き手の心を映す。
 まさにそれが実感できた。  
 だけどその一冊全てが幸福に満ち溢れたものではなかった。
 最終のページに近づくにつれ、どんどん内容が暗く淀んできていた。
 どうやら伯爵様のご両親がエマ様にひどい仕打ちをしたらしい。それはページを進むごとに悪化し、エスカレートしていた。
 伯爵様の字は乱雑なものになり、エマ様を傷つけたことに怒りや憎しみをぶちまけていた。
 そして最終ページ。
 私はこの日記を読んでしまったこと、手に取ってしまったことに、後悔した。
 全てを締めくくる一枚は、もはや文章や文字と呼べる類のものではなく―――― 
 絶望に身を蝕まれた、独りの男の復讐劇の始まりを、これ以上にないほど明確に、意味していた。 
 私は日記をもとの場所に戻して、逃げるようにその場から立ち去った。
 発汗がひどく、不快。
 涙が止まらない。
 息が苦しいけど、足を止めない。  
 私は知らなかった。
 伯爵様のことを何も。何も。
 私の命を救ってくれた神に等しい存在のことを、全くわかっていなかった。
 伯爵様は苦しんでいる。
 伯爵様は嘆いている。
 伯爵様は。
 伯爵様は。伯爵様は。伯爵様は。伯爵様は。
 伯爵様は。伯爵様は。伯爵様は。伯爵様は。
 伯爵様が黒のヨゲン書を使って何をするのかは、もう理解している。
 今の穢れた世を滅ぼし、新たな平和な世界を創造すること。
 伯爵様はそう言っていた。
 でも違う。それは嘘だ。偽りだ。
 本当は伯爵様は、エマ様を否定したこの世界そのものに復讐する気なのだ。
 新世界など伯爵様の眼中になどない。
 あの方は、世界を敵と見なして予言を実行するつもりなのだ!
 させちゃいけない。
 そんなことさせちゃいけない。
 そんなことしたからといって、エマ様が報われるわけではない。報われるはずがない。
 伯爵様もまた、救われない!
 そんなことは駄目だ。
 そんなことは認めない。
 止めなくては。
 止めさせなくては。
 伯爵様にそんなこと、させてはならない!
 仮に世界を滅ぼしたところで、絶対に誰も幸せになどならない!
 でもどうやって?
 どうやって止めればいいの?
 私。
 私風情が。
 伯爵様の側近でしかない私が。
 どうやって。
 ……。
 私が。
 私がエマ様の代わりになれれば。
 伯爵様の、心を変えられるのではないか。
 エマ様のように。
 エマ様のように。
 エマ様のように、なれれば。
 運命は切り開けるのではないだろうか。
 きっと。
 きっと……!

 

 ♪

 

「そんなこと、できるわけがないのに」
 ナスタシアは森を抜けた先の切り立った崖の上で、風を全身に感じながら立ち尽くしていた。
 崖下は真っ暗で、底知れない奈落の入り口のよう。
 暗黒の口がナスタシアを誘惑するように、ますます色を濃くする。
 空はとうに日が暮れていて、曇天に覆われた夜空からは星は窺えなかった。
「――――月」
 だけども雲の合間から、月だけは認識できた。
 月。月。夜の主。夜の王。夜を支配する輝き。
 欠けていない、完璧な円。
 満月。
 生きている素晴らしさを生まれて初めて知り得た時の月と、同じ。
 ナスタシアにはそれはどのように映ったのだろうか。
――――伯爵様がいない世界。
 妖絶なほどまでに美しい月を見つめながら、ナスタシアは一歩を踏み出す。
 重々しくはない、軽やかとした決定的な一歩を。
 足元の地盤が緩み、少し削れて砂石を転がす。
 ナスタシアは気にしない。見向きもしない。
 じっと、月明かりを浴びながら光源だけを見続ける。
 道しるべを探し求めるように。
 それは奇しくも、数年前に罠にかかって死にかけていた蝙蝠の姿に、酷似していた。
――――伯爵様にはもう、エマ様がいる。
 ぎゅっと胸の前で祈るように手を組んで、ナスタシアは目を瞑った。
――――あの方はもう、苦しまなくてもいい。
 自分では伯爵を救えなかった。
 エマだけしか、伯爵を救えなかった。
――――だったら。 
 だったらもう、いいじゃないか。
 エマのことを妬ましく思うのも、考えるのも。
 自分を惨めで醜く思うことも、考えることも。
 最初から伯爵の幸福を願っていたのだから。
 これでいい。
 これでいいのだだ。
 儚げに微笑む。
 晴れやかには程遠い。笑い顔。
――――だったら私はもう、いらない。
 最初から不必要な存在だったのだから。
 伯爵はナスタシアがいなくても生きていける。
 ナスタシアは伯爵がいなければ生きていけない。
 簡素で簡易で、簡単で、悲しい結末。
――――いらない。
 恨んで妬んで僻んでばかりで、泣いてばかりの自分なんて。
 この世界には、いらない。
 おもむろに両手を広げてみる。
 蝙蝠時代とは違って、ちゃんとした人型の腕だ。
 ……飛べる?
 飛行機関が付いていない肉体だけども、今なら飛べるような気がした。
 昔のように。
 何も考えていなかった無垢なあの頃のように。
 夜空を飛行できるのではないのか。
 ……飛べる。
 確信めいた意思をそのまま脳裏に縫い付けて、もう一歩踏み出す。
 闇の淵のぎりぎりまで。限界まで。
 綱渡りの綱のど真ん中に立っているかのような、言い表せない感覚。
 生きているということを、実感できる。 
 そして、切れる。
 綱も糸のように、ぷつりと。
 脆く呆気なく。
 それと同時に体感する。 
 風に乗って。
 飛ぶ瞬間に爽快感を。
 長い間忘れていた、羽ばたきを。
――――さよなら。
 そしてごめんなさい。
 私は蝙蝠で。
 人のままでは、生きていけなかったんです。

 

 ♪

 

「駄目だぁぁああああ!」
 がくんと手首に体重がかかった。
 はっとして目を開けると、両足が支えを失ったからくり人形のようにぷらぷらと振れていた。
 地面を踏んではいない。
 浮かんでいるというよりは、静止している。
 目下には今にもナスタシアを飲み込んでしまいそうな闇が広がっている。
 首を動かして上を見上げると、そこには見慣れた顔があった。
 毛量のある無精髭。逞しい腕。
「何考えてるんだナスタシア!」
 ドドンタスだった。
 だらだら汗をかきながら、必死に落下寸前だったナスタシアの手首を掴んでいた。
「ドドンタス……」
 意表を突かれたあまり、ナスタシアは驚くよりも先にぽかんとしてしまっていた。
「今引き上げる!待ってろ!」
 手首だけに体重が乗っているので、非常に痛い。
 今にも千切れてしまいそうだ。
「手を伸ばせナスタシア!早く!」
 自由になっているもう片方の腕は、ナスタシアの脇にぶら下がっている。
 伸ばせばドドンタスにしっかり掴んでもらえるだろう。
 だけどナスタシアはあえてそうしなかった。
「……て」
「ナスタシア?」
「放して……!」
 泣きだしそうなほど表情をゆがめて、ナスタシアは叫んだ。
 抑えた声ににじみ出た悲鳴は、あまりにも痛々しかった。
「駄目だナスタシア!馬鹿なこと考えるな!」
「放して!私はもう……もう、いらないのよ!」
 口調を荒げて、愕然とするドドンタスを睨みつける。
 かすれた声で、悲痛そうに叫ぶ。
「伯爵様はもうどこにもいない!それに伯爵様にはエマ様がいる!だったら私はもう、いらないじゃない!」
 伯爵が好きで。
「伯爵様がいなければ私は生きていけない!」
伯爵に恋していて。
「伯爵様の為にしか私は生きていけない!」
伯爵を愛していた。
「でも伯爵様がいないのなら!私を必要としないのなら!」 
だけど伯爵が愛するのは他の人。
 自分ではない。
 そして、もう必要ともされない。
「だったらもう!死ぬしかないじゃないッ!」 
伯爵の為だけに生き続けていたナスタシアにとって、それがどれほどのショックであるか。
 絶望か。
 計り知れない。
「これ以上妬んだり僻んだり、自分を惨めに思ったりするのはもう嫌!私の生きる意味がもうわからない!こんな思いのままで生きていくぐらいなら……私……私……!」
「ふざけるなっ!」
「!」
ドドンタスから発されたのは、怒声だった。
武人は武者震いのように、身を震わせていた。
「いらない?お前が……いらないだと……?そんな馬鹿なことがあってたまるか!」
 ぽたりと、ナスタシアの頬に水滴が落ちた。
 それがドドンタスの涙であるということに気が付くまで、ナスタシアはしばし時間を有した。
「この世界に必要ではないものなど誰一人いない!オレもお前も!皆皆必要な存在なんだ!なのに自分はいらないだとか、死ぬしかないだなんて言うなぁ!それに、伯爵様はお前をそんな風に斬り捨てるようなお方ではない!」
「ドドンタス……!」
「仮にもし!お前が伯爵様から必要とされなかったとしても!お前のことを必要としてくれているやつは絶対に、必ずいる!現にオレ様はお前が必要だナスタシア!」
「……!」
「お前がいないと駄目だ!駄目なんだ!伯爵様に必要とされないのなら、オレがお前を必要としてやる!だから……だから生きろ!」
 ドドンタスは喉を張り上げて、渾身の呼びかけをする。
 ナスタシアを引き留めようと、全力で。
「命ある限りは生き続けろ!途中で投げ出してはいかん!断じてだ!」
「そうよナッちゃん!」
 宙を彷徨っていた片腕が、針金のように細くて黒い足に引っかけられる。
「アタシだってナッちゃんのこと大好きで、ナッちゃんはアタシにとって必要不可欠な存在なの!」
 マネーラだった。
 頭蓋の表面を破って蜘蛛の足を出しながら、マネーラは笑う。
きしきしと頭部から歯車が噛み合う機械仕掛けの音が響く。
「だから生きて!約束したじゃない一緒にイケメンハーレムリッチでウハウハな世界を作るって!アタシとナッちゃんなら絶対にできるわ!」
「マネーラ……」
「この通りだナスタシア!お前はオレ様やマネーラに必要とされているだろ!お前は生きてもらわなくちゃあ困るんだ!」
「伯爵様がいなくても頑張れるわよ!それにねナッちゃん。もう伯爵様のことだけを考えなくても……いいのよ!ナッちゃんはもっと自分のことに目を向けてみるべきだよ」
「でも、私は……」
「だったらいっそのことナッちゃん。自分の為に生きてみなよ!」
「え……!」
「誰かの為とかじゃなくて自分の為に!」
「そうだナスタシア!誰かの為とかじゃない。自分がどうしたいかを考えるんだ!このままお前は本当に死んでもいいのか?こんな終わり方でお前は……報われるのか?」
「報われ……」
「アタシは!アタシとドドンタスはナッちゃんに……ナッちゃんに幸せになってもらいたいだけなの!本当の笑顔を……取り戻してほしいだけなの!ナッちゃんの為ならアタシ達ができる限りのことをするわ。ナッちゃんの為に頑張りたいって思ってる!ナッちゃんを悲しませたくなんかないって思ってるわっ!アタシ達が支えたいの。ナッちゃんのことを支えてこれからもザ・伯爵ズとして頑張っていきたいの!だから……だから死ぬなんて駄目!絶対に許さない!ナッちゃんがいなかったら誰が秘書やるのよ!」
「お前は……お前は我らザ・伯爵ズのメンバーのナスタシアだ!オレ様たちのかけがえのない仲間だ!お前は伯爵様の従者だけの存在なんかじゃない。れっきとしたオレ達の仲間だ!」
二人の言葉に、ナスタシアはほろりと目から一筋の涙を伝わらせた。
 ナスタシアはほとんど考えたことがなかった。
 伯爵様以外のことを。
 特に、自分のことを。
 自分はこんなにも大切にされていたんだということに。
 気が付くことさえも。
「ごめんなさいドドンタス、マネーラ」
 ナスタシアはぽろぽろと涙を零しながら、嗚咽の混じった嗄れた声で、言う。
「私、自分のことなんて考えたこと、なかった」
 いつも伯爵様のことばかり考えていた。
 それだけを糧に、今まで生きていた。
 それを聞いた二人は顔を見合わせて、にっと笑んだ。
「「だったらまだ生きてないと駄目だ」」
 掛け声とともに、ナスタシアは引き上げられる。
 地に足をつける。
 生きている。
 左胸の鼓動は止まっていない。
 ちゃんと正常に動いている。
 生きている。
 ナスタシアはわっと声をあげて泣いた。
 堪えようともせず、子供の様に大声で。
 初めてこの世界に生まれ落ちたかのように、わんわんと。
 産声をあげて。 
 そんなナスタシアをマネーラは抱きしめる。
 ドドンタスは優しく見守る。
「ごめんなさい」
 責任に囚われ続けた元蝙蝠は泣きじゃくりながら謝罪する。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 ぽたぽたと止めどなく溢れ出る雫が、きらきらと煌めいた。
 星のように。
 満月のように、真ん丸な感情の粒。
 愛しき存在と巡り合った、あの夜の幻想を思い出させる。
「貴方達は、傍にいてくれてたのね」
 伯爵じゃなくて、伯爵ズ。
 この二人はいつだって、傍にいてくれた。
 厳しく突き放しても、拒絶しても、一緒に寄り添ってくれていた。
 いつも、ずっと、傍に。
 伯爵しか見ていなかったナスタシアを、それでも支えようとしてくれていた。
「気づけなくてごめんなさい。ごめんなさい」
「何言ってるんだ」
「何言ってんのよ」
 二人は声を揃えて、決め台詞のように爽やかに言ってのけた。
「「仲間なんだから、あたりまえだ」」
 差し出された手を取り、ナスタシアは立ち上がる。
 長らく身を縛っていた鎖が、解けたような気がした。
 それは不思議なことに、罠の足枷を外してもらった時と、とてもよく似ていた。

 

 

 ◆

 

 5

 

「さぁ行くわよナッちゃん!」
「え、でもちょっとこれ派手すぎじゃない?」
「ちょっと派手なほうが可愛いのよ!いいから行くわよ!」
「きゃあ!」
 カーテンで引かれた室内から押し出されて、ナスタシアは転びそうになりながらもなんとか足を踏ん張って廊下に出た。
 赤毛の長髪がふわりと尾をたなびかせる。
「おぉ?」
 外で待っていたドドンタスが、突然の登場に驚く。
 何よりも普段とは明らかに違うナスタシアの格好に吃驚していた。
「イエーイ!」
 ナスタシアの後に跳びだしてきたマネーラが、ドドンタスに自身を見せつけるように躍り出る。
「大変身!可愛いでしょ~?」
 二人はお揃いの衣装を着ていた。
 淡い彩りのフリルが多めのドレスワンピースである。
 マネーラはノリノリだが、ナスタシアは恥ずかしそうに赤面している。
 珍しく髪を下ろしており、背中に髪がかかっている。
「ほらナッちゃんもって自信持って!そんなんじゃイケメンハーレム作ったときに大変よ?」
「だ、だって……こんな恰好したことがなくって……!」
「んも~何言ってんのよ!ナッちゃんは可愛いんだから何着ても似合うわよ!ほら実際ドドンタスは見惚れてるし!」
「んなっ!」
 穴が開く程ナスタシアに見惚れていたドドンタスは顔を真っ赤にして、首をぶんぶんと振った。
「ち、違う!断じてそんな……えっと……その……ただオレ様は……ド、ドドンッと似合うなぁと……思っただけだ!」
「素直じゃないんだから~。それじゃあいつまでたっても……」
「あぁぁやめろ!ドドンッとやめろ!それを言うな!言うでなぁぁあい!」
「やめなさいよ汗臭い!汚い!いやぁばっちぃ」
「ばっちいとはなんだばっちいとは!お前は人のことをなんだと思っているんだぁ!」
ぎゃあぎゃあと取っ組み合いに近い言い争いになっている二人をぽかんと見つめ、ナスタシアはくすりと笑った。
「ナッちゃんは可愛いのよ!ドドンタス!」
「そのくらいわかっているに決まってるだろ!ナスタシアは……ドドンッと可愛い!」
 もはや喧嘩でもなんでもない、ナスタシアの可愛さをいかに言葉で言い表せるか対決になっていた。
「二人とも……ありがとう」
 ナスタシアが嬉しそうに照れながらお礼を言うと、二人は動きをぴたりと止めて
「ナッちゃんが可愛いのは宇宙の法則というかもうね……えっとまぁとにかくナッちゃんは可愛いのよ!これからもたくさんおしゃれしましょうね!」
「お前はもっとドドンッと自信を持ってもいいんだぞ!」
 と、笑いながら返してくれた。
 ふいにナスタシアは外の景色を窓から眺める。
 青い空。雲一つない蒼天。
 いつもと変わらないはずの風景なのに、何故だか真新しく感じる。
陰鬱だった気持ちが晴れたからだろうか。
二人の騒ぎを背中に、ナスタシアは思考した。
前までは考えることも苦痛だったことを。穏やかな心で。
――――伯爵様。
 かつての主に、告白するように紡ぐ。
――――伯爵様。私は言い訳をしてただけなんです。伯爵様がいなくなったことが悲しくて、自分に嘘をついていただけなんです。
 振り返ればそこには、仲間がいる。
 かけがえのない、唯一無二の仲間たちが。
――――私はもう、大丈夫です。皆が傍にいてくれるから、平気です。だからどうか、お願いします。
 祈る様に、胸の前で手を組む。
――――私が私の為に生きることを、許してください。
 音の無い風が吹いた。
 不可視の空気の流れが、ナスタシアの頬をそっと撫でた。

〝ナスタシア〟

 愛しい声が、聞こえた気がした。
「あ……」
小さな声に、マネーラとドドンタスは振り向く。
「?」
「ナッちゃんどうしたの?」
 ナスタシアは微笑んでいた。
 微笑んでいたけれども、涙していた。
 しかしそれは悲愴ではなく、喜びに近い、嬉し涙のようだった。
「どうかしたのか?」
「いいえ……なんでもないわ」
 目尻の涙水を指先で拭って、ナスタシアははにかんだ。
 彼女らしくない、だけども彼女らしい。
 可憐な乙女の破顔だった。
――――伯爵様。
 胸の内で、愛を伝える。
――――私は貴方のことを、愛していました。

 いつまでも、永遠に。
 この思いだけは、忘れない。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

〝私はお前に出会えて、本当によかった〟

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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