名も無き勇者の冒険 第一幕 飛べない勇者と死ねない愚者

 

 

Ⅰ 不完全な少年。その名はソウリュウ

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

―――――アナタの呼吸でワタシは目を覚ます……

―――――さぁ、始めよう。ちょっとした物語を……


 ◆

 
十や百ではきかないほどの遥か大昔のこと。この世界は人間によって支配されていた。
 人間は技術や学問を発展させ、様々なモノを生み出しては文明を進歩させていた。人間は自身らの繁栄の為に森を切り開いては木々を材料にし、海を埋め立てては土地を作った。多くの自然を傷つけ、数多の生物に苦行を背負わせた。たくさんの戦争を行っては、数えきれないほどの命を燃やした。
 人類が最盛期を迎えたある時のこと、世界中にとてつもない寒波が襲った。それは世界の全てが雪に埋もれ、凍り付いてしまうほどの寒さであり、長く冷たい氷河期の訪れを意味していた。
 これによって人類の文明は壊滅し、人間は絶滅の危機にまで追い込まれた。
 それでも人々は争いを止めなかった。失われていく食料や土地を巡り、現状はさらに悪化した。いつしか世界中を巻き込んだ大戦は皮肉なことに『終末戦争』と呼ばれることになった。
 人々が争いの手を止め、自分たちが仕出かしてしまった過ちに気がついたのは、世界のほとんどが焦土と氷雪と化した時であった。
 数多の技術、文明、自然を失ってしまった世界はもうすぐに凍り付き、一部の生命以外は滅んでしまう道しかなくなってしまった。
 残された人々は考えた。そして決断した。
 人間種の消滅を防ぐべく、特殊な装置の中で眠ることによってその存在を永久的に維持しようと。
 だが、特殊装置の数は少なく、地位が高い者しか入ることを許されなかった。
 それによって最後の最後で人間同士の生死をかけた暴動が発生した。それは『終末戦争』よりも心を抉る、悍ましい争いだった。
 最終的には特殊装置のある地下施設を完全に封鎖することによって、装置内に入ることを許可された人間たちは生きながらえた。その代償に施設にさえ入れなかった人間は餓死、凍死―――――何にしても悲惨な末路を送ることになってしまった。
 眠りについた人々はひたすら待った。氷河期の終わりを。目覚めた世界でもう一度人間の新しい歴史を作りだそうと。
 しかし眠りから覚醒した人々は氷の溶けた世界を見て愕然せざるをえなかった。
 人間たちによって支配されていた動物達は厳しい寒さの中で生き延びる為、強靭な肉体を持つ新たな体へと進化を遂げていたのだ。
 それが今の魔物である。
 中には施設内に入れなかった人間が突然変異を起こし、亜人として魔物に近しい存在と進化することもあった。
 どちらにしても全ては人間を憎んだ。人間を恨み、人間を呪い、人間に復讐の念を抱いた。本能的に、子孫にまで受け継ぐという形で……。
 こうして世界は人間が支配する地ではなくなり、凶悪な魔物や過酷な環境によって支配されることになった。
 それでも人々は魔物を恐れながらも懸命に生き、新世界で生活する為の術を習得し、種を残し―――――今の時代に至る。
 旧時代の人間は現代に生きる人々の遠い遠い先祖でもある。
 自分達の種が過去に犯した罪の責任を、今も尚、科せられている。
 


 これは、勇者のお話

 
 題名の不必要な、勇者の物語




 ◆ 

 山道を走る幌馬車があった。幌馬車には移動用の防魔装置(シス・マテリア)が取り付けられており、山に出没する魔物からその身を守っている。
 二匹の馬が車を引き、馭者は鞭を持っては真剣そうな表情で前方を見つめている。
 防魔装置があろうとも魔物はどこから出てくるかわからない。それに険しい山道ゆえに少し道を逸れたら最悪転落してしまう危険性もあった。街の外で働く者にとって防魔装置と注意深い心は必須のモノであり、命に係わることでもあった。
 幌馬車の中には六人ほど人間が座っており、少々窮屈そうだった。
 その内三人は街の外で仕事をしているであろう若い男達。二人はか弱げな女性とその娘。最後の一人は奇妙な少年だった。どこかしらに緊張感を持っている乗客とは違い、彼だけは場違いなくらいのんびり昼寝をしていた。見ている者まで眠くなってしまいそうなほどの寝入りぶりであった。その恐れ知らず那雰囲気からしてちょっと馬鹿っぽそうである。
 十代半ばか後半くらいの少年の容姿はひどく奇抜であり、頭部の髪は鮮やかな橙と茶が混じったような明るい色をしており、前髪は火炎を連想させる赤、うなじ近くで二つに結ばれた長髪は雪のように真っ白であった。少なくとも、ごく普通の人間種では決してありえない配色の髪色をしていた。  
 服装もまた変わったものであり、はるか東の大陸の民族が着用するような装束を身に着けている。
 どちらにしてもこの地方では格好から非常に浮いた存在であるのは間違いないだろう。
「ね~ぇ。ねぇ。おにぃちゃん。おにぃちゃんどこからきたの?」
 隣に座っていた5歳時程度の幼女が、熟睡していた少年を揺すった。
「んあ?」

 目が覚めた少年は涎を垂らしそうな様子で目を開け、すぐ傍で目を丸くしている幼女に気がつく。
「おにぃちゃんったら、すっごい変な服着てるし、変な髪してるもん!」
「こら!マイ!」
 起きたばかりの少年の前髪を掴もうとした幼女を、母親が慌てて止めた。
「ごめんなさいね。せっかく気持ちよさそうに寝ていたところを起こしてしまって」
「ああ、大丈夫だぜ。寝れる時は寝るけど、起きるときは起きるのが一番いいからな」
 ふわぁと欠伸をして大きく伸びをした少年は、にこにこ笑っている幼女の頭を撫でて上げた。
「貴方は旅人さんですか?あまり見かけない服装ですから」
「おう。旅と言うか放浪と言うか……まぁ旅だな!」
「おにぃちゃん旅人なの?変な髪~」
「へへ、よく言われるよ。でも俺はこの髪気に入ってるんだ。カッコいいだろ?」
 得意げに自慢する少年に、幼女はきゃっきゃとはしゃいだ。
「カッコいい~」
 そのまま穏やかな会話が続くと思ったその時だった。

「な、なんだお前らは!?―――――ぐあああぁッ!!」 

 突然馭者の叫び声が響き渡り、がたんと馬車が大きく揺れ動いた。
 乗客はざわめき、その内の先頭の方に座っていた男は絶叫した。
 その全身が―――――赤色の絵の具を振りかけたかのように、真っ赤だったのだ。
 よく見ればその血は男のモノではなく―――――男の前にいた馭者のモノであった。
 馭者の身に一体何があったのか、当の本人に聞きたいのは山々だがそれは不可能だろう。
 何故なら馭者は頭を吹き飛ばされ、すでに絶命していたのだから。
「きゃあああああああああああぁああ!!!」
 幼女の母親は悲鳴を上げながらも状況を把握していない幼女を抱え、その身を隠した。
 馭者の血を浴びた男は絶叫し続け、仲間である男たちは必死になって男を落ち着かせようとするが、彼ら自身も恐怖に震えていた。
 あまりにも唐突のことだったのだ。
「ば、馬車が!馬車が落ちちまう!」
 誰かの叫びの通り馭者を失った今、馬を操る者がいない。
 不安定になった馬車は走行を続け、次の曲がり角で曲がり切れるかどうかも定かではなかった。
「馬を止めねぇと!」
 少年が咄嗟に馬の元へ駆け出した直後―――――耳を貫くような嫌な音がすぐ正面を通過しました。
「な!」
 間一髪のところで〝ソレ〟の一撃を免れた少年でしたが、幌に開いた小さな穴の先を見てはぎょっとしました。
「ちっ。外したか」
 外には幌馬車と並ぶような形で走る馬が三頭おり―――――ガラの悪い男達が三人跨っていました。
 そのうち一人は旧式の回転式拳銃(リボルバー)を構え、少年に向けていた。
「山賊だ!」
 少年は前かがみになりながら叫んだ。
「数は三人!全員馬に乗っている!えっとあと、銃を手にしてる!伏せろ!」
 言い終えると同時に少年の真後ろを銃弾が突き抜けた。
「うわっとっととと……あっぶね!!」
  これは魔物より厄介な相手だ。
 少年は母親の女性と幼女を庇うように立ちながら、舌打ちした。
 馬車のような運搬用の移動手段に設備されている防魔装置は強力であり、魔物や亜人の襲撃は防ぐことができるが―――――同じ人間の奇襲を防御することはできない。

 

 人間は人間同士で殺し合う醜い生き物である。
 人間以外の生物は基本的に同士討ちをしない。

 

 いつの日か―――――少年はそんなことを言われたのを覚えている。

「すばしっこいガキが一人いるな―――――まぁ、問題なさそうだ。乗客は六名。その内二人は女だ」
「了解っと。馬を奪ったらどうする?」
「女以外は殺せ。チビのほうはともかく母親の方は売りさばけそうだ。ひとまずは馬さえ奪えれば何でもいい」
「ほいほーい」
 山賊たちは趣味の悪い笑みを浮かべながら合図を出し合い、悪質極まりない賊としての行動を開始した。
 先ほど少年を狙った男が発砲し、馬と車を繋げる紐を切断した。
 紐を切られた馬は自由となり、混乱したまま蛇行した走りを繰り返した。
「うわぁ!」
 片側の馬を失ったことによって馬車はさらに不安定になり、横転は免れたがかなり傾いた状態で走行することになってしまう。
「ひぃぃぃ!!」
 床部分に叩きつけられた乗客は恐怖に表情を歪ませ、その分山賊の男たちはげらげらと哄笑するのだった。
「おい!こっちだ……こっちに来いよ!」
 山賊の中の一人が自由になった馬の方に手を出し、不気味な動きで翻弄した。
 その手には特別性の手袋がはめられており、少年はそれに見覚えがあった。
「あの男……!猛獣ビースト使いテイマーか!」
 猛獣使いはその名の通り動物を使役する力を持つ者のことである。
 悪道へと道を踏み外した猛獣使いの男のなすがままとなった馬は混乱状態から解かれ、何食わぬ顔で山賊たちと並んで走り始める。その様子は洗脳されているかのようにも見えた。
「このまま残った馬も奪って、俺達を崖から落とすつもりだな!?」
 次の曲がり角はすぐ近くまで迫ってきており、とてもではないが逃げる余裕はない。
 あんな場所から馬車ごと落ちれば死は免れない。
「こりゃあ女の回収間に合いそうにないな―――――構わず突き落しちまえ!」
 そんな声が外から聞こえ、少年は怒りに歯を噛みしめた。
「セコイことしやがる……!」
「うわぁぁああんおかあさぁぁん!おかあさん怖いよぉ!」
 少年は足元で泣き声を上げる幼女を、そっと宥めて上げた。
「大丈夫。俺が……お兄ちゃんが何とかしてやるからさ。これでも俺、強いんだぜ?だからそこでじっとしてろよ―――――結構無茶するからな!」
「むちゃ……?」
 そう言って少年は助走も付けずにいきなり走り始め―――――外に勢いよく跳びだした!
「!?」
「な―――――血迷ったか!?」
 あまりに予想外な行動に、乗客だけではなく山賊までもが驚愕した。
皆しっかり掴まってろよ!振り落ちても助けに行けねぇから!―――――走ってる馬もちゃんと止まってくれよ!!」  
 少年は単純に跳び降りたわけではなく、馬車を括り付ける取っ手部分に掴まったのだ。それでも足は地面に付き、高スピードで走っているぶん砂埃が発生した。普通の人間ならば足が潰れてしまうことだろう―――――普通の人間ならば。

「せ、い、おおおおおおおおおおおおおおおぉぉおお!!!」

 

 信じがたいことに、雄叫びと共に少年は進行方向とは逆の方向に馬車を引っ張り始めたのだ。

「んなぁ!?」
 唖然とする山賊たちに構わず少年は馬車を引き―――――我を忘れて走り続けていた馬がひっくり返って止まるまでの数秒間、その行動を続けた。
 乗客たちは激しい揺れを何とかこらえながら、幌馬車にしがみついていた。
「よしっ!これで落ちる心配はなくなったな!」
 一汗かいた少年はひとまずはほっとしながらも、すぐにきっとした顔つきで山賊たちをにらみつけた。
「人の命を奪ってまで馬を奪おうだなんて……最低だなお前ら」
「な、なななな何だお前は!?人間じゃないのか!?」
 山賊全員から一斉に銃を向けられるが、少年はまるで動じなかった。
「……一応人間だよ。少なくともお前らよりは真っ当な人間してると思うぜ」 
「に……人間が普通走行中の馬車を素手で止められるか!?」
「人間やれば何でもできるよ。修行すれば指だけで山を割れるもんだぜ」
「できるわけねぇだろが!テメェ人間の面を被った亜人か異人だな!?ぶっ殺してやる!」
 ぱぁんと耳をふさぎたくなるような発砲音と共に、音速で弾丸が発射された。
「そのどっちもでもないぜ!……いやもうよくわかんないけど!ぶっ倒してやるぜ!」
 次の瞬間、盗賊達は目を疑うような光景を垣間見ることになる。

「……は?」

「だ、弾丸をかわした!?」
  確かに少年を狙って放たれた弾丸が、外れたのだ。
 先ほどのようなまぐれではなく―――――少年の凄まじい脚力によって、回避された。
「そんな鉛玉!俺には敵じゃない!」
 気づけば少年は盗賊のすぐ傍まで移動してきており、強烈な拳をその腹部に食らわせた。
「うげッ!!」
 内臓を揺さぶる一撃に呻いた男は銃を取り落とし、気を失って地面に倒れた。男を乗せていた馬は無傷である。あえて少年はそうしたのだ。
 驚きと共に更なる対抗心を覚えた山賊の二人は銃を改めて構え、同時に発砲する。
「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる?だったら全部かわせばいいだけだ!」
 少年は一気に跳躍し、衝撃を上乗せしながら足を大きく宙で回転させた。それはさながらプロペラの動きのようで、少年の体を軸に回転した。体をねじり、更に力を加える。
 並の人間には決して捉えられない動きだった。
「ぐっ!」
 全体重をかけた踵落としを頭に受け、もう一人の男も失神する。もちろん馬の方は無傷だ。
「ひっ!」
 残された猛獣使いの男は戦慄し、恐怖に慄いた。
 すでに男は悟っていた。目の前の少年には絶対に勝てないということを。
「ひええええぇええ!」
 情けないことに男は地面で伸びている仲間を見捨て、乗っていた馬を思い切り叩いては一目散で逃げ出した。
 少年は追撃するのはやめ、軽く肩を回した。
「……一件落着、か?」
 ひとまずは少年は山賊が持っていた麻縄を使って、二人を縛っては「よいしょ」と肩に背負った。大の男を同時に抱えるという荒業を披露したところで、乗客たちが茫然と彼を見つめていることには変わりない。
「こいつら一日は起きないように打っといたから、このまま近くの街の警察とかに突き出しておいたほうがいいぜ。あと馬はみんな無事だし、この馬車も車輪は大丈夫そうだから走れそうだぜ」
 少年が喋る間も、乗客たちは魂が抜けたかのような表情で彼を見つめるだけであった。もちろん無言である。
 少年自身はこのような目を向けられることも、反応をされることも慣れている。

―――――そりゃそうだよな。馬車を止めたり三人相手に勝てたりする時点で、ビビるもんだよな。

 彼はもう気づいていた。
 乗客たちが今度は自分に恐れを抱いているということに。
 人間は、人間を越えた力を目視すると、畏怖の念を覚える。

―――――まぁ、知ってるんだけどさ。 

「―――――防魔装置も無事。馬車運転はしたこと無くても、馬の乗り方くらいはわかるやついるだろ?そんじゃあ後は言うことないな」
 にっと明るく笑って、少年はその場で大きく手を振りながら踵を返した。
「お……おにぃちゃん!」
 後ろで幼女が何かを言いたげに声を上げるが、少年はあえてそれを拒んだ。
「な、言ったとおりだろ。俺は強いぜ?」
 最後にそう言って、少年は音も無く崖から飛び降りた。
 崖の下に広がる一面の森。少年ならばこんな高さ、どうってことなかった。
 彼は人間であり、人間ではないのだから。


 ◆


―――――盗賊の襲撃を撃退してからおよそ三時間後。

「どこだぁここは?」
 木々や雑草が鬱蒼と生い茂る樹海の中を、小さな地図を片手に少年は独り歩く。
 道無き道を直進する彼の中途の無い足取りは、草むらを掻き分けて進む小動物を連想させる。
 何故かこんなにも足元の見えない危険な場所で靴を履いておらず、健康的な裸足が尖った草をもろともせずに前へ前へと出され、彼の足幅分の道が築かれていく。もしも彼が単眼キュクロ巨人ップスのような巨体であったならば、緑一色の絨毯ができてしまうだろう。それどころか周囲で際限なく茂る木を一蹴して、ここら辺全域を草原に変えてしまえるかもしれない。
 それほど、彼の足取りは堂々としていた。
 迷いが無く躊躇が無く、どこまでも自分に正直な歩み方。
 だけども隙が無く、研ぎ澄まされた刃物とまではいかないものの、そう簡単には蹴倒されない無意識的な信念がそこには備わっていた。
「ろくに日も当たってねぇのに、なんでこんなに草がぼうぼうなんだよ」
 額の汗を手の甲で拭い、少年はふう、と息を吐く。
 長時間背の高い草を押しのけて移動しているせいか、少しばかり彼の表情に疲労の色が見えた。
しかしそれは肉体的にではなく、精神的に疲弊しているのだろう。
 変わり映えのしない景色の中で延々と進み続けるのはかなりの体力が必要であり、自分が今本当に歩いているのかさえわからなくなってしまいそうな不安感との戦いでもあるのだから。
 聞こえるのは風の音。風に揺れる草木のさざめき。小動物や昆虫類の遠い声。不自然な点は一つもない。同時に、少年と意思疎通が可能な人物は一人としていないということも意味する。
自信を持って歩くのは、精神を保つ為でもあり、自分を少しでも見失わない為でもある―――――はたして、この少年はそんなに慎重に行動しているのだろうか。それは、誰にもわからない。
「迷ったか?うむむ……」
 少年は黄ばみかけの地図と睨めっこをしながら、困ったように唸った。
 この森は予想以上に深く、地図があってもすぐに迷ってしまう。〝迷いの森〟という名称にはこれ以上に無いほど相応しい。一度足を踏み入れれば死んでも出られない。こんな突拍子もない噂も、ここに入ってしまったら嫌でも信じざるを得ない。
そして現在進行形で森に迷わされている少年は、一気に信憑性を持ってしまった噂話を脳裏に過ぎらせ
「こんな場所で野垂れ死なんて絶対嫌だからな」
 顔をしかめて、心の底から嫌そうに呟いた。
「さしずめ迷いの森ってとこか?まさかこんなにでかいとは……」
 まるで意味を成さない地図を畳み、やれやれと懐にしまった。
「地図は読みにくいし道は無いし……せめて立札一つあればいいんだけどな」
 しかし幾ら見渡しても立札や看板などは立っていない。少年は視力には自信があるが、火を連想させる深紅の瞳が捉えるのは終わりの無い緑の草木だけであった。
 空を見上げても樹木の葉や枝が空を阻み、今が朝なのか昼なのか夜なのか、どの時間帯なのか判別がつかなくなっていた。日の光を遮断する森中は常に薄暗く、魔物が出現してもおかしくなさそうだった。
「一旦登って見てみるか」
 思い立ったらすぐ行動。少年は近くの木に手をかけ、目を疑うような俊敏さでそこをよじ登りあっという間に頂上に着いた。人間離れの動きは猿でも仰天してしまうだろう。
 しかし周りの木はそれ以上に高く、視界は良好には程遠かった。
 それが鬱陶しいのか少年は驚くべき運動能力を発揮し、木から木へと飛び移り始め、少しでも高い場所から周辺を確認するために手を、足を伸ばした。
 枝から枝へ跳躍し、着地。風の精霊シルフィが森を駆けまわって遊んでいるかのようだ。少年が駆ければ宙に風が生まれ、深緑の葉が舞った。
 木の一本一本の樹齢はとても高く、幹が非常に頑丈な為少年は木登りのしやすさにこりゃあいい、と垂直状態を保ったまま素早い身のこなしでどんどん上を目指して行った。
 それほど時間もかからず少年はとても高い大樹の天辺に到達し、眼下に広がる光景に思わず「おお」と感嘆の声を上げた。
そこには常緑の大地があった。
地平線の遥か彼方まで緑が根付き、どこまでも永遠に終わり無く続いているかのような錯覚さえ覚えてしまう。地に宿り、星の流れを刻み付ける声無き歴史書。木は命を結び付け、土と共に生きている。少年はこれほど広大な樹海を未だかつて目にしたことがなかった。新鮮を通り越し、一種の感動さえ抱いてしまう。
「すげぇ」
 下からの視界が最悪な訳が手に取るようにはっきりとわかる。こんなにも行儀悪く木々が密集していたらそれは夜のように暗くなってしまう。下からの景色は実に言いづらいが、上からの景色はかなり爽快なものがあった。
 空はまだ青く、夕暮れは当分先であろう。ひとまず少年はそれに安堵し、出来る限り目を凝らして村や街、建物等が無いかを探した。 
「―――――見えん!」

 しかし全ての方向を確認したものの、一向に待ち望むものは視界に映らなかった。
「これぞ迷いの森ってやつか。まさかこんなにでかいとは」
 巨木の枝に腰かけて不意に空を仰ぎ、悩みに悩んでいた少年は―――――やがてその表情を緩め、破顔した。
「ま、旅にはハプニングがつきものだよな」
 あっさりと危機的状況に焦る心を流す少年には、最悪このまま死ぬまで森を彷徨い続けなければならない可能性に恐れをなしていないようだった。もしくは、恐れさえ流してしまったのか。
「……あの馬車に乗ってたら、今頃どっかしらの街に着いたのかな」
 そう思い返し、少年は溜め息をついた。
「本気を出さないで本気を出すって難しいな。本当に―――――師匠の言った通り、過酷だ」
 不意に空を見上げれば、そこには雲一つない快晴があった。真っ青な色は、どこまでも終わりが無いように見えた。
 まるで海みたいだと少年は内心で思うが、自分がここで海を一度も見たことが無いということに気づき、苦笑した。

「―――――どうせ化け物って呼ばれるのなら、人を傷つける化け物じゃなくて人を守れる化け物になりたいさ」

 自分の拳を空に掲げながら、少年は誰にでもなく呟いた。 
 その言葉の中には、確かな深い心情が籠っていた。 
「ふふふ。そこのお方。この森の肥料にでもなる決心はついたの?」 
 その時だった。
 鈴の転がるような可愛らしい澄んだ声が、少年の耳元で囁いた。
「んなっ」 
 休憩がてらと寝転んでいた少年の鼻を、どこからともなく出現した。妖精フェアリがくすぐるように突いた。先ほどの声もこの妖精のものだろう。
 透明感のある黄緑の髪に、少年の手の平ほどの大きさしかない華奢でしなやかな少女の体。背中から生えている蝶のように繊細で美しい翅は、妖精の証とも言える羽そのものであった。
 少年は驚き、反射的に身を起こすと鼻をむずむずさせ―――――
「ぶえっくしゅ!」
 盛大なくしゃみを一発。
「きゃ、嫌だ。ばっちい」
 本当に汚らしそうにその場から一旦離れた妖精は、薄い羽から鱗粉を連想させる光粉を散らす。
「いきなり突いてきたお前が悪いんだろ」
 鼻脇を指先でいじりながら、少年はもっともなことを言う。
 それに対して妖精は悪戯っ子のような笑みを浮かべて
「でも下品には違いないわ。せめて口くらい押えなさいよ」
 理不尽だと反論したい思いを抑え込み、とりあえず少年はげんなりとしながらも、面倒くさそうに謝罪をした。
「悪い」
「まぁ、今日ぐらいは見逃してあげましょう。うふふ」
 性格の悪い妖精だ。あまり長く関わりたくなく、さっさと追い払いたいのが本音だが、一つ気になる発言があった。
「それにしても何だよ肥料になる決心って。俺が今まで散々迷っていたのを知ってたみたいな口ぶりだな」
 少年の問いに妖精は身を震わせて高笑いし、踊るように少年の周辺を飛び回り始めた。 
「そりゃあそうよ。だってあんたを迷わせていたのは私達なんだから」
 即答だった。
「まじかよ!!!」
 衝撃の事実に素直に少年は吃驚した。  
 妖精の類は基本的に悪戯が大好きという困った性質を持っているが、こうも大がかりな悪戯―――――巨大な森で人を迷わせるなどという芸当を見せてくれるとは、予想外であった。
 いったいどんな技を使えば、高度な幻術めいた現象を引き起こすことができるのだろうか。妖精は自然から発生する種族であり、詳しい生態はほとんど謎に包まれている。少なくとも少年の目の前を飛ぶ勝気な妖精は森の自然から生まれ、他者を迷わせることを生業としているのだろう。
「どんなに広い森でも真っ直ぐ歩き続ければいずれは出口についてしまう。そうさせないのが私達!あんたは馬鹿みたいに引っ掛かり続けてくれたから楽しかったわぁ」
「つまり俺は妖精の罠に嵌っちまったってわけか」
 やっちまったと言わんばかりに少年は頭を抱え、溜息をつきながら懐から薄汚い小袋を取り出した。どうやら彼の財布のようである。膨らみはまるでなく、貧相に痩せ細っているが。
「金目のものはろくに無いぞ。俺の財布は軽いんだ……」 
「何で妖精が金を盗まないといけないの。あんた達には価値のあるものかもしれないけど、私達からしたら金貨銀貨なんてただの石ころでしかないわ」
「じゃあ何で一文無しの俺を迷わせてんだよ」
 羽根のように軽い財布を懐に戻す少年に、妖精は両手を大きく広げ、己を主張するように叫んだ。
「だって退屈だったんですもの!最近この森に来るやつがめっきり減って、おかげで私達はやることがない。偶然あんたが来るまで私達はずっとずっと退屈で死にかけてたのよ」
「つまりただ単に俺を迷わせて楽しんでただけなんだな」
 くすくす笑いながら頷く妖精の頭を叩いてやりたい衝動に駆られるが、こんな小さな体は息を吹きかけただけで吹っ飛んでしまいそうな予感がした。それに妖精ではあるものの仮にも女子の姿をした存在に暴力を振るというのは、どうにも躊躇われた。
「まぁ、それで少しは退屈が紛れたならいいさ。だけど俺もいつまでも迷ってたいわけじゃないぜ」
「あら、優しいのね。だけどこっちはあんたが力尽きて倒れ、朽ちて森の栄養分になるまで見とどけたいのよね」
「勘弁してくれ……」
 今までこの森に入った者達が帰還できなかった原因は、皆妖精達の罠に嵌ってしまったからなのであろう。妖精の仕業によって多くの人々がこの森の肥やしと化してしまったのかと思うと、さすがの少年もぞっとした。
「だけど私達がそうしたくても、〝森〟自身はそれを望んでいないみたい」 
「森?この森のことか?」
「他に何があると言うの。この〝森〟が欲しているのはあくまで人間だけだから―――――人間じゃないあんたは、あまり好みじゃないみたいよ」   
 人間じゃない。
 そこを指摘され、少年はやれやれと肩を竦めて苦笑した。
「これでも人間として生きてるんだけどな」
「でも、あんたは人間じゃないわ。種族はよくわからないわ。だけど人間とまるきり違うというわけではない。人間に近いけど、人間ではない。曖昧な感じね。生きづらそうねぇ」
 少年の全身を検分せんばかりにじろじろ見てくる妖精に、少年はすっと指を向けた。
「確かに面倒なとこはあるけど、そこそこ自由に暮らしていけてるよ―――――それに、自分の信念を貫き通すってカッコいいじゃねぇか」
 ふぅん、と興味なさ気な妖精は少年の指先に手を乗せて、すぐに離した。妖精には体温が無いのだろうか、触れられた感触さえ薄かった。
「そんなわけであんたを解放してあげるわ。もともとその為にわざわざ姿を現してあげたのよ。感謝しなさい」
「だったら最初から迷わせないでくれよ」
「暇潰しはそこそこできたからいいのよ。あっちを真っ直ぐ行けば西のほうの街に着くわよ」
 妖精の奇妙な親切に少年は軽く礼を言って、大きく背伸びをした。
「夕暮れ前に着けばいいけどな」
「夜の魔物に食べられないように精々気をつけなさいな」
「忠告ありがとう。でも、見えない相手に迷わされるよりはよっぽどましな相手かもな」 
 そのまま木から飛び降りて道を急ごうとする少年に、妖精は声をかけて呼び止めた。
「今日は機嫌がいいからもう一つだけ忠告してあげる―――――森を抜けた先にある西の街、何かがおかしいわ」
「おかしい?」
 その言葉に少年は怪訝そうに眉を潜めた。
「おかしいって何がだ?」
「詳しいことはよくわからないわ。私達はこの森から出れないから、。風の精霊シルフィの噂でしか聞いたことがないけれど、とにかくいろいろとおかしいみたい。事件の匂いがするわね」
「とにかく何か変なことが起きてるってことか?」
「そんな感じの解釈でいいと思うわ。巻き込まれないよう注意なさいな―――――もっとも、手遅れになるかもしれないけれど」   
「?」   
 首を傾げている少年を一目して、妖精は妙に妖艶な微笑を作った。
「ふふふ。私、あんたのこと気に入ったわ。名前くらい教えなさいよ」
「まさかお前、俺に呪いでもかけるつもりか。やめてくれよ魔の類は苦手なんだよ」
「そんなことするわけないでしょ。道を踏み外した呪術師じゃないんだから。ただの興味本位よ。妖精の気まぐれ」
 ひとまずは不安を払拭し、少年は一呼吸おいてから名乗った。
「俺の名前はソウリュウ。ナナシアのソウリュウだよ」
「ソウリュウ、ね。そんな竜、いたかしら。まぁ覚えておくわ―――――縁があったらまた会いましょう。常緑があったら、また迷わせてあげるわ」
「それは遠慮しとくぜ!」
 その言葉を言い終える前に、ソウリュウは思い切り枝を踏みきって―――――空へと跳ねた。
 竜の名を背負う彼だけれども、飛行することはできない。体は星の重力に従って地へと落ちていく。宙で器用に回転し、森を走り渡るように西へと進みながら。
 そのころには妖精の姿は無く、森の至る所から妖精達の笑い声が木霊するだけであった。
 青き空と緑の地の狭間で、彼を阻むものは何もなかった。






 

 

                                                              次話へ




ソウリュウの過去がわからないという方は序幕から見ていただけるとわかるはずです。ざっとわかるはずです。
単純な馬鹿キャラではなく、いろいろと苦悩したりする子です。

ちなみにタイトルの愚者は当分出てきません。しばしお待ちを