一章 1

 

 

―――――平和は静かに終焉を迎えた―――――

 

 

 青紫と赤紫の粒子が中空で入り混じり、幻想的な彩を雪にように大地へと降り注いでいく。
 光の粒子はよく見知っている馴染み深いものではなく、ひどく濃密で鮮烈でさえあった。見ようによっては毒々しい色をした飴玉の欠片のように見えなくもないが、口に含んだ途端に噎せ返ってしまうことだろう。
 神々しくさえあるこの光を大量に浴びてしまえば気が狂ってしまいそうだと、少年は他人事のようにぼんやりと思った。

 

(綺麗)
 
 同時に場違いな感想を抱いてしまうほどに、魅了されつつあった。
 頭痛と眩暈がする。視界もかすみ、思考も上手く回らない。気怠く、体が鉛にでもなってしまったかのようだ。口腔内には錆鉄のような血の味が広がっており、上手く動かない体はそこらじゅう怪我を負っているようだが痛覚が麻痺しているのか、痛みをほとんど感じなかった。 
 ここがどこで、自分の身に何が起きたのかは全くわからなかった。
 わかることは自分の背中は固く冷たい地面に接して仰向けに倒れており、少し離れた場所についさっきまで乗っていたはずの荷馬車が横転しているということだった。後部の檻部分が拉げており、自分は細穴のように広がった部分からいつの間にか飛び出してしまっていたようだ。右足首に取り付けられていた円球の重りは鉄鎖ごと外れてしまったようで、今では手枷しか少年を拘束する物がない。
 すぐ傍に林立している木の太い幹を支えに立ち上がろうとしてみるも、枷と痺れのせいで足を動かすことも困難だった。幸い折れているわけではないが、筋肉が硬直してしまったかのようにいうことを利かない。
 誰かに助けを求めようにも見える限りの範囲には誰もいない。
 荷馬車を動かしていた馬や商人、自分以外の〝商品〟はどこに行ってしまったのだろうか。影も形も無いせいで、彼らはこの世に最初から存在していなかったかのようにさえ錯覚してしまう。   
聞こえるのは冷たい風の吹く音と、それによって揺れる木々の音。自分の心臓の鼓動とやけに乾いた呼吸音だけだった。つい先ほどまでの馬車の走る忙しい音や、積み荷の揺れる大きな音はぴたりと止み、不安になるほどの静寂が周辺を包み込んでいる。
 寒い。
 全身という全身が凍りついてしまったかのようだ。季節は暖かな春の月だというのに、体感するのは真冬のような極寒だった。


(馬車で森を抜けるはずだった)

 

 自分の身に何が起きたのかを思い出そうと、意識を失う前までの記憶を捻り出していく。
 蘇ってきた記憶は奴隷商の店から〝商品〟として南の街に運ばれている最中ということと、街へ向かうべくこの森を抜けようとしていたということ。
 その最中に空から半透明の硝子の破片のものが降ってきたかと思えば、信じがたいことに空に穴が開いたということだった。
 穴からは見たことも無い光が雪のように舞い落ち、それが馬車に触れたかと思えば馬の激しく嘶いて暴れ出し、そのまま馬車が―――――。 
 刹那、けたたましい咆哮が響き渡り、空気を激しく震わせた。
 近距離から聞こえてきたこれ以上になく耳障りで、音波で鼓膜が破れそうになる。
 濁った声音は獣を想起させ、人間のものとは到底思えなかった。
 事実、人間ではなかったのだから

 ぬっと、少年の視界に一匹の巨大な影が入ってくる。

 獣と表することを躊躇うほど禍々しい容貌をした生物は見たことも聞いたこともないほど異形で、少年は目を見開いて驚愕してしまう。
 

 これは、化け物だ。
 

 そう表する他なかった。
 熊のような体毛を持つ無骨な肉体は血に塗れており、狼を思わせる鋭い牙と爪からはぼたぼたと血と涎が混ざった粘液を零している。生温かいそれは少年の顔や腕に滴り落ち、どろりと流れ落ちていく。
 ごりごりと骨が折れるような音がすると思えば、化け物の口から人間の腕がだらりとはみ出ている。食事をしているのだと、嫌でも理解してしまう。
 不快な音を立てて噛み砕かれ、飲み込まれていく細い腕は浅黒く、手首には黒光りする手枷がはめられていた。
 少年の手首についている枷と同種の物だ。
 必然的にあの腕の持ち主は自分と一緒に檻に入っていた〝商品〟の内の誰かであるということがわかった。
 小魚をつまむように咀嚼され、化け物がごくりと喉を鳴らせばあっという間に腕はこの世から〝腕〟としての形を失う。
 不意にじゃらりと、鉄と鉄がこすれ合うような音がどこからともなく生じる。
 じゃら、じゃら。
 少年が音の出処を無意識のうちに追えば化け物の胸元へと辿り着き、そこに首飾りのようにかけられた鍵束が目に付いた。

 

(鍵)

 

 何度も目にしたことのある数十の銀色の鍵達は、間違いなく自分達〝商品〟を拘束する枷の鍵だ。
 しかし、何故そのような代物をこの化け物が首にかけているのだろうか。少年は目を見開いたまま疑問を抱く。
 この鍵束を常に見せつけるように身につけ、嘆き悲しむ〝商品〟を嘲笑っているのは奴隷商人―――――つまりはこの馬車で馬主を務めていた男がつけていなければおかしい物だ。
 だが、化け物は随分昔から身に着けている物のように、鍵束に馴染んでいるように見えた。
 何より、理性の欠片も無さそうな凶暴極まりない様子を見るからに、奴隷商人から好んで鍵束を盗むようにも思えなかった。
 では、どうしてここに鍵束が?

 

(まさか)

 

 少年の脳裏を〝ありえないはずの推測〟が過る。
 信憑性も薄く、何よりもそんな非現実的なことが起きるはずがない。そんな馬鹿な話があるはずないと、自分で自分に言いたくなってしまうが、突飛な予想はやけに現実味があった。
 あの狡猾極まりない奴隷商が、血も涙もない化け物のようにさえ思えていた奴隷商が―――――本当に化け物になってしまった!
 濁色のぎょろりとした眼が少年を見下ろす。
 血の滴る爪が胸倉に伸ばされたかと思えば、軽々と持ち上げられてしまう。
 棒でも握るように首を掴まれ、宙吊りにされた少年は顔を歪める。気管が絞まり、呼吸が困難になる。丸太のように太い腕は強靭で、抵抗することもままならない。
 それでも不思議と恐怖心が沸き上がってこないのは、訪れるであろう死の運命を肯定し、覚悟してしまったからだろうか。もともと抗う気力も体力も無いが、それでも〝逃げ出したい〟〝死にたくない〟という逃避願望が一切出てこない。
 怖気に鳥肌が立つことも無く、自分でも驚くほど冷静に現実を受け入れている。
 生きることを諦めた途端に、何も恐ろしくなくなった。
 酸欠になりつつあるせいか、意識にますます白霧がかかってくる。
 着実に近づいてくる化け物の口から吐かれた生温く血生臭い吐息が、少年の顔に吹きかかる。
 殺される。
 あと数秒もすれば自分は獣牙にぐちゃぐちゃに噛み切られるか、首を圧し折られるか、獣爪でずたずたに斬り刻まれるか、それぞれ方法は異なるが、最終的に行きつく先が死であるということは同一だ。


(死ぬって、こんな感じなのか)

 

 思ったよりも、呆気ない。
 どう足掻いても逃げられない。ならば、死を待つのみ。
 薄れゆく意識の中、少年の目裏に最後に浮かんだ光景は、自分を捨てた両親の悲しげな表情と、唯一の妹の微笑みだった。 

 

「やああぁ!」

 

 聞き覚えのない女の子の声が耳に入ったかと思えば、ふわりと少年の体が軽くなる。
 否、少年の体重自体が軽量化したわけではなく、単純に化け物の手から解放され、重力に従って落下しただけである。
 何がどうして解放されたのか、わけのわからないまま少年は尻餅をつく。
 じわりと染み込むような鈍痛は、それまで曇っていた少年の危うい意識を覚まさせる。
 はっと目を開ければ、想像を逸した光景が眼前にて広がる。

 

 一閃。

 

 一筋の斬撃が、化け物の右足へと放たれる。

 

『グギャアアアアアアアアアアアア』

 

 聞くに堪えない化け物の絶叫。
 切断された右足は中空にて弧を描き、かなり離れた地点に落下する。
 右足だけではなく、つい数瞬前まで少年の命を鷲掴みしていた左腕も肘から先がすでに消失しており、綺麗な断絶面からは夥しい量の血を溢れ出ている。
 茫然とする少年の前で、化け物は何者から攻撃を加えられていた。
 解体されるように寸刻みに、対抗することも適わず、たちまち四肢を捥がれてしまう。
 倒れ伏し、地の底から蘇った亡者を連想させる断末魔を上げる頃には、化け物の喉は深々と斬り裂かれ、絶命した。
 気づけば、化け物の亡骸の傍には一人の少女が立っていた。
 極めて珍しい漆黒色の艶やかな長い髪に、雪のように真っ白な肌。細い矮躯は高級そうな濃い紫色のドレスを纏っており、いかにも〝高貴な家柄の娘〟を思わせる身なりをしている。
 何故こんなところに女の子がいるのだと驚いたところで、少女の手に付着した化け物の返り血であろう赤染みを見てぎょっとしてしまう。
 速すぎて攻撃している姿さえ視認できなかったというのに、まさかこの子が、自分と同い年くらいの女の子が、化け物を撃破したというのか?
 少女はかっと目を剥いている死体の目を、そっと閉ざす。精気を永遠に宿さなくなった瞳は、蓋をされるように見えなくなる。
 ゆっくりと力を振り絞って立ち上がりながら、少年は聞いた。
 「ごめんなさい」と、少女が切なげに謝罪するのを。
 化け物を殺めたことに対して謝っているのだということはすぐにわかった。
 少女は悲しげに俯いたまま、ぺろりと自身の手を舐めた。
 血を舐め取っているのだ。
 化け物の血を舐めるなんて体に悪いどころじゃないと内心でひやりとしながらも、少年は少女の鮮烈な仕草に目が離せなくなる。
 見惚れてしまったと言っても過言ではなかった。
 そして少女は、少年のほうに振り返る。
 頬についた返り血が少女の幼いながらの美貌を一層引き立て、血も凍りそうな美しさを帯びさせている。
 淀んだ蜂蜜色の瞳と、透き通るような赤水晶の瞳と視線が交錯する。

 

「怪我は、無い?」

 

 鈴の転がるような可愛らしい声はどこか掠れていた。
 少年は動揺を何とか抑えて、大丈夫だと頷いた。

 

「君は、いったい」

 

 何者なんだと言おうとしたところで、空から注いでくる毒色の光の量がだんだんと減ってきていることに気づいた。量だけではなく色も薄まって、徐々に淡くなってきている。
 すると少女はひどく怯えた様子で震え、少年の下に助走もつけずに一気に跳躍した。

 

「うわっ」

 

 少年は回避することもできず、少女に押し倒されるような形で再び地面に倒れてしまう。背後の木の根に頭をぶつけなかったのはもはや奇跡だった。
 必然的に少年と少女の体は密着し、少女のひんやりと冷たい体温にどきりとさせられてしまう。長髪がカーテンのように少年の顔の両側にかかり、視界の全てが少女の顔でいっぱいになる。
 少女は何かに恐怖しているのか小刻みに震えており、とてもじゃないが先ほどまで化け物と果敢に戦っていたとは思えない。

 

「光……」

 

 ぼそりと少女は声を震わせる。

 

「ここは、どこ?」

 

 ここはどこと問われても、名前も知らない森だとしか少年は答えられない。

 

「違うの……この世界。この世界は、どっち?」
「どっち?」
「〝朝〟と〝夜〟の、どちら……?」

 

 こんな質問をしてくる者がいるとは想像さえしていなかったが、少年は混乱しつつも少女に言う。

 

「この世界は〝ソルディア〟。〝〟の世界、だよ」

 

 それを聞いた途端、少女は真っ白な顔を青ざめさせて、今にも泣きだしてしまいそうな表情を浮かび上がらせた。

 

「そんな……わたし……―――――落ちてきてしまったの……?」

 

 その言葉の意味が、今の少年には全く理解できなかった。 

 

 

 

 

 

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