1 くらいよるとくろいやみ





―――――誰も知らない誰かが知る誰かの物語




 ◆



 天使の青年と人殺しの幼女が邂逅したのは、草木も眠る丑三つ時の、更に暗い路地裏だった。
 季節は秋の終わり、冬の訪れを感じさせる肌寒い空気は、自然と足取りを早くさせる。
「……随分遅くなっちまったな」
 ホークは独り呟きながら、夜道を早足で歩いていた。
 ちょっとした用事をこなしていれば、すでに時刻は真夜中。大して眠くはないものの、疲労のせいか少々怠いため、早く家に帰って休みたいところだ。
 ホークの現在の住居はちょっとばかり特殊でいて変わり者達が同居もとい住み着いているが、さすがにこの時間では全員寝静まっていることだろう。
「だりぃ……」
 内心で実の兄が寝ていることを望みつつ、帰路につく。
 その際に、ホークは近道である路地裏を通過しようと足を運んだ。この路地裏は昼間も薄暗く、寄り付くのは野良猫くらいのものだ。
 ぞっとするほど暗い狭道だが、ホークには恐怖心の欠片もない。例え怪物が化けで出ようとも、腕っ節のみで切り抜けられるだろう。彼には並大抵の現象、非現象を踏破できる自信が備わっていた。
 まあ、今晩は厄介なモノは出没してねぇよなと、大して危機感も持たずにホークは歩み出す。
 幸か不幸か、この時点でホークは待ち受ける展開に足を踏み入れてしまったことになる。
 だが、この先ホークは一度たりとも、今晩の選択を後悔しないことだろう。それだけは、呪いのように世界の記録に刻みつき、決定事項として確定されていた。
「……あ?」
 最初の違和感は、道の奥から聞こえてきた物音だった。
 がさごそと、無遠慮にゴミを漁るような雑多な音。確か路地裏には長い間使用されていないゴミ箱と、不法投棄されたオンボロの家財が放置されていたはずだと思い出す。
 当初ホークは野良猫が餌を探してゴミを漁っているのだと予想したが、近づくにつれていっそう強く違和感を覚える。
 猫にしてはかなり豪快に、そして乱暴にゴミを掘り返している。何よりも猫が掘り出したゴミを、再び投げ捨てるはずがない。そんな器用な真似ができる猫は、おそらく存在しない。
 これではまるで、人間が夜分遅くに夢中でゴミを漁っているような……。
(ホームレスか?)
 注意深くホークが耳を澄ますと、近距離から何かを食べるような咀嚼音が聞こえてくる。
暗闇の中では何もわからないが、ホークは顔をしかめながらもポケットからライターを取り出し、灯り代わりに点火させる。
「おい、幾ら何でもゴミ溜めから掘り返したもんを食うのは」
 ぱっと明るくなる路地裏に広がる光景は、ホークが想像していたものとは全く違うものだった。
 否、シチュエーションとしては間違っていない。浮浪者がゴミから掘り出した食料(おそらく腐敗しているような汚い物)を食べている流れは、推測通りだ。
 予想外だったのは、浮浪者が年端もいかない幼い女児だったからだ。
「ガキぃ?」
 思わずホークは声を上げて驚愕してしまう。
 幼女は散乱したゴミの渋滞の上で、おそらくはパンだったであろう物を齧っている最中だった。
 現代人とは思えないほど骨が浮いたガリガリの体躯。一目で不健康が丸わかりなほど血色が悪い。
手入れがまるでされていないボサボサに荒れ狂う短い黒髪。ボロ衣同然の薄い服。四肢には漆黒の輪が装着されており、枷のような重量感がある。
 何よりホークがぎょっとしたのは、幼女の眼だった。
 六歳程度の幼子とは思えないほど虚ろな瞳。感情の全てを無理やり押し込めたような瞳。墨汁をドロドロになるまで煮詰めて固めたような真っ黒な瞳。夜の闇より深い瞳。光がまるで無く、希望などこの世に存在しないという嘆きを凝縮したような、救いようの無い瞳。
 長い前髪から覗く瞳は、天使であるホークの血の気を引かせるほど、恐ろしい代物だった。
「……」
 幼女は腐ったパンを手に、ホークを見上げている。
 ホークはしばしの間言葉が喉を出ず、立ち尽くしていた。
 やっとの思いで絞り出したのは、
「お前、こんな場所で何やってんだ」
 実に月並みな質問だけだった。
「……」
 幼女は質問に対してぼんやりとしたまま微動しない。
「親はどうした。そんな格好で、今何時だと」
「ごはん」
 幼女は唐突に、顔色一つ変えずに先ほどの質問に答える。もしかすれば、今までの無言は思考の時間だったのかもしれない。
「ごはん たべて いた」
 片言で途切れ途切れな言葉ば舌足らずで、声だけならば一般的な女児と同じだ。
「ごはん これ」
 ハエがたかっていてもおかしくない腐敗パンを見せてくる幼女に、ホークは怒りとも悲しみとも表せない複雑な表情を浮かべる。
「やめろ。そんなもの食うんじゃねえ。お前みたいなガキが」
 再び食事に戻ろうとする幼女から、ホークはパンを奪い取る。
 それが仮に善意に、ホーク以外のごく普通な人間が起こした行動だったとすれば、次の瞬間に起こりうることを受け入れることさえできなかっただろう。

 

受け入れる以前に、殺されていたに違いないのだから。

 

「ッ!?」
 視界が真っ白に染まり、次に真っ赤に染まったと思えば、ホークの体は宙を舞っていた。
 体と共に吹っ飛びかける意識の中、ホークが視認したのは、自分に向かって右手を伸ばしている幼女の姿だった。
 底無しの瞳が、血塗れのホークを僅かに映している。感情の無い小さな顔が、やけに青白く見える。
「がっ!」
 わけがわからないままホークは地面に叩きつけられ、直後に駆け巡る激痛に呻いた。
 苦痛を堪え、何とか起き上がろうとすると、自分の掌が多量の血に濡れていることに気づく。
 よく見ると、腹部が大量出血している。
 傷は爆弾が直撃した後のような悲惨具合で、焼きだたれた皮膚が削げ落ち、中身の内蔵と骨が露出している。
 吐血。
 周辺がたちまち赤く塗られ、血の海と化する。
 やべぇ、これは死ぬ。
 ホークは咄嗟に一回の死を悟り、起き上がれないまま仰向けに倒れる。痛みのあまり悲鳴さえ上げられない。
 何で俺は腹に穴開けられてんだ。
 霞む視界に、瀕死の自分を見下ろしている幼女がいる。
 冷ややかで、残酷な視線をこちらに向けて。
「こいつ じゃま な やつ 。 じゃま だから いいや」
 幼女はふらりと動き出し、ホークの側に落下したライターに視線をやる。
 同時に手をかざすと、連動するようにライターが激しい音を立てて爆ぜる。
 火が消え、路地裏に再度夜の支配が訪れる。
 視界も意識も闇に落ちる最後、ホークが目にしたのは、

 

「しんじゃえ」

 

 幼女の唇が、死の言葉を紡ぐ刹那だった。





「厄日だ……」
 致命傷を負ってから数時間、すでに空は白みかけて、朝が訪れようとしていた。
 憂鬱そうで気怠げに、ホークはようやく立ち上がる。
 腹の傷は再生し、完全に完治しているが、凄まじい痛みの後味はまだ引きずられている。
 気が狂いそうな激痛にのたうちまわりそうになったが、記憶の無い間数回気絶しただけで済んだようだ。
 周辺を見回すといたるところに血痕が飛び散り、ホラーを通り越してハードスプラッタ状態だ。騒がれでもしたら非常にまずいので掃除しなければならないと思うと、ますます気分は最悪に沈む。
「何てガキだ。通り魔どころの話じゃねぇぞ……」
 ガキの通り魔がいたら、それこそ世の中絶望だらけだ。
 辟易するホークは溜め息をつきながらも、暗闇の幼女の姿を思い出す。
 物乞いのような貧相な姿。奴隷のような哀れな体躯。世界の闇を全て背負い混んだような眼差し。ナイフのように鋭い気配。
 誰からも助けてもらえたことがないような、可哀想な女の子。
「……ろくでもねぇ」
 何にしてもあんな危険人物をこのまま放置するわけにはいかないと、ホークは肩を竦めた。

〝しんじゃえ〟

 ガキがそんな物騒な台詞使うんじゃねえよ。







次話へ  目次へ