3 わすれることわすれないこと



 目が覚めたら、世界が滅んでいた。
 否、滅んでなどいない。
 ただ、瓦礫がそこらじゅうに散らかってうず高い山になっているだけだ。灰色と黒と銀の世界は、いつの間にか多数の色を帯びては明るく光を反射している。
 色とりどりの鮮やかな世界はあまりにも眩しくて、それこそ今まで通りの世界が壊れてしまったように思えた。
 何もかも燃えてなくなってしまう。
 朝と昼の世界は、慣れないものだから。馴染む必要もないものだから。
 幼女が目を覚ませば、ぽっかりと穴の空いた天井から、太陽の光が振り撒かれていた。

まぶしい 。
いやだ 。
ここに ふらんしす は いない 。
また ひとり 。
あたたかい のは こわい ……。

 


「起きたか」
 目覚めたばかりの朦朧とした意識の中で、幼女は聞き慣れない声を耳にする。
 薄っすらと開けた目に入るのは、自分の何倍も大きな男性。やけにボロボロの服を辛うじて身に纏い、不思議な気配を湛えている。
「……」
 そこでようやく幼女は、ホークの上着に包まって眠っていたことに気がつく。
 右袖が無い汚れたコートだけれど、温かいのには変わりない。
 血の匂いがする。
 だが、自分は血に汚れていない。
 眠っている間にホークが血を拭き取ってくれていたからだ。
「お前にも再生力があるんだな。さすがに火傷がすぐに治ったのはビビったぜ」
「…… やけ ど ?」
 すでに幼女の火傷は完治しており、それ以外の痛みも全て回復している。
 だからこそ、幼女には意味不明だった。理解不能だった。
 ホークがかけてくれたコートから這い出て、幼女は頭上にクエスチョンマークを表示させる。

 

「おじさん だれ ?」
「……」

 

……は?

 

 初対面の相手の接触されても特に緊張はしないが素朴に相手が何者なのか訊ねてくる子供の反応。まさにこれ。
「冗談はアホみたいな運動神経だけにしてくれ」
「じょーだん ガズ わかん ない わかん ない ?」
 つい数時間前まで本気で殺しに来た戦士の発言とは思えないほど間が抜けている。
 しかし、とても冗談を言っているようには見えない。
 だとすれば、幼女は相当記憶能力に難が生じていることになる。
 眠っただけで一生忘れられないような出来事も吹っ飛んでしまうだなんて、ホークは呆気を取られてしまう。
 忘れてんのかよ!こちとら腕もげたんだぞ!
「まじで忘れてんのかよお前……」
「わすれ ? たいせつ な じょーほー ? なら おもいだす 」
 途端、幼女はただでさえぼさぼさの髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜ始める。幼女なりの忘れ事の呼び覚まし方だろうか。
 鳥の巣髪の鳥頭。
「いや待て思い出さなくていい。大して重要でも有益な情報でもねぇから。全然得しないから」
 ここでまた殺し合いになるのもあれだ。むしろ幼女にはさっきまでのことを忘れていてもらったほうが都合がいい。
 すると幼女は伏し目がちの目を更に細めて、ホークを睨みつけてくる。
「むー …… おじさん うるさい ころして いい ?」
「何ですぐそっちの路線に行くんだ!?」
 うるさいの次に殺していいが出てくるのはおっかないにも程がある。
「ガズ つよい 。 おじさん すぐ しぬ」
「そりゃ一回は瞬殺されたからな……」
 しかも二回戦目も出血多量で死にかける寸前まで追い詰められた。
 ホークが何を言っているのかわからないのか、
「おじさん は ころして も いい にんげん ?」
「駄目な人間」
「じゃ ころさない」
 あっさりすぎる。
 さすがに脱力してしまう。
「お前は人間を殺すか殺さないかでしか見てないのか」
 ホークの疑問に、幼女はぽかんとする。
 何でそんなことを訊ねるのか、訊ねなくとも誰もが最初からわかっているだろと言いたげな表情である。
 もちろん、僅かに感情の差異があるだけで、ほとんど無表情なのだが。
「ころす ? …… ころす いいの は ガズ に てをだす ひと 。 ふらんしす に やれ って いわれた ひと だけ 」
 つまり、この幼女は三つのパターンで人を見ていることになる。
 自分に危害を加える人間、〝ふらんしす〟なる人物が殺せと命じた人間、無関心な人間の三つに。
 現在のホークは無関心の人間枠に仲間入りしているようだが、昨晩のホークは危害を加える余計な人間として扱われていたのだろう。
 腐ったパンを取り上げただけで、攻撃の対象として狙いをつけられた。
 たったそれだけのことで、死と言う名の報復を与えられる。
 親切心も注意指摘も慈悲でさえも、彼女にとっては自分を傷つけてくるナイフのように捉えられているのかもしれない。
 自分で物事を深く思索することも、思考することも、思案することも、追究することも、探究することも放棄している。
 違う、放棄ではない。出来ないのだ。出来ないようになっているのだ。
 警戒心と疑念だけが少女を守る脆弱な盾であり、安全を確保したらとことんあらゆる事象に無頓着になる。
「だから、昨晩の俺のことは忘れなかったのか」
 そして、敗北を認識した幼女は、何もかもを諦めた。
 つまり、死を覚悟したということになる。
 死は警戒も疑心も揺らがせ、こうして目の前で生きている幼女は、自分が最悪殺されていたかもしれない過去のことさえ忘れている。
 記憶障害どころの話ではない。これは異常だ。異様で異質。例えようの無いほど幼女の自我と潜在意識が破綻している。
 それこそ、知能を持たない獣と表せてしまうレベルで。
 他者を殺すことには狂人じみた執着心を持って積極的に行うのに比べ、自分の死には恐ろしいほど割り切りが早い。
 死んでもいいから、確実に標的を仕留めろ。そう暗示されているかのように、幼女は病的なまでの殺戮衝動に取りつかれている。

とんでもない。
これじゃあ、ただの殺人マシンじゃねぇか。

 こんな幼い娘が、何をどうしたら、ここまで壊れてしまうのか。
 こんなに痩せた、弱々しい女の子を、誰がここまで壊してしまったのか。
 イかれている。狂っている。
 この幼女の雇い主が弁解の余地無く……。
「〝ふらんしす〟ってのが、お前の雇い主か?」
「ふらんしす ! ふらんしす !」
 〝ふらんしす〟の名前を出した瞬間、幼女は抑揚の無いなりの嬉しそうな声を発し、ぎこちない表情を作る。
 これが、幼女の笑顔。喜怒哀楽のバランスがしっかり保てない幼女の、欠けた心からの微笑み。繊細な笑みは禁止のワードに触れれば、たちまちひび割れて粉々に砕け散ることだろう。
「ふらんしす は ガズ の かいぬし 」
「飼いぬ……っ!」
 ホークは心底からぞっとした。背筋に冷たいものが奔る。
「ガズ は ふらんしす の ぺっと 」
 続けざまに降りかかる無情な事実に、思わずホークはやめろと叫びたくなる。
 イかれて壊れて狂っている殺人鬼だけれど、根本には年相応の純真無垢さが残っている子供の口から、そんなことを聞きたくなかった。
 しかし、ここで幼女を責める意味も、誰かを責めることも、ホークにはできない。
 理解できたのは幼女が愛玩とは程遠い形で、人殺しの奴隷として飼われていることだけだった。
「なら……これは、ペットの首輪ってことか。どう見てもファッションで着けてるもんじゃないよな」
 幼女の片腕を取り、夜闇よりも暗く底知れない色をした腕輪に目を落とす。やはり四肢に嵌められた枷は同種の物で、奇妙なことにどこにも鍵穴が無い。まるで幼女の身の一部のように同化し、馴染んでいる。

 壊せるか……?
 〝核〟が普通とは異なる。
 現実味がないのか……俺の知らない力がかかっている?

 しゃらんと、腕輪から澄んだ音が響く。
「!」
 ここでホークは把握する。
 この腕輪はただの腕輪ではなく、ちゃんと鎖が繋がっているのだと。
 ただし、目には見えない鎖だ。
 不可視の鎖は確かにぶつかり合えば音を奏でるが、握ることも触れることさえできない。断ち切るのはまず不可能だろう。
 気味が悪いと、ホークは率直でいて素直な感想を抱いた。
「まどうぐ 」
「魔道具?」
「ふらんしす の ぷれぜんと だいじ さわらないで 」
 異世界の特別な道具の詳細も仕様もわからないホークには、この腕輪と足輪が特級目前のAランク肉体強化魔道具『デモリー・コラー(破壊的な枷)』であるということは想像さえできなかったが、この枷から彼女を解放することはできないというだけは、痛いほど直感した。これ以上の試行錯誤は効果が無い。重い檻は、幼女の体を完全に蝕んでいる。
「お前はいつも、〝ふらんしす〟に従っているのか?」
「うん 」
 即答だった。
「ガズ おりこう だから ふらんしす に ほめて もらえる 。 たくさん ころせば ふらんしす に ぎゅっ して もらえる 」
「……そうか」
 その様子では、幼女が〝ふらんしす〟に好意を持っていることが一目瞭然だった。
 ストックホルム症候群。
 咄嗟に頭をよぎったのはそれだった。
 幼女がどんな過去を持ち、どのような経験を積んで生きてきたのかは知らないが、決して楽ではなく、過酷で悲惨で、本当の意味での幸福はどこにもなかったであろうことは簡単に予想できた。予想できてしまう。ごく普通の家庭に生まれ、当たり前の生活を送り、それなりに平和に過ごせた人間が、こんな風に堕ちるはずがない。
 こき使われ、汚れ仕事を押しつけられ、まともな愛情も与えられず、人間として扱われなかった幼女の姿が目に浮かぶ。
 実際、ホークの想像はだいたい当たっていた。
 ただ、それ以上に年期が違っただけだった。
 自慢げに語る幼女を見るだけで、胸が引き裂かれそうになる。
 きっとこいつは自分がおかしいなんて自覚さえしていない。
 殺すこと、破壊すること。幼女にとっては生きる術であり、果たさなければならない命令なのだから。
「お前の名前はガズっていうのか」
「ガズネ」
 聞いたことも無い名前だった。
「ガズ は ガズネ」
「変な名前だな」
「ふらんしす が くれたの 」
 ガズネ。
 まともな愛を知らず、殺すことと壊すことしかできない、哀れな子供。
 ホークが無言で頭を撫でてしまったのは、同情心からだったのか、誰にもわからない。
「 ? 」
「ガズネか。俺は多分、一生忘れられないな」
 酷く痛んだ髪は長期間洗っていないのか不潔極まりないが、撫でることに抵抗さえ感じなかった。
 髪質が硬いのはきっと血を浴びすぎたせいだと解釈し、また虚しくなった。
 ガズネは不思議そうに目を細め、最終的に煩わしげにホークの手を強引に引き剥がしてしまう。
 そして、むっと頬を膨らませ、指をさして訊ねてくる。
「……おじさん だれ ? ころしても いい?」
 早くも無駄な情報は消去されてしまったようだ。デリート機能は実に早急に作用して優秀極まりないが、根本的な記憶器官に至っては旧式の劣化したパソコンよりもひどい。
「またかよ!そもそも俺はおじさんって歳でも……外見でもねぇよ!」
 至極どうでもよさそうな目で見られるが、めげない。
「俺にはホークって名前があんだよ」
「ほ ー く ? 」
 今、語尾に〝何それ美味しいの?〟を付け足せば、この上なくマッチすることだろう。
「ほ ほ ほ ? …… は ひ ふ へ ……」
 唐突に両手の指を使っては〝はひふへほ〟を数え出すガズネに、ホークはどこからつっこめばいいのかわからなくなる。
「ほ…… ほ。 ほほほー ?」
「発音がえらいことになってるぞ……お前はどこのフクロウだ」
「ほ、ほ ? …… いい にくい 。 やだ 」
 この世に数多く存在する人名の中で、発音しやすい名前ランキングの上位に浮上しているであろう〝ホーク〟を、言いにくいと苛立たれたのは人生初であり、おそらく最初で最後の経験だろう。
「ちょっと待て……」
 ホークは肩を竦めながら、ポケットから携帯電話を取り出す。
 ガズネがどこの国籍を持っているのかは不明だが、肌と髪の色だけで判別するならおそらくは東洋人だろうか。顔立ちは日本人に近い。
 お互い少々複雑でややこしい事情があるため会話に関しては多少難があるとは言え、問題無く行えている、はず。
 とりあえずここは日本。ジャパンなので、奇跡的に傷一つついていない携帯に自分の名前を打ち込んではガズネに見せる。
生憎、メモ帳やボールペンなどの筆記用具は持ち合わせていなかった。
「……」
「……別に画面と睨めっこしろとは言ってないんだが」
 顔をしかめて携帯の画面を凝視するガズネだが、およそ八秒後には不満を露わに訴えてくる。
「よめない !」
「だよな!そんな予感はしていた!」
 だんだんと謎度未知数なガズネに順応してきたのか、特にショックを受けることもなく納得してしまう。
 その時、ガズネはふと画面の隅に目を奪われる。
 そこには予測変換の際に表示された画像が残っていたのだ。
 空を飛ぶ、凛々しい鳥の姿が。
 それは〝ホーク〟、〝鷹〟なのだが、無知なガズネは何故だか少し興味が沸いた。
 彼女にしては珍しい関心である。
 鳥は、彼女にとってはほんのわずかだが、他とは違う特別なモノなのだから。
「おじさん とり なの ? 」
 いきなりの質問に、ホークは首を傾げそうになる。
「お前には俺が鳥に見えんのか。名前は鷹だけどよ」
「たか ?」
 ガズネはしばし考えて、何か閃いたのか大きな声でホークに言う。

 

「たか の おじさん!」
「せめてお兄さんにしろーっ!」

 

 ここで大人気ないと言ってはいけない。
「たかの おにいさん ? ……たかのおにいさん」
「正直そっちのほうが言いにくそうだな……」
「たかのおにいさん なまえ へん」
「……そろそろノーコメでもいいよな」
 頭が痛くなりそうだ。
「たかのおにいさん は あじん なの ? 」
「あじん?」
 聞き慣れない単語だ。
 おそらくは、亜人のことだろう。
「あじん は にんげん と にんげん じゃない やつ の はんぶん 」
 ガズネの言葉に、ホークにはますます疑問が湧き上がってきた。
 人間と、人間じゃないやつの半分?
 半分?種族……人間ではない知的生命体?
 何だか、とんでもなく、スペクタクルな、展開に。
「……ちょっと待て。お前、本当にどこから来たんだ?」
 天井の穴を見上げてはきょろきょろと視線を彷徨わせていたガズネだが、ホークに呼ばれていることに気づくと、視線を泳がせる行為そのものに飽きたのかおとなしくなる。
「どこ ? ……あっち 」
「どっちだよ!」
 ザ・アバウト。
「とおく から きた 」
 指をさすガズネだが、どう見ても適当だ。
「ざっくりすぎるぞ……」
「おじさん うるさい しぬ ? 」
「ガキが物騒な言葉を使うな」
「ガキ ? ……ガズ は ガズ 」
 むすっと拗ねるガズネに、内心でホークは「めんどくせぇえええ!」と、絶叫していた。一筋縄どころか命綱さえ我関せずで切り落としてくる幼女は、本当の意味でも難敵、強敵である。
「ごちゃごちゃしてきた……とにかくお前を放置するわけにはいかねぇから、連れてくぞ」
 例えガズネがこの世界ではない別の世界から襲来してきただとか、そんなSFチックな展開が仮に本当だとしても、真相を確かめる術はここにはない。
 今ここでろくに意思疎通が交わせない子供相手に終わりの見えない対談を繰り広げていても日が暮れてしまう。そちら方面の分野に詳しい仲間に相談するのが一番手っ取り早い。
 しかし、どうやって連れて行くものか。外で大暴れさせたら大惨事は免れない。
 悩むホークだったが、思いの外ガズネはすんなりとホークの後ろについてくる。
 ……もしや、背後を歩くのは万が一のことがあっても暴力という形で対処できるからか?
 そう考えると、迂闊に足を止めることもできない。後ろを歩く子供のプレッシャーに身震いしそうになるが、慎重に誘導すれば何とかなるだろうと自分に言い聞かせた。
「たかのおにいさん」
「なんだ?」
「ろりこん なの ?」
 口に水を含んでいたら全部噴き出していたに違いない。
「あ!?……ボキャ貧のお前からそんな単語が出るとは思わなかったぞ……」
「ガズ を つれてこう と する ひと は しゃかいのごみ ろりこん って ふらんしす が」
「へー……あー……そー……」
 この時、ホークの中での〝ふらんしす〟は完全に最低最悪の人物として確定し、出会ったら問答無用で殴ろうと固く決意した。
「なら たかのおにいさん ころして いい ?」
「あのよ……いい加減疲れてきたんだが」
 本音を打ち明ければまったく取れていない疲れを解消すべく二度寝に洒落込みたいところだが、当分予期せぬ多忙が続きそうだと、ホークは長い溜息をついた。
 幸いまだ朝早いため、通りがかる人間はほんの少人数だろう。
 とりあえず、ガズネのみずぼらしい服装を何とかしようと、ホークは歩幅の小さな足音に耳を傾けながら廃ビルを後にした。
 余談だが、決してガズネはホークを見張るつもりで背後を陣取ったわけではない。
 単純に眩しい太陽の直射日光を避けるための庇として、ホークの背中を利用していただけだったのだ。




 

 

 

 

次話へ 目次へ