―――――彼はまだ知らない。彼女が存在する意味を。

 

 ◆

 

 天空は沈みゆく太陽の黄昏色に染まり、大地は痛ましい鮮血色に濡れ、数多の命が耐えている。
 世界の終焉をこれ以上に無く示唆するような眺望の中で、竜は涙に暮れている。絶望と悲痛に嘆いている。喉が破れ血を吐いても、叫び続けている。

 

―――――ああ、どうして、どうして。

 

 血の匂いが充満し、吐き気を催すほどの防魔の毒にむせ返りそうになる。
 血液、髄液、肉塊、骨片、内臓―――――二度と光を帯びることのない命達。
 人間も、竜も、皆一様に死んでいく。
 幾度と無く見た地獄絵図が、繰り返し脳裏で鮮明に蘇る。
 忘れるなと脅迫されるように。
 思い知れと罵倒されるように。
 
―――――どうして、貴女が死ななければならない。

 

 頬にそっと手が添えられた。
 熱い涙が伝う。
 貴女が弱々しくも美しく微笑む。
 最後に何かを囁いた。
 人間が殺到する。
 奪われる、穢される、尊い魂。
 絶叫。絶叫。絶叫!
 狂喜の叫びと狂気の争いが交じり合う。
 いつから世界はこんなにも変わり果ててしまったのか。
 長い長い氷の檻から解放されたところで、再びの苦界。
 
―――――死ぬのは私独りで充分だったはずなのに

 

 死ぬのは自分だけで構わない。
 この命で最愛の人が救えるのならば、喜んで差し出すというのに。

 突き刺さったのは何だ。
 劇毒の矢。
 命を狩り取る星からの〝死の宣告〟。

 

―――――私は何故逃げた?

 

 これは、呪いだ。
 永遠に許されない、罪の証だ。
 不死者は笑う―――――「なんとまぁ悲しい物語なのでしょうか!」

 

―――――殺してやる。必ず、報いを。

 

 翡翠の宝玉が煌めく。
 内なる炎を宿して、ゆらゆら、ゆらゆらと揺れ動く。
 〝涙〟が視界に映る。
 黄昏の空へと堕ちていく。呑み込まれるように、身を任せて。
 飛翔する。風を切って、未練に焼かれて、流星のように。

 

―――――貴女の最後の言葉が思い出せない。

 

 これは夢?それとも……―――――。

 


 ◆

 

 

GAIA六章 黄昏の少女と黒き炎竜

 

 第一幕 たそがれとほのお、はてなきそうてん

 

Ⅱ 当惑

 

 

 ◆

 


(また、変わらぬ天井―――――夢)
 次にクロイツが目覚めたのは、ライルと会話を交わしたあの夜から三日後の朝のことだった。
 嫌な夢から逃げた先でまた嫌な夢を見る。そんな泥沼のような連鎖の中で眠り続けた故に、あまり疲労感は抜けきっていなかった。
 夢の内容は、全て共通して同じだった。
(姉上……)
 自分を庇って死んだ実の姉の夢。
 美しき、黒い竜。
 時にはクロイツを責め、時にはクロイツに微笑む、空想と事実がぐちゃぐちゃにかき乱されたような夢ばかりだ。
「……!」
 起き上がって不意に枕元に目をやると、淡い緑色の透き通るような煌めきにはっとさせられた。
 片手に収まる大きさの翠色の結晶(クリスタル)はいつの間にかそこに置かれており、クロイツは困惑しながらもそれを手に取った。
 手に馴染む翠結晶は炎を想起させる輝きを内部に閉じ込めており、そこから洩れ出る神聖にさえ感じられる薄光はクロイツの心に落ち着かせ、同時に哀愁を抱かせた。
 息を吐く。
(あの時に紛失してしまったと思っていたが、まだ残っていたのか)
 あの時―――――すでに思考力は底をつき、記憶の中に残っているのは血と破滅と、果ての無い夕暮れ。
 丁度、あの娘の髪色と―――――同じ―――――。
『それ、やっぱりお前の物だよな。綺麗な結晶だなー』
「!」
 物思いに耽っていたクロイツだが、突然のライルの登場にぎょっとしたのか危うく結晶を手から滑らせそうになってしまう。
 さっと血の気が引くが、慌てて引っ手繰るように掴み直せば何とか落下は食い止められ、そのまま素早く後ろ手で隠してしまう。
 あまりの早業にライルはたまげてしまうが、それ以上にクロイツの凄むような睨眼に尻込みしそうになっていた。
『な、なんだよ。とりゃしないって。それを拾ったのもルーナだし、汚れてたのを磨いたのもルーナだからな。後でお礼言っとけよ―――――よっぽど大事な物なんだろ?倒れてたお前、ずっとそれを握ってたぜ』
「……」
 今もまた、結晶を握っている。
『まあ何はともあれ、おっすおっす、おはようさん。傷の具合はどうだ?』
「……多少悪くはなくなってきている」
 夢見は最悪だったが丸三日充分な休息は取れたので、腹部以外の傷は八割方回復してきていた。声音もほとんど元通りに戻っている。竜の再生力は尋常ではないほど高いがそれでもまだ復活しきれないとなると、腹部の傷を蝕む毒素がとてつもなく強力であることがわかる。
 あの攻撃は本来ならば即死していてもおかしくない威力を帯びていたのだから。
『だけど無茶はしないほうがいいぜ。腹の傷が開いたら大変だ―――――まだベッドから出るなよ。ちょっと待ってろ』
 ライルは軽やかな足取りで駆け、魔獣が部屋と部屋を行き来できるように開けられている穴を通って廊下へと出て行った。
 この家の魔獣達を仕切る立場であると自称している彼が、クロイツの様子を見る係り―――――言うならば見張り役を引き受けていると言う。
『ワアイ!クロッツ!クロッツ!ゲンキー?』
『クロッツジャナーイ!クロ……クロロツ?』
『クロロツ!クロロツ!』
 魔鼠の感情は常時昂ぶり状態なのか、寝起きの病人にも容赦がなかった。
しかも盛大に名前を間違えてくるものだから、クロイツは苛立ちを露わにしてしまう。
「やかましい。私の名前はクロイツだ……」
『イツ?イツ……イツー!』
『クロロイツー!』
 何にしても顔の真横でちょろちょろと忙しく動き回る魔鼠達はしつこすぎる。あまりの煩わしさに追い払おうとするが、魔鼠は一層楽しげな声を上げ始める。悪意の無い好奇心で遊ばれているのは明白だった。
 ろくに知能の無い魔獣の玩具にされているようで、経験が無いという訳ではないがクロイツは少々不満だった。
(……奴らは無事だろうか)
 長期間連絡が取れずにいる部下達のことを思い浮かべ、クロイツは息を吐く。
 順応が早く、無駄にしぶとい個性的な面々ばかりが集結する下僕達はそう簡単に死ぬことはないだろう。中には機転が利く者もいるため、上手く仲間に指示を出してくれているだろうと今は信じるしかない。

 

〝クロイツ様がいない間、オレがここを守りますから!安心してくださいっす!〟
〝あー!それはアタシの台詞なんだけど!何で先に言っちゃうのかなー。この後の台詞何にも考えてないんだけど〟
〝貴方達!騒いで内で仕事に戻りなさい!あと壁壊したの誰です!?反省文……じゃない、いいから仕事しなさい!こらー走るなーっ!ああああああああ私の本があああああああぁ!私のバベル語辞典初版本があああああああぁぁ!〟

 

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・。
(逆にまた何かやらかしている予感がする……)
 同時に、彼らが愚かしい行動に走らないかだけが不安の種であった。

『クロロ!ロロ、ロロー!』
『キャァー!ステキナナマエ!』
『ステキ?キラキラ、ピカピカ!』
 結局クロイツの名前を覚えきれなかった魔鼠達は楽しげに歌い始め、仲間の尻尾を追いかけ回す遊びに興じる。
 重い腕で振り払ってでも追い出そうかと思っていると、クロイツの耳にこんこんと二回扉をノックする音が届いた。
 ライルが言ったことが本当ならば、この家に扉をノックをできる者は一人しかいない。
 無言のまま起き上がり、扉を凝視するクロイツは何かに備え、待ち構えるかのようだった。
「……入りますね」
 クロイツの予想通り幼い少女の声が木製の扉の向こうから聞こえてきた。
 少女ルーナはなるべく音を立てないように静かに扉を開け、室内に足を踏み入れた。やはり今日も両腕両足には隙間無く包帯が巻きついている。
  唯一違う点は両目を隠す厚布が外されていることだ。
(橙の、瞳)
  人間にしては珍しい橙色の瞳は髪色よりも濃く、深い。地平線に沈みゆく太陽を連想させる。
  しっかりと光が篭っている瞳は全盲者のそれではないが、目を隠していた理由は一目瞭然だった。
「ごめんなさい。目、少し怪我をしていたんです。このまえは、いきなり目隠ししたわたしが出てきて変だと思っちゃいましたよね」
  苦笑するルーナだったが、目の辺りに微かに残っている火傷の痕は当分消えないだろう。
 四肢が包帯塗れなのも日常的では到底負えないであろう傷を負っている、もしくは他者に見せられないような傷痕がルーナの肌に刻まれているであろうことは容易に想像ついていたため、クロイツは僅かに眉根を寄せた。
 それは決して同情からではなく、呆れに近いものであった。
 人間は実にか弱いと、改めて再認識したからだ。
 誰にどのように危害を加えられたのかなどという過程は全く関係なく、ただただ〝弱い〟と思ってしまう。
「こうしてちゃんと顔を見合わせるのは初めてですね……改めて初めまして。わたしはルーナです。この森のこの家で皆と暮らしています」
 少女は控えめに笑う。
 老若男女であろうが人間は駆逐対象認定しているクロイツは無論だが人間の女子の顔つきにはこれっぽっちも興味がない。
 存在しえない第三者がここにいたとしてルーナの〝顔だけを見る〟ならば、彼女は相当可愛い部類に入る。
 薄くなったとは言え火傷の痕のせいで若干雰囲気が暗くなってしまっているが、美少女と表しても一向に問題ないほど美しくもあった。
 ルーナの足元にはライルもついてきており、クロイツにはライルが彼なりにルーナを護衛しているように見えた。戦士の気迫の一つも見せられない、小さくか弱げな近衛兵だけれども。
(その気になれば今の状態でも、殺せる)
 ひ弱な一人と一匹ならば傷が開く心配も無く、殺せることだろう。
 今、実行する気は無いけれど、もしものことは頭の隅に置いておく。
 持ってきた水が入ったコップをクロイツがいるベッドの隣の台に置き、ルーナはにこりと微笑む。屈託の無い笑顔に、クロイツはふと胸を過るものがあった。
(……何だ?)
 不穏とも不安ともかけ離れた疑問視だったが、答えは出てこなかった。
「お水を持ってきました。森の湖の水なので、綺麗で美味しいです」
 ルーナの言うとおり、美しい透明感を保持している水には穢れが無く、清浄だった。少なくとも人工的に濾過された水では無い。
 クロイツは一度穢れを吸い込んだ濾過水を好まない。例え浄化された後だとしても、口にしたいとさえ思わない。
『アー!ルーナ!』
 ルーナがやってきて嬉しいのか、はしゃぐ魔鼠達にルーナはあっと声を上げてしまう。 
「ララ、リリ、ルル、レレ、ロロ。いつの間に枕元にいたのね。騒いじゃ駄目ってたくさん言ったじゃない」
 五匹の魔鼠にはそれぞれ名前がついているのか、ルーナが手招きをするとたちまち集まってくる。
五匹とも灰色の毛と円らな黒眼なのでほとんど区別がつかないが、ルーナはそれぞれをしっかりと判別できているようだった。
 魔鼠達は慣れた動きでルーナの手から腕へと登り、最終的に肩の位置に落ち着く。丸みのある彼らが横一列に並ぶと、さながら首飾りのように繋がりのある装飾品を想起させ、少々不格好な灰色毛玉の肩飾りに見えた。
『クロロロ!クロロロトアソンデタノ!』
『ルーナモアソブ?』
『アソブ!』
「今は遊ばない。お外にお友達が待っているから、いってらっしゃい」
『ハァイ!』
『アソブアソブー!』
 ルーナに促された魔鼠達はばねのように愉快に跳びはね、あっという間に部屋から抜け出して行った。どこまでも純粋で賢しらでは無い魔獣は扱われやすい。
「娘」
 しばしの沈黙が訪れていた部屋に、クロイツのひんやりとした声だけが流れた。前の時ほど張り詰めた声ではなかったけれど、決して打ち解けた声でもなかった。やはりどこかが冷たく凍りついている、そんな声音。
「はい」
 ルーナはどきりとしながらもクロイツに向き合った。
「私はお前に感謝すればいいのか。礼の一つでも言えば満足するのか」
「……」
 答えられないのか、それとも何と返事をすればいいのかわからないのか、ルーナは困ったようにもじもじと胸に手を当て、目を逸らしてしまう。
 やがてルーナはぎゅっと自身の手を握りしめて、
「ライル、やっぱり少しだけ二人でお話をしていい?」
 予想外のことを言った。
 もちろんライルは提案を反対する。
『どうして。もしものことがあったら危ないぞ』
「大丈夫。そんなことにはならないから」
『ルーナの大丈夫は当てにならないよ』
「その言い方だと何だか信用されてないみたい」
『信用はしてるけど心配なんだよ、いつもルーナは無茶するから』
 不安そうなライルを、ルーナは気を落ち着かせるように撫でてあげた。
「無茶なんかしてないよ。わたしは大丈夫だから、ね?」
 ライルは優しげに笑うルーナを見て、次にクロイツを見る。
 クロイツは無表情とも言える顔をしているが、紅玉を嵌め込んだような鮮やかな瞳には確かな迷いの色が含まれていた。敵意とはまるで違う、石の内部のひびを縫うように奔る惑いが。
 念を押すように二人を交互に見つめながら、ライルは少しだけしおれた声で『わかった』と了承した。
『だけどクロイツ、ルーナを苛めたら承知しないからな!』
 何かあったらすぐに呼べよ!と、ライルは垂れていた尻尾に気合を入れるようにぴんと立てて、部屋から抜け出していった。
「……」
「何故私を助けた」
 三日前の晩にライルに訊ねたことと同じ内容の問いをした。 
 ルーナは数秒間をおいてから答えた。
「傷ついている人を見捨てることはできません」
「偽善だな」
「……」
 痛いところを突かれたのか、ルーナはぐっと押し黙ってしまう。
「見返りは何だ」
「見返りなんて、いりません。わたしは本当にただ貴方を助けたかっただけです」
「千人殺し―――――私が千の人間を虐殺したことは知っているだろう」
「……ライル達から話を聞くまでは知りませんでした。世間にはとても疎いので」
「だが、危険な存在であるということは理解しているはずだ」
 クロイツは言葉を続ける。
「私が街を一つ葬り去ったのは紛れもない事実だ。竜巻を起こしては民家をことごとく破壊し、逃げ惑う人間を噛み殺し、弓矢を手に対抗してくる人間を斬り裂いた。まさか目の前の怪我人がそんな非道なことをしたとは、到底信じられぬか?」
 自分の助けた魔獣が、かつて街と呼ばれた数少ない人間の住まう地を強襲した。
 魔物避けの城壁を打ち壊し、暴れ狂う暴風に根こそぎ建物や家畜は吹き飛ばされ、人間の女子供にも容赦なく手を出し、跡形も無くなるまで蹂躙しつくした。
 後にも先にも残ったのは大地を抉り取った幾つもの痛々しい穴と、もはや何に使用されていたのかもわからないほどぼろぼろになった木や石材の残骸、原形を留めていない何かの死体、拷問を受けた直後のように全身血に染まった人間の遺体、土まで赤色に染まった廃墟、ここは数時間前までは多くの人間が暮らしていた街―――――見るに堪えない恐ろしい光景を想像してしまい、ルーナは思わず後ずさりしてしまう。
「私を看護した時点で異常だが、お前は殺戮者の一つ屋根の下で睡眠を取り、食事を取る。異様を通り越して狂っている。人間は本能的に魔の力を持つ異形に恐れをなすようにできているはずだ。それなのに何故お前は私を匿い続ける。何故、魔獣と共に生きているのだ。お前は人間であろう?」
「わ……わたしは生まれてからずっとこの森で魔獣と一緒に暮らしています。み、みんなは大事な友達です。家族、です」
「愚か者め!人間でありながら貴様は魔獣を同等なる種族として見るのか!」
 声を荒げられ、ルーナは竦みそうになるのを必死で堪えた。
 そして、悲しげに目を伏せる。
「わたしは人間ですが、この森でみんなと生きていく術しか知りません。だから、わかりません。人間としてどうあるべきなのか、わたしにはわかりません。ごめんなさい……」
「……忠告する。私をただの魔獣だと軽んじるな。私は竜だ。魔獣の頂点に君臨する、誇り高き竜の一族の筆頭……貴様とは格が違う」
 神獣とも分類される竜は図鑑にまとめきれないほど、目録に並べきれないほど様々な種類種族の魔獣がいる中で、竜は危険度最大値の最強の魔獣と謳われている。
 自由自在に空を飛行し、砲弾さえ弾き返す頑丈な鱗の鎧は何物も通さず、岩石を噛み砕く顎は強堅の象徴であり、地獄の業火よりも熱い火炎を吐く。
 何も言えないルーナに、クロイツは失笑する。
「やはりこの姿では説得に欠けるか?竜ならば竜らしい姿であれと思うか」
「……竜のことは本でしか読んだことがないですが、みんな人に近い姿に変身することができるんですか?」
「……これは、呪いだ」
 遠い過去の竜の過ちの名残だと、クロイツはどこか寂しげに洩らした。
 神妙な面持ちでこれ以上は説明したくないと、口を噤む。
「何にしても、今の私は人型だ。寝込みを襲うでも薬に毒を仕込むでも、隙はいくらでもあったはずだ。お前達が私を騎士団に突き出せない理由は知っている。それでも始末する術は幾らでもあったはずだ」
 クロイツは自嘲気味に笑んで、腹部に手をやった。
「治療をしたのはお前だろう?ならばわかっているはずだ。この傷は〝防魔の矢〟でつけられた傷、魔獣の力を一時的に封じ込める効果を持っている。私の傷の完治が遅いのも、人型の姿から戻れないのもこれの影響だ。この状態でも歩くのがやっとだろう。死んでいないことが驚きだ」
「防魔の、矢?」
「……防魔石を知らないのか?」
 見知らぬ単語にきょとんとするルーナに、クロイツは呆れる以上に驚愕してしまう。
 防魔石は異形なる者を打ち払う力を持つ貴重な石だ。人間にとっては生存権を有するに必須であり、文明の開拓の要にもなる最重要物質である。まさかそれを知らない人間がこの世に存在するとは想像だにしていなかった。
「ごめんなさい、ボウマセキ……よくわかりません。でも、魔獣のみんなが貴方の負った傷には毒があると言っていて、毒を消す方法を教えてくれました。この森には良い薬草がいっぱいあるんです。魔力素……が影響しているらしいですが」
(この娘はどれほど俗世から隔絶した生活を送っているのだ)
「森に無いどうしても必要なモノは、〝外〟から取ってきましたが……」
  外という言葉にクロイツは一瞬疑問を抱くが、問いただそうにもルーナの様子がその時だけ変化していたことに気を取られてしまっていた。
 ルーナは一生懸命笑おうとしているが、ぎこちない表情しか浮かべられていなかった。
 小刻みに体が震え、ぎゅっと、包帯で隠された腕を握っている。
 ルーナは怯えていた。クロイツでは無い、〝何か〟を思い返して。
「……余計な施しなど、望んでいなかった」
 何故私は死ななかったのだろうなと、クロイツは他人事のように呟いた。
 自分は死んで当然だと達観しているかのような物言いだ。
「―――――あの時死ねば、馬鹿馬鹿しい夢を見ずに済んだものを」
「やめてください!」
  今の今まで控えめな声で喋っていたルーナが、唐突に声を張り上げた。
「死んだほうが良かったなんて、そんなこと絶対無いです。無いです!」
 他人のために何をそこまで叫ぶのか、説得しようとするのか、クロイツには理解できなかった。
 何故、ルーナが今にも泣きだしてしまいそうな顔つきでいるのかも―――――わからないはずなのに。
「生きていれば必ず何かあるはずです!だから、そんな悲しいことを言わないでください……!」
「綺麗ごとを抜かすな!たかが十年程度しか生きていない小娘風情に私の何が理解できよう。共感できよう。わかられて、たまるものか!」
 聞くに堪えない戯言だ!
 次から次へと湧きあがる刃のような反論と矢のような雑言を叩きつけて、眼前の娘の立ち上がる気力さえも根こそぎ奪ってやろうかと、クロイツは歯を食いしばる。
 プライドも信念もかなぐり捨てて、大人げない発想も惨めで凶暴な思惑の中に投入し、激情を吐き散らしてやろうかと本気で思う。思ってしまう。
 こんなにも〝人間じみたやり方〟は竜である自分のやり方ではないはずなのに、衝動的に爆ぜて実行してしまいそうになるのは、やはり肉体が人に近いからなのか。
 こんな体。こんな体。こんな体―――――!

 

「だって、貴方は、泣いていた」

 

 ぽつりと、ルーナは言う。 
「倒れていた貴方は、誰かの名前を呼んでいた」
 その言葉にクロイツの肌は粟立ち、途方も無い焦燥感に駆られる。
「やめろ……」
 やめろ。
 人間がそれを語るな。
 その名前は、知るべきではない。
 その名前は―――――私の―――――私だけの―――――!
「ずっと、その結晶を握って、涙を……」
「やめろ……!」
 その口を塞いで黙らせてしまいたい。息の根を止めて、音を失わせたい。
 弱くあってはならない。
 弱くあっては、意味がない。
 違う。涙など、流していない。
 強き竜は気高い。
 何もかもが間違っている!
「わたしに何かできることはありますか。わたしは、貴方を……!」
 助けたい。 
 貴方の気持ちを理解したいと思っては、いけませんか。
「―――――ッ!」
 声にならない叫び声が上がる。
 半ば自暴自棄に陥っていたクロイツは、殺意とも表せない衝動と憤怒ともつかない感情のままにルーナの細い首を掴み、そのままベッドの上に引き倒した。手から離れた翠水晶がシーツの上へ落ち沈み、音も無く横たわる。窓から注ぐ陽の光を反射させ、きらきらと星のように瞬く。星は堕ちてしまった。願いを、一つも叶えられぬまま。
 ぐっと握力を込めればすぐにでもルーナは絶命することだろう。捩じ切ることも引き千切ることもできる―――――殺すことは容易く、今までもずっとそうやって生きてきたはずだった。はずだったのに。
「ごめんなさい」
 決して弱くない力で気管を絞められているというのに、ルーナは自分が悪い事を犯してしまったかのように謝り出していた。
「ごめんなさい。ひどいこと言ってしまいましたか。貴方を、傷つけてしまいましたか……?ごめんなさい。ごめんなさい……」
 手を放してほしいとも、殺さないでほしいとも言わずに、人間の少女は一心に謝罪を続ける。
 彼女の瞳から一筋の涙が流れ落ちる頃には、クロイツはもう、耐えることができなかった。 
「何故、泣く」
 自分に対する恐怖や死に対する怖気に落涙しているのではない。
 彼女は何のために、泣いているのか。
「何故、謝罪する……!」
 人間ならば異形なる者に懇願し、恐れおののき、拒絶するものではないのか。
 彼女は何のために、〝ごめんなさい〟と発するのか。
「何故私を恐れない!何故だ!」
 人間を憎悪することで復讐心を燃やせ、命を繋げる今―――――自分を肯定する人間に出会うなど、死の宣告を通り越した処刑執行に等しい。
 ここで砕け散れば、折れれば、何も成せなくなってしまう。
 誰のためにも、何のためにも。
「私を恐れろ!人間はそうであるべきだ!そうでなければならない!摂理に背くな!冒涜者にでもなったつもりか!恐れろ。恐怖しろ!そうでなければ、私は、私は……!」
 顔を寄せ、噛み付くような形相で迫られ、更に手に力を込められる。
 ルーナは苦しさに思わず目をぎゅっと瞑ってしまう。目尻に溜まっていた涙が押し出され、雫となって横顔を辿って行く。
「……?」
 にわかに、温かい水粒が顔に落ちる。明らかに自分の涙とは違う熱に、ルーナは目を開ける。
 赤い瞳は宝玉のようで、紅の炎髪は本物の焰のようで、赤く、紅く、朱く、赫く、緋い。

 

「どうして、泣いているんですか……?」
「……!?」

 

 はっとしたクロイツは弾かれるようにルーナから手を放し、ありえないと言いたげに自身の目元に指を這わせた。
 指先が濡れたその時、クロイツの顔色はさっと変わる。強情で塗り固めていた表情がたちまち解けていく。
「ちが、う。違う。こんなことは……!」
 混乱する中で、クロイツの心は悲鳴を上げていた。
 ひび割れたまま、慟哭している。
「何故……!」
 大切なモノを失い打ちひしがれる孤高の竜が、迷子になった子供のように、狼狽えている。
 迷い、戸惑い、居場所を見出せない、生きる希望を喪失し、自身をひどく責め、傷つけ、傷ついている。
 ああ、ズタボロだ。羽ばたけないほど、重い鎖に縛られている。
 ルーナは咳き込みながら、クロイツを責めることなく見つめていた。
 震えているのは、誰?
「泣くなど、そんな、失態は……」
 膝を折ったクロイツは呆然と跪いたまま、目を見開いている。
「……」
 ルーナは止めどなく涙を零すクロイツの頭の後ろにそっと手を回す。黒髪は陽光を吸い込んだように温かく、まるで陽だまりのようだと思った。
 そのまま頭を優しく自分の胸元に寄せ、包み込むように抱きしめる。クロイツはされるがままに引き寄せられてしまい、抵抗一つできなかった。
「触れるな……離せ。汚らわしい、人間め……」
 言葉での抵抗も弱々しく、それ以上は何も発言することが適わなかった。
 ルーナもまた、何も言わなかった。
 静寂な空間で張り詰めた空気を融かすような温かさ。
 クロイツは目を閉じる。
 花の甘い香りは回顧の念を催させるが、不思議と寂寥感をゆっくりと押し流してくれる。
 柔らかな感触は遠い昔の思い出を振り返らせ、クロイツは涙しながら心がじょじょに安らいでいくのを感じていた。
 心地良いと思ってしまったのは、紛れもない真実だ。

 

(姉上……?)

 

 奇しくも慈悲深い温もりは、姉であるクロニアの元に回帰したかのような錯覚を夢見させた。

 


 ◆

 

 

 あれからどれほどの時間が経過しただろうか。
 ほんの数十秒だった気もするし、長い数時間だった気もする。
「……放せ」
 ようやく解放されたクロイツは羞恥心で紅潮した頬を隠しながら、ルーナから距離を取った。
 自分とは比較にならないほど幼く無知な人間の子供の前で涙してしまった事実がこの上なく恥ずかしくてならなかった。
 何故この娘に一瞬でも心を許しそうになってしまったのか、自分の精神が相当参ってきているとしか思えない。
 横目で恨めし気にルーナを睨む。
 彼女は首を少しだけ押さえてベッドから立ち上がっており、クロイツのことを馬鹿にすることも卑下することも無く、純粋無垢な微笑みを浮かべていた。
 全てを許し、受け入れてくれそうな笑顔は慈悲深い聖女そのものだ。今の悲惨の時代には似遣わない、危ういモノ。
 涙で潤んだ瞳が鏡のようにクロイツの姿を映し出す。夕焼け色の瞳は吸い込まれそうになるほど美しく、切なくもある。
 あの日の空を、思い出す。
「貴様のことは殺さない。だが、恩義も感じない。私を生かしたことを後悔するがいい」
 黄昏の瞳に見惚れそうになった事実を脳内でとことん否定し、眼を逸らして苦し紛れにクロイツはぼそりと呟いた。
「後悔、しません」
「……戯け者め」
 短時間だが嫌というほど把握した―――――この娘は近年稀に見る聖人気質の善良者を遥かに凌駕するほどの、とてつもないお人よしだ。疑うことを知らず、傷つけあうことを望まず、自分のことよりも他人のことを第一に考えてしまう性質の持ち主だ。
 こんなにも愚直で、純粋で、種族の分け隔てなく恩愛に溢れた人間がまだ存在していたとは、思わなかった。
「愚かな娘よ。……」
「?」
 声量を限界まで絞り、さっき泣いたことは忘却しろと言おうとしたところで、  
『このヤロー!助けてもらった分際で何を言ってんだゴラー!』
 どこからともなく駆けてきた激怒のライルに跳びつかれてしまう。 
 しかし腕にしがみつくライルは軽く、傷に全く響かないほど力が弱かった。
「やめろ。触るな」
『ルーナに意地悪したな!怒ったぞ、怒ったぞー怒ったぞー!お前を食べてやるっ!丸かじりだ!』
「ラ、ライル!違うの何もされてないわ!」
「やれるものならやってみろ」
『あうちっ!』
 視線さえやらずにライルの額を加減した力で叩けば、あっという間に腕に食い込みかかっていた歯は離れ、ライルの体は床に落下し数回弾む。その姿はさながら蠅叩きの一撃を食らった哀れな蠅のようだ。
 慌ててルーナが床でクッションのように平ぺったく伸びてしまったライルを助け起こす。
『いててて……ルーナ。アイツに泣かされたのか?』
「ううん、違うの。これは目にゴミが入っただけ―――――あのね、わかったことがあるの」
『?』
「あの人は、やっぱり悪い人じゃなかったの」
 断言されてしまった。
 自分のことのように嬉々としてライルを抱きしめるルーナの笑顔はやはり眩しいほど清く、クロイツは顔を赤くしたまま顔をしかめてしまう。
「……お前は人間の味方なのか、それとも魔獣の味方なのか、どっちなのだ」
 その問いにルーナはしばしの間考えて、たおやかな花を連想させる笑顔のまま答えた。
「助けたいと思った人、大事な人の味方です」
 馬鹿馬鹿しいことこの上ない平和的思考と博愛主義の鑑のような回答だったが、クロイツは不思議なほどすんなりとその答えに納得してしまった。
 この娘には何を言っても無意味であり、信念を曲げることは不可能だとわかりきってしまったからだ。
「その、だから、怪我が治るまではどうかここにいてください。えーっと……黒い竜さん!」
 種族そのままの呼び方にクロイツは筆舌しがたい脱力感に襲われる。ルーナに悪気がないため尚更である。
「……その呼び方はやめろ」
「それでは何と呼べばいいですか?」
 呼ぶ必要は無いとあしらいたいのが本音だが、クロイツは溜め息を交じりに声を発した。
「クロイツ。クロイツ・リンドブル。それが私の名前だ。二度は言わせない」
 人間に名乗る状況を一切想定していなかったクロイツだが、ここで初めて彼女に名を明かした。
 すでに名前は知られているとはいえ、ここで名乗ることに多少なりとも意味があるような気がした―――――理由は解明されないままだけれども。
「じゃあ……クロイツ様。クロイツ様と呼んでいいですか?」
「……好きにしろ」
 素っ気なく返事をしても、ルーナはいつまでも幼いながらの柔和な態度を変えずに「はい」と、嬉しそうに笑った。
 朗らかな、優しい佇まい。

 

―――――何故だ。
―――――何故、姿が重なるのだ。

 

 黄昏の髪は夜闇の黒とは違う。
 種族も気配も全く異なり、容姿も別物。

 

 それでも―――――黒竜は人間の少女に、自身の姉の姿を幻視していた。

 

 

 

 

 次話へ(準備中) 目次へ

 ◆

 

 サブタイトル変更しました。

 クロイツとルーナのどっちが主人公なのか曖昧ですが、とりあえず二人とも主人公だと思ってみていただければ幸いです。