5 まっかなばらとまっかなせかい





 昔々あるところに 真っ黒髪の女の子がいました。
 女の子は取り替えられた子供であり お母さんから産まれましたが お母さんの本当の子供ではありませんでした。
 本当の子供は 妖精達に攫われて 食べられて死んでしまいました。
 寒い雪の日に産まれた女の子は 決して祝福されませんでした。
 「この子、私の子じゃない」
 お母さんは女の子を見てすぐに そう言いました。
 不気味な黒い髪に黒い瞳。
 人々は女の子を恐れ 厄災の象徴だと遠ざけました。
 女の子は四人兄弟の次女として産まれましたが 産まれてすぐに地下室に閉じ込められたせいで 他の兄弟と一度も遊んだことがありませんでした。
 女の子が覚えている限りの記憶では 三人の兄弟は皆、金の髪に青の瞳で、真っ黒な女の子にひどく怯えた目を向けていました。 
 地下室で育った女の子はほとんど面倒を見てもらえず 毎日ひもじくて寒い思いをしていました。
 だけど女の子は一度も泣きません。笑うことも怒ることもしません。
 無表情のまま 女の子は毎日地下の天井の隙間から 僅かに見える空を見つめていました。
 女の子の世界は冷たく暗い灰色の地下部屋と 時と共に色を変える空と 自由に旅をする雲と 翼を広げて飛ぶ鳥だけが存在していました。
 お母さんは女の子をたびたびいじめました。
 叩かれることには慣れていましたが ある時 お母さんは女の子の背中に熱い火掻き棒を押し当てました。
 「穢らわしい妖精の翅は焼けてしまえ」
 それから 女の子の首を絞めては叫ぶのです。
 「私の子供を返して」
 女の子は何度も何度も叫ばれて 背中の痛みと息苦しさに 意識を失いました。
 それからは命からがら逃げたような気もしますし そうではなかったような気もします。
 気づけば女の子は ゴミ捨て場のゴミの中に捨てられていました。
 女の子が産まれた時と同じように 寒い雪の日でした。
 凍えそうな寒さの中で 焼けた背中がひどく痛みましたが 女の子は歩きます。
 裸足で歩きます。
 歩いて 歩いて 歩いて 歩いて 歩いて 歩き続けて 女の子は背中の痛みとお母さんの嘆きから目を瞑りました。
 
 真っ黒な女の子は どこに行っても嫌われ者でした。
 人々は女の子を見ては気味悪がり 罵りの言葉と哀れみの言葉しか与えませんでした。
 ろくに口も利けない女の子は 居場所がありません。
 物乞いを続けていたある時 女の子は通りがかった悪い奴隷商に捕まりました。
 鎖に繋がれた女の子は 厳しい環境で働くことを余儀なくされました。
 女の子に任された仕事は 水汲みと死体処理でした。
 逆らえばひどい暴力を受け そうでなくとも女の子は鞭で打たれました。
 奴隷の檻馬車の中には女の子以外にもたくさんの子供の奴隷がいましたが みんなみんな 悲しい顔をしています。
 女の子にはよくわかりません 悲しむ理由も 悲しみの表情の作り方も 悲しみの分かち合い方も。
 暗くて臭い檻の中で 女の子は鉄格子の窓から やはり空ばかり眺めていました。
 空と雲と鳥 スコップを手に死体の山を前にしても 女の子は空を見ていました。
 死体の海の中で丸まって眠れば 星も覗きました。
 血の匂いも 臓物の温かさも 何もかも 受け入れて。
 そんな女の子に少しでも親切にしてくれた優しい奴隷もいました。
 例えば 希望を忘れていない栗色の髪の男の子だったり
 足掻き続ける火蜥蜴髪の少女でした。
 ですが 男の子は女の子の前で死にました。
 女の子を庇って 目の前で八つ裂きにされて死にました。
 火蜥蜴髪の少女もそれを見て 絶叫しました。
 叫んで 叫んで 叫ぶ中 女の子はぼんやりとただ立ち尽くしていました。
 その後 絶望に暮れる火蜥蜴髪の少女は売られてしまい 女の子は行方を知りません。
 「どうしてアタシ達がこんな目に合わないといけないの?」
 少女の言葉に 女の子は何も答えませんでした。
 女の子は鞭打ちの痛みと 骨が折れるような疲労と 男の子の笑顔と 少女の悲鳴から 目を瞑りました。

 たくさんひどいことはされました。
 それでも 女の子は泣きません。
 ひたすら我慢するわけでもなく 耐えるわけでもなく 他人事のように自分から目を逸らしていました。
 ただ 俯瞰するように ただ 遠巻きに見るように 意識は常に空高くありました。
 あるはずの無い翼を焼かれた女の子は 鳥のように空を飛ぶことはできませんでした。
 どこにも逃げられない。
 そんなことは 女の子が一番わかっていました。
 だから女の子は 何も喋りませんでした。
 
 女の子が初めて人を殺したのは寒い雪の日ではなく 真逆の熱い夏の日でした。茹だるような熱気と一緒に 嫌な腐臭が漂う季節でもありました。
 檻の中で舌を噛み切って自殺した奴隷の後片付けをしていた女の子は 突然奴隷商人に拘束されました。
 女の子が人間ではないことが 奴隷商についにばれてしまったのです。
 何年月日が流れても まったく成長しない女の子に不審感を抱き やがては確信へと変わったのです。
 女の子はナイフを突きつけられました。
 「忌まわしき人外め」
 女の子には 意味がわかりませんでした。
 今までずっと命令に従ってきたのに 何故こんな風になってしまったのか 理解できませんでした。
 自分を呪ったお母さん 自分のために死んだ男の子 自分の前で涙した少女 たくさんの死体 たくさんの憐憫の眼差し たくさんの怒声 たくさんの痛み たくさんの悲しみ たくさんの たくさんの たくさんの死。
 自分が殺されると悟ったその時 女の子の頭の中は 死で いっぱいになりました。
 死ぬ。
 死ぬ とは なんでしょう。
 死体になる こと でしょうか。
 今まで埋めてきた 臭くて汚い 死体に なること でしょ うか。
 
 死 死 死 死 溢れて 死 死 死 死 敷き詰められた 死 死 死 死 激痛の中 死 死 死 死 望まれて 死 死 死 死 死 死 命を 死 死 死 断つ 死 死 死 死 屍 と 死 死 死 死
死 死 死 殺され 死 死 死 殺される 死 死 死 死 死 死 !
 
 コロサレル!
 コロサレル!
 コロサレテシマウ!

 死ンダラ 目モ 瞑レナイ!

 女の子は叫びました。
 女の子が叫ぶと 目の前の奴隷商人には爆ぜ飛び 肉片になりました。
 だから女の子は殺しました 皆 殺しました。
 喉から血が出ても叫び続け 叫び 叫び 叫び続け 商人も 奴隷も 何もかも 皆 殺しました。
 真っ赤な世界。
 燃える世界。
 いつしか全ては火の海で 空さえ見えなくなっていました。
 女の子は 女の子は 女の子は 火に包まれた世界を見て 赤い赤い世界を見て 思いました。
 「このせかいはさいしょからすべて ちまみれなんだ」と。
 全ては真っ赤なのだと。
 赤色しかないのだと。
 自分の髪の黒さえ掻き消えてしまうほど 赤しかないのだと。
 人間も 人間ではないものも 赤くなって死ぬのだと。
 「まるで薔薇のように赤くて美しい世界でしょう」
 真っ赤に血塗られた女の子は 赤薔薇のような紳士に出会いました。
 紳士は女の子を手招きし 優しく抱きしめてくれました。
 「貴女には黒よりも赤が似合います。私の元においでなさいな」
 紳士の囁きは女の子の価値観をたちまち変えて いつしか女の子は紳士に尽くしたいと望むようになりました。
 いつまでも いつまでも 役に立ちたいと 傍においてもらいたいと。
 「貴女のことを愛してあげましょう」
 女の子は紳士に魅了され 自ら望んで新しい首輪をつけました。
 そして 奴隷時代の記憶の全てに目を瞑り 人の殺し方だけははっきりと覚えました。

 それから女の子は紳士に従い 紳士のためにたくさん人を殺しました。
 人を殺せば紳士は女の子を褒め 愛してくれました。
 だからこそ女の子は恐れていました。
 いつか人を殺せなくなったら 紳士に嫌われてしまうのではないかと。
 紳士は女の子にとっては世界であり 神にも等しき存在でありました。
 女の子は嫌われてしまうことに対する恐怖に怯えながら ますます人を殺しました。
 十や二十ではきかないほどたくさん たくさん たくさん 殺しました。
 今度は死体を埋める側ではなく 死体を作る側になりました。
 殺して 目を瞑りました。
 目を瞑り 瞑り 忘れました。
 そんなことを繰り返しながら 女の子は生きてきました。
 そして 女の子は 紳士以外の人物に 初めて抱きしめられました。
 「ガキはガキらしく我儘言ったりふざけたり、馬鹿したりしていいもんだぞ」
 温かい手で 自分を撫でてくれた。
 困った顔をしながらも 笑ってくれた。
 自分を殺さず 優しくしてくれた人。 

 誰にもお前を傷つけないし、傷つけさせない。
 そう言ってくれた人。

 女の子は その人の名前を覚えてしまいました。
 目を瞑ることが できませんでした。
 だから 女の子は
 女の子は。

 

 

 ◆

 

 

「まるで化け物の胃袋の中のような絶景ですね」

 

 満月の夜、フランシスは夜風に髪を揺らしながらどこか遠くを見るように呟いた。
 廃ビルの屋上のひしゃげたフェンスの上にて、フランシスはちょこんと腰を下ろしている。奇しくもそのビルはかつてガズネとホークが戦闘を繰り広げた場所であるが、今はホークの姿はどこにもない。
「……」
 ガズネはフェンスに昇ることなく、フランシスの近くで棒立ちしている。
 今回は奴隷らしいボロ布では無く、暗殺者を名乗るに相応しいぴったりとしたデザインの黒装束を着ており、両手足首の枷と揃いになっていた。
 新たに首輪も付け直され、装飾である銀の棘がぐるりと四方に短く伸びている。
「見えますかガズネ。気持ちの悪い原罪の羊達の魔窟が」
 地平線の彼方まで広がるのは、統一感のあるブロック型ののっぽなビルの群、量産された置物のような民家が立ち並ぶ居住区、広々とした歩道に商店街らしき商業区、爛々と光り輝く電光版の渦。
 星を隠す夜空の下に、もう一つ星空が展開されている。
「高層ビルの楔。ネオン街の墓場。摩天楼の腐海。車道の空虚。星光を殺す人工灯。暗陰の月。規制に縛りつけられた摂理。濁った排気ガス。眠らない夜の世界。全てが懐かしい。懐かしくてたまりませんね。遠い昔の大嫌いな人間社会の全貌に面白いくらい酷似しています」
 ブランコを漕ぐ要領でフランシスがスウィングすると、軋んだフェンスは嫌な音を立てた。
 ここから落下すれば間違いなく死ぬだろうが、フランシスにとっては些細なことだ。
 死は日常であり、愛すべき刺激なのだから。
 死に対する嫌悪感や危機感、畏怖の念がまるで無い故に、フランシスは身の回りに注意を払わない。
 死んだら嫌でも自動的に蘇るため、警戒すること自体が無意味だと理解している。
 死は、彼にとっては長年の付き合いがある親しくも悪しき友人である。
 死を恐れないフランシスは、唐突に歌うように語り出す。
「平行世界とまでは行かなくとも、案外別個の世界にも同一性なる繋がりはあるのかもしれませんね。宇宙の真理……宇宙もまた、一つの小さな枠組みに過ぎず、砂粒のようなモノでしかない。想像すると恐ろしくなりますね。私達は宇宙に飼われ、宇宙もまた、何かに飼育されているだなんて、あんまりだと思いませんか?」
 まるで鳥籠に幽閉された鳥のよう!
 フランシスの声に誘われるように、ガズネは空を見上げる。
 星が視認できない闇空は物悲しく、どこか哀愁を漂わせている。失敗作の絵画に泥が塗りたくられたような、悲愴の色。
 鳥は、どこにも飛んでいない。
「貴女には難しい話でしたね。どうですか?電気光が灯る集落の景色は。我々の世界では人間は日が沈めば床に就くのに、科学に溢れた世では夜間も真昼と同等に活動を可能にさせる……オーバーテクノロジーかロストテクノロジー。この場合はどちらを使ったほうが正しいのでしょうね」
 光の粒子めまぐるしく飛び交う地上で、たくさんの人間が暮らしている。
 灯りの光源は電力。
 ならば、人間は輝きを持たない星のようだ。
 星屑のように数えきれないほど、星砂のように気の遠くなるほどの人間が、眼下の大地で生きている。
 ガズネは奇妙でならなかった。
 命の輝きが星から与えられたのならば、何故、人間はあえてそれに刃向かうのか。逆らうのか。恩を仇で返すのか。
 これはいつだって、フランシスが失笑していた人間達の罪。
「まぶしい」
 だから、ガズネは言った。漆黒の瞳を細めて、多量の電光を避けて。
 真昼のような明るさは嫌いだ。
 人間も、何もかも嫌いだ。
 光なんて不必要だと、ずっと昔からガズネは心内に吐き捨てていた。
「だけど……」
 あの人の髪は夜のように真っ黒だけど、光を失ってはいなかった。
 だが、その言葉はフランシスに届かず、シルクハットの縁に手をやりながら、少年紳士は悪巧みをする。

 

「それじゃあ、全部燃やしますか」
 
 燃やす。
 フランシスの残酷非道な気まぐれに、ガズネは急激な息苦しさを覚えた。
「こちらの世界の欲しい情報は粗方仕入れましたし、用事も全部片付きました。異世界に関しての記録は帰宅してからまとめるので、もうやることがありません」
 後はもう発散するしかないですよねぇと、フランシスは両手を広げる。濁った夜空を抱きしめるように、大きく。
「なかなか面白い世界でしたね。雰囲気は旧世界の西暦2000年代半ばにそっくりですが、科学の裏に魔法以上に大きな存在が潜んでいるとは予想外でした。この世界観で一本小説が書けてしまいそうですね。主役やヒロイン、脇役も含めて……天使の皆さんにキャストを組んでもらいましょうかね」
 ガズネの目裏に浮かんだのは、あの家で異様なほど気楽に、マイペースに暮らす親しげな天使達だった。
 ああ、でも、あれもかれも何もかも、フランシスの操り人形。
「きっとこの世界は、愚かな我々の世界とは違って、あんな形の破滅に転じることは無いのでしょうね。それは人間達の賢さゆえか、はたまたは天使のおかげなのか。     神の力なのか」
 神。
 フランシスがその単語を口にした瞬間、ガズネとの間の空気が一気に凍りついた。
「神の祝福、救済……神に見放されていない地球は、存在するのですね。ふふふ、ふふ、結局神はとことん高みの見物ですか」
 小馬鹿にするような態度を崩さず、座るフェンスに手をやり、前へ動く。
 体重を移動させただけだろうが、はたから見れば落下の直前行動のように捉えられたことだろう。
 落ちない。
 フランシスは落ちない。
 この舞台から永久に落ちれない。
「この世界の完全なる侵略はさすがに厳しいのであまり意味は無いでしょうが、どうせなら街一つくらい消してから退散しましょう」
 何故なら彼は、とうに墜ちているのだから。
「神に統治される地上に興味はありません。むしろ悪寒が奔ります。神に飼われている豚共のほんの一部を屠って、宣戦布告の先端だけ売っておきましょう」
 地獄のような生の檻で、踊り続けなくてはならないのだから。
「どうせなら神様とやらを引き摺りおろして跪かせたいですが、さすがに秩序を乱しては私達がどうなるかわかりませんので、それは可能なら、また今度決めましょう」
 今宵の退屈凌ぎのために、世界で踊らなければならないのだ。
「気分だけ遠足です。久々に思い切り暴れていいですよ、ガズ。ここ数日不殺を強制されて苦しかったでしょう。今晩は心行くままに力を使っていいですよ。私が許可します」
 遊びの作戦を組み立てるように残虐な計画を提案するフランシスに、ガズネは返答しなかった。
 フェンスの金網に手をかけて、握る。   
 握力を込めれば粘土のように網の形を変えられるだろうが、そんな無駄なことはしない。
 フェンス越しに世界を見下ろすガズネは、それこそ鳥籠の中の鳥のようだ。
 真っ黒で、気味の悪い、災厄の、化け物の子。
 手に届かないものを眺めるように、彼女は街を見る。
 そして想像する。
 あの日のように、紅蓮の火に包まれる様を。
 人が爆ぜる瞬間を。
 命が途切れる残響を。
 絶望をも凌駕する、殺戮欲と、高揚感を!
 

〝ガズネ〟
 

「…… どうして 」
 どうして?
 思い出すのは何故?
 名前を呼んで、頭を撫でてくれた男が、彼女の意思を掠める。
「……ガズネ。貴女、どうかしちゃったんですか。以前の貴女なら嬉々して私に従ってくれたのに」
 背を限界まで後ろに反らせて、フランシスは不満を露わにガズネに鋭い目をやる。
 毛先が肩口まで届く長さの髪は糸のように風にそよぎ、奇異なことにゆっくりと色を変える。彼の体色は一つに定まらない。
 赤、青、黄、緑……最後に落ち着いたのは、金髪だった。
 金髪碧眼。黄昏時の草原のような髪に、真冬の澄んだ蒼穹のような瞳。
 懐かしい、故郷の色。
 ガズネは嫌な記憶を思い出しそうになり、俯いてしまう。
「昔のことでも思い出しそうになりましたか。目を瞑るだけの眠り姫」
「……っ」
「駄目ですよガズネ。約束しましたよね?私は貴女を愛し養う〝家族〟になると。貴女は私に死ぬまで尽くす〝犬〟になると」
 契約は交わした。
 燃える世界を見下ろしながら、黒煙が立ち昇る空の下で、ガズネはフランシスと確かな主従の違いを立てた。
 ガズネが死するまで途切れない、時効を連想させる制限付きのリングを繋いでいる。二人を結ぶ、絶対なる支配と服従の証。
 赤薔薇の王と、邪妖精の取り替えっこの関係。
 彼女は望んで〝人間〟として生きるのを辞め、〝ペット〟として生きることを選んだ。
 あちこちの首に掛けられた枷は、何よりの証拠だ。
「この街に何か未練があるのですか?お情けはいけませんよ。情愛ほどあてになないものはありません。何より、貴女には人情だなんて大層なモノは不要でしょう。そういう風に育ててませんよ私は。貴女は殺欲に素直でいなさい。鮮血に執心でいなさい。最重要なのは私。私だけを見ていなさい。心を揺るがさず、私だけを欲しなさい」
「…… ふらんしす 」
「貴女がもう少し大人だったなら、もう少し発育が進んでいたら、景気付けに一発くらい夜の帳を設けてもよかったのですが、ペットとするってちょっとやばそうですよねいろんな意味で。経験が無いわけではないですが、今のご時世規制が厳しく取り締まれていますから……」
「 ふらんしす …… 」
「はい?何ですかさっきからピーチクパーチク九官鳥のようにうるさいですね。ミミズを食わせますよ?……ああ、鳥と言えば、貴女は鳥を撃ち落としたことがありますか?」
 フランシスの質問に、ガズネは首を横に振る。
「随分昔にひたすら鴨を撃ち落として犬に拾わせるだけのゲームがあったんですが、タイトルをど忘れしてしまいました。何でしたっけ……まあ構いません」
 フランシスは器用にバランスを保ちながら腕を組む。
「可愛い可愛い私の眠り姫。ゲームをしましょうか。楽しくて簡単なゲームです」
「 げー む …… ?」

「ねぇガズネ。大切な物を失う代わりに生きるか、大切な物を守り通して死ぬか、どっちがいいですか」

 ガズネの両目が見開かれたのを見て、フランシスの相貌が悪趣味な笑顔に歪む。人を陥れ、不幸の蜜を舐め、絶望や苦悩を達観し、慟哭を鑑賞する、悪魔のような表情に、ガズネは悲鳴さえ発せない。
 者の精神的外傷を抉るのは、人間失格の趣味だ。
「前者はあえて語る必要もありませんが、一般的ですよね。ベストオブツマンナイ。誰だって死ぬのは恐ろしいですから。結局誰しも一番大切な物は自分の命であると、無意識に、無自覚に肯定しているのですから。貴女は間違いなく前者ですよね。今までずっと、そうしてきたんですから」

 

 他人の命を奪い取ることで生き永らえてきた貴女には、よくわかるんじゃないですか?
 
 震えるガズネにフランシスは優しい口調で、針のように鋭利な言葉を投擲する。
「後者は俗に言う〝英雄〟タイプですね。ですが歴史上に名を残し、後世まで讃えられるのはほんの一部のみ。残りは人知れず〝存在〟が消失するか、ゆっくりと〝名〟が朽ち果てるか……どう考えても損な役回りですよね。それでも進んで何かを守り通そうとする志しは嫌いではありません。ええ、実に踏み躙りがいがありますもの」
 笑いながら、フランシスは後ろを振り返る。
 静かに、優美に、流れるような動きで、フェンスの上に仁王立ちする。
 不可視の風が頬を撫で、フランシスに従うように渦を巻く。
 ここはすでに〝王〟の領地だと、自然の概念さえ跪くように。
「あの〝鳥〟は、きっと後者なのでしょうね。主人公気質……早死にするタイプですね」

 

 ああ、招待したつもりはなかったのですが、歓迎してあげましょう。

 こんばんは。しかめ面の王子様。
 悪夢に沈む口無しの姫君を、救いに来たのでしょう?

 

 瞬間、屋上に続く扉が吹っ飛ばされ、正面のフェンスの網部分に直撃する。大破しなかったのはもはや奇跡だ。
 重い衝撃にフェンス全体が激しく振動したが、フランシスは何てことなさげにバランスを保つ。
「え…… ?」
 その先に広がるありえない光景を目撃し、ガズネは言葉を失う。

「よう。終わらせに来たぜ」

 そこには、ホークがいた。
 躊躇も遠慮も容赦も無く、一点の迷いも無く、彼は荒っぽく登場した。
 物語にピリオドを付ける為に。
「 たかの おにい さ 」
 なぜ ここ に
 ガズネの小さな唇が動く前に、フランシスが大げさなリアクションを見せ、素っ頓狂な声を上げた。
「あらあらあら?あれぇ?何で貴方がここにいるんです?ストーカー行為は犯罪ですよ?しかも少年幼女相手とは、なかなか良い趣味してますね」
 煽るような言葉だが、ホークは顔色一つ変えない。
「何とでも言えよ。ガキの戯言くらい聞き流してやるよ」
 ガキ。
 先日の脅しを振り切って、躊躇無く吐き捨てられた総称に、フランシスは僅かに眉をひそめた。
「……どうしてここにいるってわかったんですか?」
「俺を……〝俺達〟をなめるなよ。お前は天使風情だか何だか言いやがったが見くびるのも大概にしろ」
 おやおや、お仲間に協力してもらったんですねと、フランシスは内心で少々自分の手の内の甘さを叱責した。

 なーんだ、最初から仲間諸共ガズネに皆殺しにさせればよかった、と。

「何です?天使レーダーでもあるんですか?あははそれは傑作傑作実に傑作!」
 それでも大したことには変わらないと、フランシスはぱちぱちと手を叩く。
「さてさて本題に入りますが、貴方は何故ここに来たんですか?私は言いましたよね?二度と関わるなって」
「正直、二度と関わるのも面を見るのも勘弁したいところだったけどよ、ガキみたいに駄々をこねるわけにはいかないんだよ。こっちは」
 くるりと、フランシスは不安定で細い足場の上で器用にターンをする。
 ブーツの靴底が楽器のように奇妙な音色を奏で、指をぱちりと鳴らせばどのような仕組みになっているのか、シルクハットの蓋部分が連動するようにぱかりと口を開ける。
 おもちゃ箱がひっくり返るようなファンシーな雑音と共に飛び出すのは、色とりどりの紙吹雪とラメいりの細糸、まるでパーティクラッカーの中身のようだ。
 更に遅れてびっくり箱のバネのように内部から懐中時計が転がり出て、フランシスは慣れた様子でキャッチする。
「草木も眠る丑三つ時。運命的のようでもはや必然ですね。貴方の死は、いつだって物悲しい闇夜の狭間。中間地点」
 時計盤の針は、奇しくもホークがガズネと出会った時間帯を丁度指し示していた。
 現在の時刻を確認し、帽子の中に再び時計を投げ入れ、ぱたりと蓋は閉ざされる。
「あーあ。警告におとなしく従っていれば痛い思いをせずに五体満足で帰してあげたのに。私の情けをよくもまぁスルーしてくれましたね。これはお仕置きが必要です。とびきり激しいやつをね♪」
 ふわりと重力加速度を無視して、フランシスはゆっくりとフェンスから飛び降り、屋上の床に着地する。
「その大仰な翼を引き千切って、羽布団にでもしてやりましょうか。でも薄っぺらで質感が無さそうですから、精々氷枕ぐらいにしか活用できなさそうですね」
「悪趣味だ。全くもって不愉快だ。こんなやつがガズネの育て親だなんてよ、天使でも鳥肌が立つぜ?」
「……貴方は、そんなにこの子が大切なのですか?出会って間も無いこの子が。最低でも二回は貴方を殺した、この子が」
「大切、か」
 初めて出会った路地裏で、ゴミを漁っていた弱々しい女の子を。
 獣のように絶叫しながら、孤独を拒絶した哀れな女の子を。
 風呂に入れ、食事を与え、少しずつ打ち解けてくれた可愛い女の子を。
 人を殺すことでしか自分の価値を見出せない、起爆装置のように恐ろしい女の子を。
 禍々しくも美しく、悍ましくも可憐な女の子を。
 「たかのおにいさん」と、か細い声で呼ぶ女の子を。
 決して助けを求めない、口無しの女の子を。

 守りたいと思ったのは、嘘じゃない。 
 偽善でも欺瞞でも無い、心からの本音だ。
 大切にしたいと思うのは、本心からだ。

「あんな目をされて、黙ってられるほど俺は人間やめてねえよ。厳密には人間じゃないがな」
 広場でガズネを引き剥がされたあの日、その気になればフランシスは何度でもホークを嬲り殺すことが可能だった。
 そんな中でガズネは、名残惜し気にフランシスに着いて行った。

 

 ばいばい
 はやく にげて
 ふらんしす は あなた を ころす
 かかわっちゃ だめ

 

 あの時の瞳は、光を見据えない漆黒の瞳は、確かな惑いの色を帯びていた。
 まるでガズネがホークを守るために、フランシスの元に戻ったような、そんな風にも捉えられてしまう。
 あの子は身を挺してホークを守った。
 ならば、ホークも守らなければならない。誓わなければならない。強制的な呪いの効果でも無く、自らの意志で足は動いていた。

 さあ、今度は俺の番だと。
 そしてこれが、フィナーレだと。

 感動的なエンドロールも、哀愁漂う照明も、拍手喝采も必要無い。
 もともとこの舞台は、ありえもしない話なのだから。
 誰にも望まれない物語なのだから。
 これは、世から捨てられたホークとガズネの演目なのだから。
 二人が始まり、二人で終わるだけの、呆気なくも単純で、面白味も何も無い、たったそれだけの物語。
 傍観するのは悪評を叩き込むフランシスだけ。
 それも構わない。
 世界が何だろうが、評価や批評がどうなろうと関係無い。脚本は等に破り捨てられている。
 何もいらない。何も必要ない。あの子の幸福と、自分のわだかまりとの決着がつけば、それでいい。

「俺はガズネを大切にしたい。そのためにはお前をぶっ倒す。王道だろ?だが、つまらないメロドラマよりはよっぽど面白いと思うぜ」

 ハッピーエンドは、掴み取るものだ。
 だからホークは、ここにいる。
 ガズネの為に、自分自身の為に、ここに在る。

「ガズネ。俺と来い」
 ホークの言葉に、ガズネは顔を上げる。
 無表情の仮面は今にも砕けそうだった。
「お前に教えたい。この世界の楽しいことやつまんねぇこと、変なことや馬鹿みたいなこと、綺麗なものや何でも、お前に見せたい。お前に知ってもらいたい。この世界はお前が思うほど残酷じゃないってな。腐った思考の人間や私利私欲に肥えたクズみたいなやつはそこらじゅうに転がっているが、それでも、お前を心から愛してくれるやつがいるってことを。もう、お前は人を殺さなくていいんだ」
 もう二度と、血の海に沈まなくていい。
 修羅の道を歩まなくていい。
 普通の人間の女の子のように、生きる未来が残っている。
 まだ、お前はそこまで壊れきっていないのだから。
「あい して くれ る ……? 」
 愛し、愛される?
 ガズネの心が揺らぐ。
 その横で、明らかにフランシスが不愉快そうに唇を噛んだ。
「ガズネ。駄目です。あの男は貴方の敵。誘惑されてはいけません。全てくだらない手に取る価値も無い戯言です」
「フランシス!お前にとってはくだらない価値かもしれねぇが、こいつにとっては唯一縋れる可能性なんだよ!どうして理解しようとしねぇんだよ!」
 だん。
 と、フランシスが地団駄を踏むように、ブーツの踵で思い切り床を叩いた。
 よく見ると唇から細く血が流れている。噛みちぎってしまった傷跡は間も無くして完治するが、フランシスの邪悪な笑顔までは元通りに戻せない。
「……ああ、喧しい。喧しい蝿ですね」
 笑みが失せた怪物の少年は苛立ちにも怒りとも表しきれない表情を浮かべていた。
 実のところ、フランシスがキレるのはとても珍しいことだ。
 珍しすぎて、凶悪すぎて、世界を一つ潰しかねないほど。
「ねえ、ガズネ。貴女は随分とまぁこのお兄さんに入れ込んでるみたいですが何です?貴女って優しくされたらすぐつけあがるタイプですか?尻軽ですか?え?ちょっとした〝無価値なきっかけ〟を境に男を乗り換える性格の悪い女でしたっけ?ごめんなさいもしかして私勘違いしてましたか?貴女のことひたすらずっとずっとずっーと可愛いだけの子犬だと思ってましたが、意外と惚れっぽい雌豚だったのですか?やっぱり家畜部屋にぶち込むべきでしたか?私今まで貴女に人並みの生活は送らせてあげましたよね?むしろ人よりは裕福で待遇の良いポジションに置いてましたよね?」
 呼吸する間も無くまくしたてられ、ガズネは両手でぎゅっと自分を抱きしめた。逆鱗に怯える子供のように。
「ちがう ちがう …… ガズ ふらんしす が いちばん …… !」
「なら、さっさとホークさんを殺しなさい
「……!」
 ガズネは蒼白する。
「聞いてます?殺せと言ったのです。これは命令ですよ」
「……っ!」
 無言の抵抗にフランシスは呆れの溜息をついて、帽子の縁を正しながらガズネに指をさした。
「本当に本当に本当に間抜けなライオンみたいにしょうがない子ですねぇ。親として子供の反抗期は誰もが通る道だから仕方が無いと割り切っていますから、今は許してあげます。今は、ね」
「…… あ…… !」
 フランシスが指を鳴らすと、がしゃりと鉄の錠が落ちるような音が響く。
 するとガズネの体のバランスが崩れ、彼女はそのまま受け身も取れずに転倒してしまう。
「…… !」
 起き上がろうと奮闘しても、ガズネは身をよじることしかできない。
「ガズネ!―――――てめぇいったい何を!」
「別に何も?ただちょっとばかり邪魔なので、枷の制御機能を使っただけです。あの枷はガズネの肉体強化の役割もありますが、能力制限も行えるのです。例えばそう、〝起き上がり〟〝歩行〟を一時的にブロックしたり」
 つまり、飼い犬の手を噛むような犬は最初から歩かせなければ手っ取り早いのです!と、フランシスはホークに近づく。
「まっ まって だめ …… !」
「お黙りなさい。我が従僕」
 悶えるガズネに、フランシスはぴしゃりと言う
「そこで見てなさい。手本を見せてあげますから。不死者の殺し方を、不死者の私自らが披露しましょう」
 不死者。
 その言葉を、ホークは驚くほど冷静に受け取ることができた。
「……お前も不老不死か」
 フランシスが不老不死ならば納得する。
 人間離れの力も、気配も、立ち回りも、年期が入っていたわけは、踏んできた場数が違ったということだ。
 いったい目の前の不死者は、何十、何百年の月日を越えてきたのだろうか。
「ええ。そうです私も不老不死の身。ですが貴方とは格が違います。桁も力量も経験も実力も違います。貴方が鷹なら私はそうですね、炎竜。ドラゴンです」
「ドラゴン?」
「さすがにドラゴンくらいは知っていますよね?ですが我々の世界にはおとぎ話やゲームだけに登場する架空の生物ではなく、ドラゴンは実在します。この世で最も強い伝説の魔獣、ドラゴン。神獣や聖獣と呼ばれることもありますね」
「お前らの世界ってファンタジー世界か何かなのか?」
「実際そんな感じですね。でもいいでしょう?義務と強制に縛られたつまらない保険塗れの世界よりは」
 いつの間にか、フランシスの手には一冊の分厚い本があった。
 古めかしい真っ黒な装丁に、ブックベルト代わりなのか頑なに開錠を拒むように淀んだ緑の茨が纏わりついている。表紙の鍵部分には毒々しい赤薔薇が生き生きと咲いている。
 異様な書物だが、そこから放出される悍ましい魔力素に、ホークはぞくりとしてしまう。
 何だかよくわからないがこれはやばい。とてもやばい。
 そしてその直感は、最悪の形で当たる。
 「炎竜は神を殺すドラゴン。天使を骨まで焼き尽くし、魂に牙を突き立てる。鷹の場合は塵ですかね。安心してください廃品回収……じゃなくて可燃ゴミに出してあげます。私はエコロジー精神満載の地球に優しい紳士ですから分別は怠りませんよぉ!」
 瞬間、緑の茨の鍵鎖が解ける。
 ぱさりと本が独りでに開かれれば―――――次元が歪むような錯覚さえ覚えてしまう。
 次々とめくられる本のページからは無数の読解不可能な言語が螺旋を築き、中空に羅列する。文章の一つ一つが個々の生命を帯びているかの如く、渦を巻いてはフランシスを歓迎するように囲う。

 

「『黒薔薇ノ魔女ノ魔導書(グリモワール・オブ・マリーベル・マーシアナ)』限定解除―――――上位コマンド。これより魔導書全管理権限をこの身に譲渡。領域制定と実行、全機能の操作許可……えーっと、とりあえず不死者を殺せるくらいの火力調整で、昇格ってことにしましょうか」

 

「な、何をするつもりだ!?」
 すでに空間は一転し、ビルの屋上は完全に消失していた。
 ホークの体が投げ出されたのは白黒タイルがチェス盤のように敷き詰められた大地であり、天空は鮮血のように赤い曇雲に覆い隠されている。明らかに人間世界ではない、異空間に召喚されていた。
「これで人目を気にせず思い切り戦えるでしょう?それに、私だって世界を丸ごと一つは滅ぼしたくはないですから~」
 とんでもない言葉を聞いてしまったような気がするが、今更聞き返すこともできない。
 いつしか世界は―――――真っ赤に染まる。

「さぁ、いきますよ黒鷹の王子様―――――赤薔薇の王が、汝に挑もう!」

 咄嗟にホークは走り出していた。
  逃げるでもなく策を練るでもなく、フランシスに真っ正面から拳を向けていた。
 あの本を使わせてはならないと、ホークの頭の中でけたたましい警鐘が鳴り響いていた。
 しかしその拳は届くことがなかった。

 

  何故なら、体から分離してしまったのだから。

 

「がっ……!」
「魔法詠唱省略。〝ギロチン〟をどうぞ」
 フランシスがくすりと悪魔的に笑んだ、刹那。
 ざしゅざしゅざしゅと、無慈悲な鉄塊が降り落ちるような音が連続する。

   ああ。
   四肢が引き千切れる。
   内蔵が潰れる。
   肉がミンチになる。
   骨が砕け散る。
   どれほどシャープに説明しようとしても、スプラッタな表現を使用せずには収まらない。
「あ……あ、あ……?」
 肉体の再生が未だかつてないほどめまぐるしく行われる。
 全身に奔るのは気が狂うレベルの激痛。
 気づけばホークは大量の茨に絡め取られ、真っ赤に染まっていた。
 己の鮮血に。
「この、や」
「リズミカール。アンドゥ、トロワ♪」
 フランシスが指揮者のように腕を振り上げてから落とすと、ホークの首が跳ね飛ぶ。赤色と中身を振りまいて、辺り一面を血の海にする。
 因果抹消効果を付属した魔法攻撃は、容赦無くホークを蹂躙していた。
「あっははははははは!グロテスクー!」
 実に愉快げに笑うフランシスだが、その後ろで立てないガズネは、今にも泣き出してしまいそうなほど顔を歪めていた。
「見てくださいよガズネ。この人本当に死にませんよ。私と同じ正真正銘の不死身ですね―――――世界から否定された怪物ですね!」 
 フランシスは興奮しているのか声のボリュームを上げて笑い続ける。
 そしてホークが喋れるレベルにまで回復するのをじっと待つ。
 この時点で一回や二回ではきかないほど殺しているゆえに、完治には少々時間がかかるが、フランシスは期待に胸を膨らませるようにじっくりと待った。
「このクソガキが……!」
 歯を食いしばりながら再生を終えるホークだが、ショックからか体が隠しきれないほど痙攣している。
 そんなホークにフランシスは残酷な笑顔のまま問いかける。
「どうしますかホークさん。後何回死にます?」
「はっ……その台詞、そっくりそのまま返すぜ」
「うふ、それはそれで何だか腸が煮えくり返りそうです。ならば、私は更に注文制を追加してあげます。どんな風に死にたいですか?出血死?圧死?轢死?窒息死?溺死?感電死?餓死?凍死?ご希望される死因がありましたらお気軽にリクエストをどうぞ!どんなプレイにも快く応じてあげられるのが私の優しいところだと思うんです」
 鬼畜の所業だ。
「ですが貴方のお望みは、焼死ですよねぇ―――――貴方は〝そうやって〟死んだんですから」
「……っ!」
 脳裏を駆け巡るのは過去の忌まわしい記憶。
 ホークの顔が歪んだその時を待っていたと言わんばかりに、フランシスはたたみかける。
「いやはや、貴方にもなかなか壮絶な過去があったみたいですね。ですが、ちょっと弱すぎやしませんか?この程度で死んだんですか貴方。やっぱり残機が無い人間は破れかけの障子紙なみの耐久力ですね。ノコノコだってもうちょい強いですよ!」
「テメエ……テメエに何がわかる!」
「わっかりまっせーん。なーんにもわかりませーん」
 フランシスは迷いなく、取り出した薔薇の細剣でホークの首を切断した。 
 弧を描いて遠くまで転がり落ちる首を見て、フランシスはにこりとする。
 そのまま全身を原形を留めないほど斬り刻む。
 床のタイルが血の海に沈む。
「でも思ったのですが、私は貴方のことわからないのに、貴方がガズネのことわかるはずがないですよね?普通に考えて。だってまだであってそんなに経過してないじゃないですか。経験も無いじゃないですか。絆なんて脆い物は信用しませんよ私」
 首が元通りに戻るまで、フランシスは待つ。
 ガズネは―――――倒れたまま震えている。
 声無き声で、悲鳴を上げている。
「なら、教えてあげましょうかホークさん。私は世界で一番優しいので、お馬鹿な貴方でもわかるようにはっきりと教えてあげましょう。ほら、薔薇に血を吸わせるように……」
 フランシスはすっと、手元から一輪の赤薔薇を取り出す。
 茎の根元のひどく尖ったそれを、フランシスは躊躇なくホークの体だったモノに突き立てる。
 瞬間、意識の底に伝わってくるのは―――――記憶。
 小さな女の子の哀しい悲しい物語が走馬灯のように、ホークの中を埋め尽くす。
「これがあの子の絶望、悲痛、憎悪、悔恨。まるで懺悔のようでしょう」
 間違って生まれてきてしまったことに対する絶望。
 何もできないことに対する悲痛。
 大切な友達を殺されたことに対する憎悪。
 何もかもを壊してしまったことに対する悔恨。
 懺悔の塊。
 ホークは何もできないまま、ただそれを見る。古いセピア色の映写機から映し出される映像を見るように、見続ける。
「貴方にガズネが救えるとでも?誰も救えないくせに。同情と偽善で世界が救えますか?この子の世界には血飛沫と臓物、肉片に脳漿、骨屑に腐肉、殺意と殺気、闇に閉ざされた赤しか存在しない!」
 ホークの体が治りかける頃に彼が視界の隅に捉えたのは、小さな女の子の姿だった。
 たかのおにいさんと、自分を呼ぶ、女の子の―――――。

「産まれたことを否定され、実の両親から見離され、他者から与えられたのは悲愴と激痛と虚無感のみ。誰もこの子を愛せない。愛したくないのですよ。化け物の面倒、尻拭いを率先して行う者は、聖人の皮を被った偽善者だけです。この子を妖精に取り替えられた娘として、〝マティルダ・ロスコー〟として愛情を注いでくれる者は、いないんですよ私達の世界には!」

 それが本当の名前なのかと、ホークは女の子に訊ねようにも、声は届かない。

「この子は化け物です。人間とは違い、死ぬまで化け物として生にしがみつくことでしょう。貴方とは違うのです。何もかもが違うのです―――――はい。それじゃあ続きやりますかぁ

 世界は何度でも赤色に塗り重ねられる。

 


 ◆

 

どのくらい時間が経過したのかは定かではない。異空間では時計はすでに機能しない。
 そもそも時計を見る者すら、ここにはいない。
「あーどうしよう……死なないよこの人。本当に死なないですよぉ……ホークさんそろそろくたばってくれませんか?これじゃあ消し炭にしてもダメじゃないですか。ねえどうしたら死ぬんですか?教えてくださいよ~」
 フランシスは多少疲労感をうかがわせる息を吐きながら、ぐったりと顔を伏せているホークに訊ねる。
 ホークの体は深緑の茨によって縛り付けられており、身動き一つ取れない状態で固定されている。茨を彩る薔薇達は血のように赤く、瑞々しい。
「……」
「返事をしてください。ほら、私の声が聞こえないんですか。もっかい鼓膜引き摺り出しますか?」
 痛みと衝撃ですでに正常ではない状態のホークは、朦朧とした意識の中で声を絞り出す。
「……おまえが、死なないのと、同じだろ……」 
「私と同じ、ね」
 たくさん嬲っても、痛めつけても、苦しめても死なない。間違いなくホークは不死身だ。そしてフランシスもまた不死身だ。
 必然的に―――――理解してしまうモノがあった。
「なるほど。そういうことですか承知しました―――――私としてはこのまま貴方が考えるのを止めるまでぼこぼこにしてもいいんですが、それもちょっと気が引けるというかつまらないというか……新展開が欲しいですね。視聴者がいたら飽きてますよ?この流れはつまらない流れです。なので、とっておきの爆弾を投下しちゃおうと思いまーす!」
 フランシスは茨があちこちに勢力を伸ばしていく床にて、いつまでも動けないガズネの手首を握って無理やり立たせる。
「カモーン、ガズネ。私の可愛い可愛い文字通りの爆弾ちゃん。名誉挽回のチャンスをあげようと思います」
 怯えきっているガズネの眼前に、フランシスは一本のナイフを突きだした。
 薔薇の文様が刻まれた、鋭利な銀のナイフだ。

「はい。それでホークさんを殺してください」
「……!」

「とりあえず軽く百回くらい刺せばノルマクリア達成ということで、もう一回遊べるドーン!みたいな感じで、まぁさっさとお願いしますよ。え?ナイフの握り方も忘れたんですか貴方は。もーうしょうがない子ですねぇお箸の持ち方よりも簡単ですよこんなの」
 強引にナイフを持たされたガズネは、重い足取りでふらふらとよろめきながらホークの前に立つ。
「……ガズ、ネ」
「たかの おにい さ ん」
 今のホークには抗う術も防ぐ方法も無い。
 そのナイフが突き刺されば、その分の苦痛を味わうことになる。
 わかっている。
 わかっているからこそ―――――惨い。
「さあ、やりなさいガズネ。やらないなら私がやりますけど、貴方のことも殺しますよ。命令のきけない悪い子に生きてる価値はありませんもん」
「っ!」
「ねえガズネ。貴方が望んだことって何でしたっけ―――――〝死にたくない〟でしたよね?」
 ならばと、フランシスは彼女に行く末を指し示す。
「ならば私に従いなさい。寿命を延ばしたければ私に尽くしなさい。さあ、早く。さあ、さあ、さあ、さあ!」 
 脅迫の言葉に、ガズネは
 ガズネは
 ガズネはガズネはガズネはガズネはガズネはガズネはガズネはガズネは―――――。

「……や」
 ふらりと、ガズネの膝がかくんと折れる。
「いや …… 」
 そのまま彼女はナイフを握ったままホークにしがみつく。
「いや いや いや !」
 抵抗するように首を振り、叫び続ける。
「いや ! いや ! いや ! あかく したく ない ! しんじゃ やだぁ !」
 叫び続けながら―――――彼女はホークの腹部にナイフを突き刺した。
 意思と体が反しているのか、制御が利かなくなっている。
 臓腑を抉る刃は深く、ホークは血を吐いた。
 血を吐きながらも―――――ガズネを真っ直ぐに見つめた。 
「いやぁ ! 」
 ガズネはナイフを引き抜く。
「やだ ! やだ ! やだ ! やだ ! やだあ !」
 そしてまた刺す。
「たかのおにいさん ! たかのおにいさん ! たかのおにいさん ! たかのおにいさん ! たかのおにいさん !」
 何度も刺す。
「きらわないで ! きらわないで ! きらわないで ! きらわないで ! きらわないで ! きらわないで ! きらわないで ! きらわないで ! きらわないで ! きらわないで !」
 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も刺す。
「なんでもする ! なんでもするから ! いやっ ! いやっ ! しにたくない ! しにたくない ! しぬのはいやだ ! いやだ ! いやだ ! ごめんなさい ! ごめんなさい ! ごめんなさい ! ごめんなさい ! きらわないで ! きらわないで ! きらわないでぇ !」
 真っ黒な髪が血に染まろうとも、体も服も真っ赤になろうとも―――――ガズネは叫び続けた。
 助けを乞う、幼子のように。
「いやああああああああああ !!!」
「―――――もういい。やめろ」
 ホークは焼けつくような痛みの中で、ガズネを呼んだ。
「もういいんだ。もう、殺さなくていい」
「ちが う ちがう ちがう ! ころさないと ! ころさないと しぬ 。 しぬのは いや !」
「偉かったな。ずっと、ずっと、ずっと苦しかったんだな。寂しかったんだな」
「さび しい ? そんなの そんなの しらない !」
 否定するように自分の手を見下ろすガズネだが、すでに手は返り血でべとべとに濡れている。
 寂しい?寂しいから人を殺す?―――――何もわからない!
「このせかいは じごく」
 救いも無ければ慈悲も無い、許しも無ければ改善も無い。 
 ガズネにとっての世界は、あまりにも赤すぎたのだ。フランシスの薔薇のように、赤く、紅く、朱く、あかいままの―――――。
「きずつけない と いきていけ ないんだもん ! いたいおもい したく ないんだもん ! だって だって だって ガズ しにたくないもん !」
「なら、お前を傷つけるやつがいたら、俺がぶっ飛ばしてやる。それで、いいだろ?―――――俺はお前を嫌わない」
 その言葉にガズネは何を思ったのか、何を感じたのか、血で滑ったナイフを取り落とす。
 彼女の瞳は訴えていた。
 

「た す け て」

 

 ただ、それだけを。

「たす け て …… たすけて ……たすけてぇ …… !」
 この子は死がひたすら恐ろしくてたまらなかったのだと、ホークは痛感する。
 否、痛みを忘れるほどの真実が重く圧し掛かっていた。
 ガズネはフランシスに褒められたい以上に―――――自身の死を回避するために、人を殺め続けていたのだ。
 なら、もう殺さなくていい。
 何よりも今、それを伝えたかった。
「ああ、何度だって助けてやる。いつだって駆けつけてやる。だからもう殺さなくていい。他に幾らだって生き方はあるんだよ―――――俺が教えてやる」
 縋り付いてくるガズネに、ホークは哀しげな声で謝る。
「わりぃ……今、抱きしめてやれなくて、ごめんな……」
 脇に落ちたナイフは音も無く宙に浮かび、持ち主の元へと戻る―――――即ち、赤薔薇の王の手の内へと収まる。
 血に塗れた刃物を拭うことも無く、フランシスは素手でそれを掴んでは、実につまらなそうに眺める。道端に落ちたキャンディの包み紙でも見下ろすような、どうでもよさが瞳をわずかに輝かせていた。
「自己を犠牲にしてまで弱者を守る……それが貴方の答えですか。実にくだらない宗教ですね。勘違いも甚だしい」
 投げやりな態度で吐き捨てるフランシスの様子は、先ほどまでの豪傑ぶりと威厳を兼ね備えた暴君には程遠い、駄々をこねる子供を思わせるほど変貌していた。
 気にくわない場面でも目撃しまった直後のように。
「何でお前は、そんな顔してんだ?」
 ホークが静かに問うと、フランシスはナイフから滴ったホークの血で汚れた手で、顔を抑えた。
「はは……何でしょうね。何故なんでしょうね本当に、本当にッ!」 
 けらけら笑いながら、フランシスは語調を強める。
 明らかに―――――怒っていた。 
「すんげえムカつくんですよそういうの。ムカついてムカついて再起不能まで叩き潰したくなる。耳障りな綺麗事、馬鹿げた理想主義、妄言塗れの盲信だらけ。盲目的すぎてはたから見ていても気が狂いそうです」
「……助けられるやつは、助けるべきだろ。何より、俺がそうしたいだけなんだよ―――――こいつにはお前の世界は似合わないってだけの話だ」
 例え罪も無い人を殺したからと言って、殺人犯が心から純粋に笑ってはいけない理由にはならないのと同じような理屈だと、ホークは言う。フランシスに、言う。
 随分と捻じ曲がった考え方だと、不死身の少年は苦笑する。
 同時に、どこか羨ましそうにホークを見つめている。
 すでに失ったモノを幻視しているかのような、もしくは自分の手には届かないモノを見送っているかのような、切なげな視線だった。
 この時だけ、ホークにはフランシスが哀れな子供の姿を重ねているように見えた。
 全てに飽きてしまった、魂の抜け殻のような姿を。 
「ああ……若い頃の私も、貴方くらいの馬鹿真面目な精神論を信じていたら、こんな世界にはならなかったのかもしれませんね。今更何もかも手遅れですが―――――今の私は腹が立っているんです。理想通りのシナリオが台無しですよ。飼い犬に手を噛まれるってこういうことを言うんですね」
 すっとフランシスが血で汚れた手でガズネの髪に触れる。
 ガズネは、退屈で悲しくてどうしようもなくてたまらないようなフランシスに、振り返る。
 ホークの位置からでは、振り返ったガズネがどんな表情をしていたのかわからない。
「ガズネっ!」
 それでも、彼女は彼女なりに決断をしていたのかもしれない。
 揺れる心の中で懸命に腹を括り、可能性の選択肢の指し示す方向へと踏み出したのかもしれない。
 裏切り者に待つのは、決して甘い解放ではない。
 するりと、ガズネの小さな両頬を両手で挟み込み、フランシスは囁く。
「可愛い私のペット。よくも裏切りましたね」
 その先に―――――どんな結末が待っていようとも。
 

「私はもう、お前を愛さない」

 

 呪いと、破滅と、契約解除コード―――――繋がりを全て破棄する。


 瞬間、ホークの戴冠する時間の概念が急激の減速していく。
 目に映る全ての運動物がゆっくりとしか活動しなくなる。
 一言で言い表すならば、精神の極限状態から訪れるスローモーションだが、ホークからすれば死の宣告に等しかった。
 ただしそれはホーク自身の死ではなく―――――目の前の少女に処罰として襲来する。

 ガズネの左目から、鮮血色の破片が飛び散る。
 呪印として刷り込まれていた契約の魔法陣が破損したのだと気づくころには、大気をつんざく四つ爆音が響き渡る。
 長い期間、長い年月、ガズネを縛り続けていた枷がようやく爆ぜたのだ―――――ガズネの四肢を引き剥がし、共に連れていく形で。
 ホークの目の前で、両手両足を失ったガズネが、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと、こちらを向く。
    
「―――――ッ!!」
 
 ホークは、自分でもまるでわからない言葉をがむしゃらに吐き出していた。咆哮し、絶叫し、喉から血が洩れ出ても尚、叫び続けた。
 はら、はらと。
 溢れ出た血液は薔薇の花弁のようで、宙を舞うガズネは糸の切れた操り人形のようで、踊ることさえ適わなくなる。
 それでもガズネは、ぎこちなく笑う。笑ってくれたような気がした。

 たかのおにいさん
 ごめんね

 そこから先のホークは、平常心には似ても似つかわない明確な意思を持って―――――激情に駆られたのだろう。
 激昂し、怪力を駆使し、無我夢中に、五里霧中の状況を乱暴に打破し、それでも尚真剣に、本気で、変わらぬ正義のまま、もはや正義でも何でもない意志のまま、呪いを振り払うように、しがらみを払拭するように、体を廃棄する勢いで、魂を突き動かす気力のままに、尽きない精神を帯びて、筋肉をフルに活用し、神経を研ぎ澄ませ、これまでのことを振り返りながら、振り向くことなく、ただ、ただ、目の前のことだけを見つめ―――――見つめたまま、フランシスに拳を放った。

 茨がリボンのように解けたのはホークが全力で断ち切ったのか、それともフランシスが自ら彼の拘束を解いたのかは―――――おそらく一生わからないだろう。


「らあああああああああああああああああああああああッ!!」


 それでも拳は、正面から解き放った渾身の一撃は
 幻でも虚でもなく、現の実に―――――フランシスの額へと叩き込まれたのだ。
 
 不可視の衝撃波が空に波紋し、核の対象外の領域にまで振動を載せ、振り切ればたちまちフランシスの足が地から離れ、矮躯は吹っ飛ばされていく。
 深く被っていたシルクハットが脱げ、肩口までの髪の毛先が大きく揺れる。
「はは、は」
 吹っ飛ばされ、地面に背中をしたたか打ち、叩きつけられても、それでもフランシスは乾いた笑みを浮かべていた。
「ははははははははははは!はははははははははははは!はははははははははははははははははは!」
 冷淡な笑い声も耳に入らないのか、ホークは仰向けに倒れているガズネを抱え上げる。
「ガズ、ネ」
 ただでさえ軽い体から、主要なパーツが一気に無くなったせいでますます彼女は軽くなってしまった。
 羽根のように、魂のように―――――軽い。
 それでも大量の血が止めどなく流れるのは、彼女が生きている証拠なのだろう。
 潰れた左目は固く閉ざされ、無事な右目もまた、瞑られている。
「やめろよ、ガズネ。ここで……ここで死ぬのは無しにしてくれよ……!しっかりしろ、ガズネ!」
 しかし、ガズネからの返答は無い。
 それでも呼吸はしており、心臓が鼓動している。まだ、生きている。
「ははははははははははははは―――――あー……飽きちゃいました」
 必死でガズネの血を止めようと四苦八苦しているホークに、フランシスは遠く離れた位置から〝飽きた〟とだけ告げた。
 フランシスの飽きは、必然的でいて強制的な試合終了を意味する。勝負は終わり、終焉の幕が下りる。
「もういいです。もうたくさん!このまま貴方をボコボコのタコ殴りにするのもかったるいです」
「テメェ……自分が何をしたかわかってんのか……!」
「〝それ〟は解放してあげましたよ。今後一切私の影響も干渉も受けない、本当の意味での孤独に戻してあげました。ここから先はホークさんが主導権を握ろうが、〝それ〟を野垂れ死にさせようが自由です。好きにしてください。私はもう関係無い。無関係無縁です―――――言っておきますが今のパンチは景気付けに食らってあげたんです。実質、私の圧勝ですよ」
 いつしか世界は再度転じ、元通りのビルの屋上へと戻っていた。
 空はすでに白みがかっており、時期に朝がやってくるのは明白だった。
 薄れゆく星々は昇りつつある太陽の光にかき消され、また眠りにつこうとしていた。
 世界に新たな一日が訪れる。
 夜の闇と朝の光、そして生命の血。
 ホークはフランシスを見つめ、フランシスはホークを見つめる。
 決定的な格差と断裂と断絶はあるものの、立っている舞台は同一である。
「……お前は、本当にこいつのこと何とも思ってなかったのか?」
 ホークの問いに、フランシスは落ちていたシルクハットを被り直し、調子も整えてから答える。
 右手にはブックベルトが元通りに巻かれた魔道書が、左手には―――――ガズネの腕輪の黒破片が握られていた。
「何とも?そうですね……何とも思ってませんでしたよ。醜い哀れな化け物を本気で愛するほど、私は純真なガキをしてませんから」
 その言葉が本当なのか嘘なのかは判別できないが、ホークは単刀直入に吐き捨てた。

「―――――お前ほど腐った奴には出会ったことが無い」
「そうですか。それは結構」

 それでもフランシスは道化のように嗤い続けるのだ。
 世界を嘲笑うように、自虐的に、永遠という名の仮面を被る。

 

「さぁ〝終点〟に着きましたね。ここで御開きにしましょう。さようなら。どうかお元気で。この世界が絶望に死滅する日を、楽しみにしていますよ―――――貴方達が絶望に捻じ伏せられる日を、首を長くして待っています

 

 そして、フランシスは一輪の薔薇を高らかに掲げて―――――驚くほどあっという間に、嘘のように、世界から透き通って、消えていった。
 甘い花の香りは、毒のように染み込んだまま。
 取り残されたホークは茫然とする中で、ぴくりと微動したガズネにはっとさせられる。
「…… おにい さん」
「ガズネ……!」
「たかの おにい さん」
 意識が戻ったのか、ガズネは薄らと目を開けていた。
 ずっとホークがガズネの止血を行っていることが気になるのか、彼女は何てこと無さそうに言う。
「ガズ へいき 。 いたい の なれてる 」
 ほらと、ガズネが力を振り絞って右腕を上げると、痛々しい傷の断面部分はすでに塞がりかかっていた。
 右腕だけではなく左腕も両足も、驚くほどの速さで再生しようとしていた。
 それでも左目だけは一向に回復しないのは、呪いの影響だろうか。
「馬鹿野郎!」
 大丈夫だと言うガズネに怒鳴ってしまったのは、思うところがあったからだ。
 ずっと胸の内に引っかかっていたわだかまりは、とうとう口から言葉として発されてしまった。
「痛くないわけないだろ。痛いに決まってんだろ!俺だって腕が捥げた時はのたうちまわった。お前みたいなガキに、我慢できるわけないだろ……!痛いなら痛いって言えよ……!悲しいなら悲しいって、寂しいなら寂しいって幾らでも言えばいいだろ……!」
「…… たかのおにいさん 」
 ガズネは、自分の頬に冷たくも温かいモノが滴ったことに気づいて、ひどく眠たげな目でじっとホークを見据える。
「たかのおにいさん なんで ないてるの 」
「さあ、な。何でなんだろうな……普段はぜってーこんな萎れた姿は見せないんだよ。俺は女々しいのは嫌いなんだ」
 でも、と続ける。
「今日くらいは、お前の為に泣いてやるよ」
「…… どうして ?」
「お前のことが、大事だからだよ」
「だい じ ?」
 ガズネには、よくわからなかった。
 よくわからないけれど、わけも無く、理由も無く、意味も無く、ホークの温もりが恋しくて心が張り裂けそうになった。  
 彼女の真っ赤な世界の空を飛ぶのは、鳥。
 そう―――――いつだって、牢屋の檻の中から鳥を見上げていた。
 でも、今ここに鳥の名を持つ存在がいる。
 自分を大切だと―――――抱きしめてくれている。
「たかのおにいさん 」
 ガズネは、いつだって目を瞑っていた。嫌なことから逃げ続け、何もかもを忘れようと躍起になっていた。
「どう しよう みず とまらない よ」
 そんな彼女が、泣いていた。真珠のような涙を零していた。
「あは は ねえ どうして かな 。 いたくない はず なのに いたくて いたくて いたくて たまらない …… ガズ おかしく なっちゃった のかな …… 」
 これがこの子にとっての初めての涙であり、初めて自分の感情に正直になったのだとホークは悟り、ガズネを一層強く抱きしめた。傷つけないように、優しく包み込んだ。
「大丈夫だ。すぐ、助けが来るから、もう少しの辛抱だ。ガズネ、大丈夫だ。何も心配しなくていいんだ。お前は死なない、死なせない。俺は認めないからな、お前はここにいていいんだ。誰もお前を許さなくても、俺がお前の居場所をやる。飯も食わせてやるし風呂にも入れてやる。誰もお前を必要としなくても、俺にはお前が必要なんだ。誰もお前を愛さなくても、俺がお前を愛してやる」
「…… ほんとう ?」
「約束してやるよ。心配しなくていい……お前はもう傷つかなくていいんだ。俺が守ってやるよ。ガキは大人を頼ってもいい。そういうもんだろ、生きるって」
 ホークが微笑むと、ガズネもそれに応えるように微笑んだ。
 やっぱり笑うと可愛いと、彼女の涙を指先で拭ってあげた。
「…… きらわ ないで 」
「嫌わない」
「しにたく ない の」
「死なせない」
「あい して」
「ああ。約束だ」
 指切りはできないけれど、誓いならいくらでも立てられた。
 何度だって、約束する。 

 

「帰ったら風呂入って飯を食って、しばらく休もう―――――俺と一緒にこの世界で生きるってのも、悪くないんじゃないか?」


 それじゃあ、
 真っ赤な世界から、さよならしよう。
 二人一緒に。

 

 

 

 

 

 

 

 

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