―――――天を貫く高き塔を建てた人間は神の怒りをかった。

―――――人間は高ければ高いほど身も心も思い上がる哀れな生き物だ。

 

 

 

 ◆

 

 

騎士と不死と黒き塔 二幕 逃走劇の始まり~黒き塔にて~

 

Ⅰ.少女の見た子羊の夢

 

 

 ◆

 

 少女の家は貧しかった。
 質素な生活は粗末と表しても問題ないほどに貧相で、数えきれないほどの苦難を抱え、不幸を背負っていた。
 今の時代ではそんな家庭はそれこそ山のようにあるのだが、少女の家はそのうちの一つだった。
 父親が早くに流行病で亡くなり、幼い少女を養う稼ぎ手は母親だけになっていた。
 母親は朝から晩まで毎日必死に働いた。少女のために、身を粉にして労働に励んだ。
 少女は自分が金を稼げないことをもどかしく思いながらも、母親に恩返しをするように家事をした。老朽化した狭い家を掃除し、僅かしかない食器を洗い、重い桶に水を汲み、少ない食材で献立を考えて料理をした。そのため少女の手も皮が硬くなり、赤く腫れては刺すように痛んだ。
 それでも少女は、母親の苦労に比べればこんな痛みなんて大したことないと堪えた。
 泣き虫な少女は周りの子供に苛められた時に泣くことはあっても、痛みで泣くことは決してなかった。幼いながらに懸命に耐え、母親のために少しでも尽くそうと健気な努力を続けた。
 満足に食事が取れないことも多々あろうとも、寒くて眠れない夜があろうとも、乗り越えることができたのは最愛の母親の存在が在るからという一言に尽きる。
 少女は母を心から愛していた。
 そして、母も少女を心から愛していた。
 二人は寄り添い合うように暮らし、お互いのために働き、お互いのために痛みを受けた。
 だから少女は幸せだった。
 母親がいれば、どんな苦しみでも我慢できると本気で思っていたのだから。

 だからこそ、少女は絶望する。

 あの日、あの時、街道の先で、馬車に、轢かれ、潰れた母の、赤い、姿を、見て。
 少女は―――――。

 

 

 ◆

 


~黒き塔六階。〝実験体監禁区画Ⅲ〟にて~

 


「……」
 背中に当たる硬い床の冷たい感触。遠くから間隔を開けて聴こえてくる水滴音。刺すように寒い隙間風。
 少女は牢屋で落胆と共に目覚める。
 仰向けの状態で目に映るのは晴れ晴れとした空には程遠い石天井であり、鼻腔をくすぐるのは甘い花の匂いでも焼きたてのパンの臭いでもなくカビと血と何かの腐ったような悪臭だった。狭い牢屋内は世辞でも衛生的とは言えないほど薄汚く、なまじ狭いものだから圧迫感も凄まじい。
 この悪環境にはすでに順応している、否、順応せざるを得なかったが、好きだと思ったことは一度たりともなかった。こんな場所は狂人でさえ受け入れ難いだろう。
 常時、どこかから死を恐れる断末魔や苦痛にのたうち回る絶叫がこだましている〝檻〟なのだから。
 それでも随分と長い間ここに閉じ込められていれば、自然と受け入れてしまう。受け入れるしかない。
 ここで生き残る最低限の術はそれしかないのだから。
「……何」
 またどこかで、誰かが〝実験〟されている。悲鳴が反響しては分厚い石壁に吸収される。
 いちいち反応するのも億劫になった少女は気だるげに起き上がる。 体の節々が痛んだが、体温をろくに移さない冷えた床で寝そべっているよりは幾分マシだろう。体からずれた毛布代わりの薄っぺらなおんぼろ布を適当に畳み、放るように脇に置く。
 耳に妙な違和感があった。何かが詰まっているような、零れそうになっているような、少々不快な感覚がこびりついている。
 ついに体の内側から異常が出てきてしまったのかと怯えつつも、恐る恐る耳の中に指を入れれば、ぬるりと湿っていた。
 その数十秒後に少女はようやく理解する。耳の中に入っていたのは伝ってきた涙であり、自分が眠りながら泣いていたことを。
「……」
 少女は自分が眠っている間に過去の夢を見ていたことを思い出す。
 幸せな思い出は最後には必ず壊れ、見たくも無い心の傷の片鱗を具現する。
 思い返すだけで再び溢れてくる涙はぽたぽたと滴り、囚人服の裾に染みを作った。
「泣いちゃ駄目なんだから。泣いちゃ、弱虫なんだから」
 泣いても意味は無いことは充分わかっている。泣いたところで誰も助けてくれないことは嫌というほどわかっている。それでも涙が出てくるのは自分が弱いからだと、少女は己を責めた。
 嗚咽を上げ、涙を拭いながら長時間同じ体勢でいたせいで痺れていた足を微動させれば、銀錆色の足枷の鎖がしゃらしゃらと音を立てた。 
 数枚先の壁から聞こえてくる獣じみた唸り声や、更に先の壁向こうから響く怨嗟の声を聴かないふりをして必死でやりすごしながら、少女は檻の鉄杭を握った。氷のように冷たいそれはじんと掌が痺れたが、強引に涙を止めるためにはそれなりに強行策が必要であるというのはここに幽閉されてから少女が身に着けた自論である。
「どれくらい、お外に出てないのかな」
 気の遠くなるような日々を孤独な閉鎖空間で過ごしてきたせいで、陽の光が恋しくなる以前にそもそも空など存在していたのだろうかと疑いだしてきてしまう。青空なんて本当はこの世界にないのではないか、そんなことまで本気で考え出してしまう。
 ここはあまりにも埃臭くて、血生臭くて、濁りの無い新鮮な空気が恋しくてたまらなくなる。
 尖った爪がかりかりと鉄杭を引っ掻いたその時、この区画の鉄扉が開けられる重い音が大きく響き渡った。
 突然のことに少女は心臓が止まりそうになるほど驚くが、声だけは洩らさないように慌てて口を塞ぎ、体の震えを懸命に抑えようと努力した。
 ついに自分も本格的に〝実験〟されるのではないのかと肌を粟立たせて息を凝らせば、不意に聞き慣れない怒声が少女の耳を貫いた。
(……男の、子?)
 それは幼い少年の声だった。
「こんにゃろ離しやがれ!大の大人が寄ってたかって、卑怯だぞ!血も涙もないド畜生め呪ってやるっ!」
 どうやら少年は〝看守〟に無理矢理引きずられているようで、布が床に擦れる音やいかにも抵抗音が生じている。
 少年は相当怒り狂っているようで、呼吸さえも忘れて間を開けずに次から次へと罵りや憤り、不満や文句をぶちまけている。罵詈雑言とはまさにこのことだろう。怖がりな少女からすれば無敵の守りを持つ〝看守〟にそんな無礼な発言ができるなんて、どれほどの命知らずなのだろうと、関わりたくないはずなのに気になりだしてしまう。
「いって!テメェ今俺様の足を踏みやがったな!?この伝家の宝刀でもある足を!絶対許さねえからなお前がくたばる前にいっぱつ顔面殴ってやるからな覚えてやがれ陰険貧弱野郎!」
 派手に暴れているのかかなりの間騒音が絶えなかったが、急にぴたりと止んだと思えば何かが床に叩きつけられるような音がする。その音の正体が牢屋に突き飛ばされた少年の落下音だと気づくまで、少女はしばしの時間を有した。
 がしゃんと牢屋の扉が閉められ、鍵がかけられる。音の位置から察するに少女の牢屋からかなり近い。
「おいコラざけんな!出せよ!出せ出せ出せ出せ出しやがれっ!俺様はこんな汚物臭そうな塵部屋でおねんねする気はねえぞ!貧民窟のほうが数十倍マシだぜこんなの、欠陥住宅!悪感住居!不快部屋!」
 威勢よく毒を吐きながら少年は喧しく扉を蹴飛ばしたり殴ったりしているようだが、無論だが子供の軟弱な腕力脚力程度ではびくともしない。それはすでに少女本人が実証済みである。
 〝看守〟は少年の引き留めを完全に無視して、すたすたとその場を立ち去っていく。遠ざかる足音にひとまず少女は自分が〝実験〟されることはなかったと安堵の溜め息をつく。
 すると少年は、突然動きを止めた。必然的に煩い鉄揺れの音を止む。
「なぁ、誰かいんのか」
  まさか自分のことではないだろうかと、驚きのあまり少女は肩を大きく上げてしまう。
「……気のせいか」
「き、気のせいじゃないよ」 
 久方ぶりに他者に向けて話したせいか若干声の調子がおかしかったが、少女は恐る恐る少年に向けて声を発した。
 幸いにも〝看守〟は他区域の見回りをしているか休憩をしているのだろう、この近辺には気配さえない。
「んだよ、いるなら早く返事してくれよ」
 少年はやれやれと言いたげに息を吐いたようだった。
 互いの姿形もわからないままだが、両者とも少々安心していた。会話できる者がいるだけで、精神的な苦痛は減少するものだ。
「貴方はだあれ。〝壊れて〟ない人……?」
 少女の素朴でいて最重要な問いに少年は「んん?」と疑問を露わにしつつ、すぐに答える。
「壊れてんのか壊れてないのかはわかんねえけど、少なくとも正気はあると思うぜ」
「よ、よかった……貴方は〝実験〟されていない人?」
「〝実験〟?今さっき体中弄られたのが〝実験〟だっての?変な外套着た奴ら、本当に趣味が悪いな。何度死んだことか」
「し……?」
 きょとんとする少女に、少年は「いけね」と呟いた。
「あー、何でもねぇ。それにしても久々に手酷くやられちまった。まさかここまでクソみたいな奴らだとは思わなかったぜ」
「大丈夫?」
「ん、ああ。心配しなくてもすぐ治るぜ。俺様はそういう性質なんでね」
 快活に笑っている少年に、少女もまた自然に微笑していた。自分がまだ笑えるだなんて、思ってもみなかった。
「お前もここに捕まってるんだろ?なら、ちょっとばかし聴きたいことがあるんだ。何せ俺様はいきなりここに連れ込まれたもんで右も左もさっぱりわかんねえんだ」
「う、うん……わかることだけなら」
 頷いた少女にありがとよと少年は礼を言う。


「……ラニャ」

「ん?」
「名前、ラニャっていうの」

 

 それが少女の名前であり、唯一の〝証〟であった。
 名乗られたのだと気づくと、少年も続ける。
「ラニャか。面白い名前だな。俺様はフランシスってんだ。ま、よろしく頼むぜ」
 数枚先の壁に隔てられ、鉄杭に妨げられている今は握手は到底行えないが、名前を教え合うだけで充分だった。

 一寸先は闇である現状、縋れるものなら何にでも縋りつきたかった。 

 

 

「うん。宜しくね。フランシスちゃん」
「ちゃんはやめろちゃんは!」



 

 

 全てはまだ、始まったばかり―――――。

 

 

 

 

 

次話へ(準備中) 目次へ