―――――御覧なさい。これは愚かな不死者が絶望から暴走、暴走から狂気に至るまでの物語。
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GAIA 五章
冥府の氷と楽園の兆し 序幕
星無き世界は拒絶する
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夜の雪世界は、死の世界にように恐ろしく美しい。
常時氷点下な星の地表は永久凍土となり、まるで冷凍睡眠(コールドスリープ)したかのように表面的な運動を停止させていた。
年中晴れることの無い分厚い灰色の雲。厳しい豪風に乗って吹き荒れる雪の雨。
見渡しても雪。もしくは雪によって覆われたモノばかりが忘れられたように点在している。
大地は積雪によって地平線の彼方まで白く塗り潰され、突出している〝過去〟の残骸は折れかけの鉄骨のようで、今にも風に削り取られそうな山は植物一つ生やしておらず、モノクロームの世界の物悲しい背景と化している。
白と灰と黒だけで事足りる世界だが、微かな赤色も存在している。
過酷な環境の中でも縄張り争いは勃発し、野性の戦い―――――即ち狩りは行われる。行わなければそれこそ全生命が死に絶えてしまったことになる。
極寒の世界は弱肉強食。強き者が生き、弱き者が死ぬ。 穢れた血を流し、醜く命を散らす。
禍々しい〝魔物〟の咆哮が、今夜もどこかで静寂な雪空の下にこだまする。
「今日も星は、見えない」
そんな世界で、一人の青年は白雪を降らせる灰の天空を僅かに落胆しながら見上げていた。
寒さを凌ぐための防寒具は全身にしっかりと身につけられており、日焼けしていない肌が窺えるのは顔の部分だけだった。
群青色の瞳と蒼結晶を想起させる髪色は、今にも氷雪に溶け込んでしまいそうな神秘的な雰囲気を湛えている。
手に握られている長い杖の先端部分には紅玉を思わせる石がはめ込めれており、ランタン代わりに瞬いては暗闇から青年の身を守っている。
「―――――これで5991日。最後に星が見えてからもう二十年は経過する」
光芒の射しこむ隙間一つ無い曇天から諦めたように眼を逸らし、再び歩き出す。ここまでつけてきた足跡ははらはらと振り落ちる雪によって消えかけており、新たに地に残す跡もまた、すぐに失せていく。まるで僅かな記憶さえも残してはならないと、星そのものが脅迫しているかのように。
星の見えない極寒の夜。今晩は比較的雪の勢いが弱いため辛うじて外に出てくることができたがこんなことは稀であり、通常ならば夜闇を塗りつぶすほどの豪雪が荒れ狂っている。
稀な天候に半ば祈る気持ちで星を観ようとわざわざ最も星が美しく観測できるこの地域まで危険を承知で出てきた青年だったが、期待はあっさりと裏切られてしまっていた。
同時に青年は失笑しそうになっていた。
信仰無き虚像に過ぎない神に祈ったところで、願いは叶うはずがない。
こんな世界で。果てなき凍土しか存在しない、冷たい世界に無償の施しなどない。まして、神にさえ見捨てられた世界になど。
青年は肌を刺す寒風を目を閉じてやり過ごしながら、物思いに耽る。
この世界は、かつて一度〝滅亡〟した。
滅亡の原因は長期に渡る争いだとか、神の気まぐれだとか、結局のところ判明していない。それでも何千年も昔に、〝我々〟よりも卓越した技術と知恵を持つ半面、脆弱で狡猾な種族が数多の動植物の上位に君臨し、地上を好き勝手に支配していた。細かい脚色はあるかもしれないが少なくとも形だけの歴史では、そのように伝えられている。
つまり、今の世界をこんな姿に変貌させてしまったのはその種族のせいなのだ。
現時点での地上は延々と降り積もる雪と、時折世界を氷つかせんとばかりに吹き荒れる吹雪に翻弄され、あちこちに狂気に飢えた〝魔物〟が溢れかえっている。
「だからこそ〝我々〟は結束し、〝獣〟の血を絶やさないためにも〝塔〟の中で狩りと記録の保存をして生きていくのだ」
彼らはそう言っていた。
かつて〝人間〟と呼ばれる種族の一部は形質を変え、獣に近しくなった。〝我々〟は〝人間〟の血を消すために子孫を残しているのだと。
彼らは人間を嫌っている。
彼らだけではない。この地上に在るあらゆる存在が〝人間〟を拒絶している。
今も尚、どこかで安穏と〝眠り〟続けている〝人間〟を、滅ぼしたくてたまらないと猛るように。
彼らは望んで、〝異形〟となる道を選んだ。
〝人間〟が犯してしまった過ちを決して犯さぬために。新たな世界で生きていくために。
「……僕は、何なんだろう」
青年は目蓋を上げ、死に絶えたように真っ白な大地を無感動に見渡す―――――胸の内に悲しみにも似た感情を沸き上がらせながら。
その時だった。
突如、轟音を想起させる雄叫びが大気および空間を揺るがした。
並の〝魔物〟の咆哮とは桁違いの迫力と声量に青年は驚愕しながらも、何とか冷静を保ちながら声が聞こえたほうに杖の光を向ける。
先にあるのは晴れない雲に閉ざされた空―――――そこを巨大な〝影〟が横切る。
巨体に翼。氷を張り付けたような鱗肌。〝それ〟は狂ったような雄叫びを上げながら、大空を飛行している。
ほんの一瞬だけ垣間見えた瞳は―――――煉獄の深紅。
「氷竜……!?」
思いあたる名を口に出した時には、すでに〝それ〟の姿は視界から消えていた。これ以上の追跡は視界が良好とは絶対に言えないこの状況では不可能だろう。
「どうしてこんな場所に」
氷竜。
氷の炎を身に纏い、この世界の〝氷〟を支配する最強の竜。
青年は愕然としながら、雪を散らすばかりの空を凝視し続けていた。
◆
〝人間〟無き大地は実に原始的で、幻想的で、現実的な、生態系を築く際の生存競争の歴史の最下層にまで転落した。
いつしか誰かは終末から再生した世界のことをこう呼ぶ。
〝新世界〟
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