―――――これが究極的な愛の形。

 


 

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名も無き勇者の冒険 第一幕 飛べない勇者と死ねない愚者

 

XVI 赤薔薇の王と黒薔薇の造花の円舞曲

 

 

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 〝殺してくれ〟


 そんなことを面と向かって言われたのは、生まれて初めてだった。
 物騒な幻聴が聞こえるほど自分の耳が疲労でおかしくなってしまったのかと一瞬疑ったが、目の前の美少年は不敵な笑みを湛えたままソウリュウを見つめている。
 何色とも表せない硝子玉のような瞳が驚愕しているソウリュウの顔を映しては、にやりと細まる。フランシスの目の中に仕込まれてしまいそうな錯覚を覚えながらも、ソウリュウは再度彼の信じがたい発言を脳内で反芻させるように再生する。
 彼は、確かに、紛れもなく、殺してくれと頼んできた。そこには聞き間違いも無ければ幻想も入り混じってはいない。濃厚な薔薇の甘美な香りに惑わされてはいない。
 正真正銘の真言だった。
「……何、言ってんだよ。お前」
 意味がわからないと言いたげに、ソウリュウは唖然としたまま動けなくなる。
 〝殺してやる〟。
 そう言われたことは旅を始めてから嫌というほど投げつけられたり耳にしたことがあったが、破壊願望とは間逆の破滅願望を言葉として送られたのは経験に無い。それどころかこのような場面に直面することを想像さえしなかった。否、できるはずがなかった。
 殺してください?
 諸悪の根源であり巨悪の主であるはずの者が、自らの死を望んでいる?
 主といえば兵を携えるほどの力量と知性を持つ者がなるべき立場であり、こうして客人もとい敵である自分が乗り込めばすぐに勝負らしい勝負になるのかと予期していたソウリュウからすれば、予想外この上ない。
 ナニヲイッテイルンダコイツハ。
「あ、もしかして〝人に頼むくらいなら自分で勝手に死んでろ〟って思ってます?」
 フランシスはぴょんと段差を飛び下りて遊ぶ子供のような動作で玉座から降り、無邪気に笑う。
 床から壁から調度品まで覆い尽くすように飾り付けられた赤薔薇達は彼を歓迎するように花弁を散らせ、真っ赤な雪を降らせる。美的感覚に関しては凡人以下であるソウリュウでさえも目が離せなくなってしまうほどの、幽玄でいて妖絶な光景だった。
 いつしか〝はっきり〟としていなかったフランシスの格好と要望は紐解かれ、薔薇園を迷いない足取りでつかつかと歩くのは子供の姿でありながら老獪さと柔軟さを兼ね備えた魔性の少年だった。
 目深に被った大きなシルクハット。特殊な意匠を施した燕尾服じみた服。足音が一切しない底高の靴。胸元のリボンにはやけに目を引く造花の薔薇。
 毒々しくも美しい、尋常ではない威光と貫録。威風堂々とした歩み。
 それはさながら、大国を束ねる王であり、数多の兵を尽き従える将軍のようでもある。幼さから溢れ出る威厳は、ソウリュウをぶるりと震わせ肌を粟立たせる。
(何を、ビビってるんだ)
 肝を冷やす局面に落ちたことはそれこそ両指の数では足りないほど経験しているが、ここまで急激に感情が揺さぶられるのは初めてのことだ。
 極度な変化。
 〝恐怖〟。
 怖気づいている。
 竜人の拳士は、目の前の赤薔薇の少年に、畏怖の念を抱いている。
「ふふふ」
 後ずさりしそうになっているソウリュウの焦りが愉快なのか、フランシスは口元を邪悪に歪める。
 甘いお菓子と薔薇の楽園にて、二人は見つめ合う。
 ソウリュウは目が離せず、フランシスは視線を掌握する。私を見ろと、命令を下すかのように。
(体が、動かねぇ)
 射竦められるような視線。いつしか体はいうことを利かなくなり、金縛りのような拘束感に襲われる。
 事実、ソウリュウは絡め取られていた。
 反応することも対応することもできず、掌握されそうになっていた。
「いっ!」
 体中に何か尖った物が浅く食い込み、苦痛に呻いてしまう。
 慌てて自分の体に起きた異変を確認しようと目線を下げるが、首に紐状のものが蛇のように巻き付く。
「ぐっ」
 首が絞まる。呼吸器官が圧迫され、喉奥から嫌な音が洩れる。
 しかし本気で絞殺しに来るというわけではなく、単純に体の自由を奪うべく首を固定したようである。
 ソウリュウの体は、薔薇の蔓によって縛り上げられてしまっていた。
 突き刺さるのは薔薇の棘部分であり、鼻につくのはますます濃さを増した花香だ。締め付けられる嫌悪感ときつい匂いのせいで、ぐらりと眩暈を起こしそうになる。
 薔薇がいきなり成長して伸びるという驚愕の展開はすでにキャロリーナとの戦いで目撃しているため今更驚くことは無いが、ここまで全身という全身を拘束されてしまったことに全く気付けなかったことにソウリュウは仰天してしまう。
 瞬発力には自信があるというのに、完膚なきまでに回避行動への転換を阻止されてしまっている。
 何とか蔓を引き千切ろうともがいてみるが、深緑のそれは何重にも巻きつけた鉄鎖のように強固であり、暴れれば暴れるだけ棘が肉体を傷つけるだけだった。
「……ッ!」
 特にダイアナとの戦いで深手を負った左手の部分にわざとらしく蔓が収束しており、止血用に着けた布が破けそうになる。同時に奔る焼けつくような痛みに歯を食いしばり、すぐ目と鼻の先まで迫ってきたフランシスを睨みつける。
「あ、いいですねその表情。言うことを利かないクロイツさんを思い出します。加虐心を煽るというか、苛めたくなっちゃう可愛い面持ちをしていますよ貴方」
 くつくつと抑えきれていない笑声を浴びせながら、フランシスはソウリュウの顎を指で持ち上げた。ぞっとするほど冷たい指は氷のようで、精気をまるで感じさせなかった。
 それでもソウリュウは焦燥感と危機感を持ってフランシスの指を噛みつく勢いで振り放そうとしたが、拘束された首は石のように微動だにしない。意識がはっきりしているぶん、肉体だけが石化してしまったかのような嫌悪感を抱いてしまう。
 そんなソウリュウにお構いなしで、フランシスは意地悪く指でつんつんとソウリュウの頬を突いて遊び始める。よく見ると十爪の全てに化粧を施しており、薔薇の花弁が散りばめられている。
「放せよ!」
「嫌だと言ったら?」
人をおちょくるような軽薄な態度。
ソウリュウの中でフランシスという存在の印象が〝すんげえ性格悪いムカつくやつ!〟で完全に固定されてしまったのは、この時からかもしれない。
「貴方が悪いんですよ?だって何だかすげえ嫌そうな顔するんですから!」
「嫌だよ!嫌に決まってんだろ!俺は誰も殺さないって決めてるんだから」
「……は?」
 ソウリュウの言葉にフランシスは多大な衝撃を受けたのか、常時薄気味悪い仮面のような笑顔を浮かべていた顔が驚きの色に塗り替えられる。その変容ぶりには発言者であるソウリュウが呆気を取られてしまうほどだった。
「え、え?誰も殺さないって、貴方が?」
「俺以外の誰がいるってんだよ。マーシアが言ったのかよ」
「〝アレ〟は数に含んでいませんよ」
 後方で彫像のように身動き一つしないで待機しているマーシアに、フランシスは目もくれない。
「〝炎竜〟である貴方がまさかそんな寝言……冗談ですよね?もしかしてこの場において私をからかって遊んでいるんです?」
「遊んでるのはお前だろ!寝言は寝て言うもんだろ。なぁ、さっきから何なんだよ。炎竜?祖先だの昔がどうとか、悪ィけど俺竜人だけど竜人のこと全然わかんねえんだよ」
 煩わしげに言うソウリュウを無視し、フランシスは無防備な彼の頬を両手で挟み込んだ。
 そのまま強引で目線を合わせ、底知れない瞳で唖然とするソウリュウを覗き込む。赤々と燃える炎を秘めた瞳と、虹のようでいて無色のような曖昧な瞳が鏡合わせになる。
「私のこと殺したくないって、本気で思ってるんですか貴方」 
今度は両肩を無遠慮で捕まれ、ソウリュウは顔をしかめてしまう。
単純に触れられることが不快だったわけではなく、肩に食い込む爪がかなり痛かったのである。幼い少年の力とは思えないほどの力は、その気になれば皮膚を引っ掻き、肉を抉ることなんて造作も無いのだろう。
笑顔は完全に崩れ、目の前でソウリュウに掴みかかるフランシスは能面を想起させる無表情を湛えている。見ているこっちの血の気が引きそうになるほどの、恐ろしい形相でさえあった。
 分厚いクレバスの氷のように深く、冷えきった視線に射竦められる中で、ソウリュウの視界の隅でマーシアがじっとこちらに目を向けていた。ソウリュウを助けるわけでもフランシスに何か言うでもなく、ただひたすらに無感情無感動でソウリュウを見ている。
マーシアの表情が凍りついているモノならば、今のフランシスの表情は真っ白な紙を連想させる。
 何も書かれていない、描かれていない白紙。空白。
 〝空っぽ〟。
 ソウリュウはダイアナにそう罵られたが、この時ソウリュウもフランシスが〝空っぽ〟のように思えてならなかった。
 そこに存在はあるけれどどこか虚ろで、形はあるけれどどこか朧気で、実体はあるけれどどこか不確定で、生きているはずなのに死んでいるようにさえ錯覚してしまう。
 
 目の前の気に食わないこいつは生きているのか?
 生きているはずなのに、生きているように見えない。
 
「私のこと、憎いでしょう」
 口元だけが三日月形に吊り上げて、フランシスはただでさえ至近距離だというのに更に顔を近づけてくる。お互いの吐息が鼻先にかかるほどまで密着し、ソウリュウを弄ぶように右目蓋に人差し指を添えられる。おまけに親指を眼球の真下に置かれるものだからこのまま原始的でいて残酷なやり方で目玉を抉られるのではないのかと戦慄してしまう。
 しかし血飛沫や飛び交うことも視神経が引き千切られることも無く、そのままフランシスは脅しの体勢でソウリュウに話を持ち掛けてくる。フランシス本人だけが都合の良い、狂った頼み事を再度お願いしてくる。
「こんな風に強引に束縛してくる私のこと憎いでしょう?あの街を実験施設に仕立て上げようとした私が呪わしいでしょう?おまけに純情で幼気な娘達を洗脳したりメイドにしたりそのまま貴方と戦わせ怪我を負わせた私が許せないでしょう?真の悪を倒すことに遠慮などいらないんですよ。殺してくださいよ私を。ねぇ、ソウリュウさん。私を殺してくださいな」
 ふっと生温かい息が耳にかかり、ぞくりと震える。我が物のように馴れ馴れしく頬をなぞる指が徐々に下り、やがては首筋へと辿りつく。
 皮膚下の頸動脈を軽く押されれば、さすがに生命の危機に全力の対抗意志が働く。
 無理矢理体を捩じり、凶器でさえある細指に噛みつこうとするが、あっさりと手を引っ込められてしまう。
「ラスボスのいないRPGなんてありえないでしょう?最後に待ち構える魔王を撃破してこそ誰しもが待ち望むエンドロールに到達できるんです」
 瑞々しい桜桃の唇が紡ぐ言葉は魅惑と狂気をこれ以上に無く凝縮させている。
「貴方が勇者。私が魔王。剣はその拳。私を殺しちゃいましょうよ。もう充分経験値は獲得したでしょう?ならば、問題ないです。私が貴方を選んだのですから」
 そうでしょう、勇者サマ。
 艶めいた声が耳に伝わり、鳥肌が立つ。
 フランシスはとことん殺してくれと要求してくるつもりである。具体的な理由も意図も皆目見当がつかないが、どこまでも〝死にたい〟の一点張りであった。
「何で、死にたがるんだよ」
 意味が分からないと、ソウリュウは問う。
「お前は、好きな奴を蘇らせたいんだろ?一緒にいたいって思ってるんだろ?俺にはそういう……傍にいたいだとかなんだとかはいまいちぴんとこねぇけど、こんなことしてまで会いたいって思ってたんだろ?お前まで死んじまったら、元も子もねえだろ」
「……」
 フランシスの顔色が一瞬だけ大きく変化するが、すぐに元の不敵な笑みに戻る。無理矢理仮面をかぶり直したようにも見える。
 今まで見てきた呪詛のような文章や数式の羅列。血で書いた執念の悲鳴。幾つもの培養器。
 これらを見てフランシスが生半可な気持ちで実験していたとは、到底思えない。
 それどころか、人生の全てを欠けてまで禁忌を犯そうとしているようにさえ見える。 
「俺を呼び寄せた理由が、単純に殺されたかったってわけでもねえよな。なぁ……!ちっともわかんねえよ。この戦いに何の意味があるんだよ。お前は、好きな奴のために、作るために……マーシアを作って、他にも作ってたんだろ。日記書いたのも、壁の字も、全部お前が書いたんだろ……」
 そのくらい、取り戻したいものがあったんだろと、ソウリュウは言う。
 死した者にもう一度会いたいと望んでしまうことは、ここまでの執着心と狂気は秘めていないといえソウリュウにもあったのだから。
 再開したい。やり直したい。
 今度こそは、間違えないように。
「……ふふ」
 フランシスは、笑う。
 その笑みはどこか自嘲的でもあり、同時に諦めの色を含んでた。 
「貴方の件と、その件については無関係ですよ。私は単純に貴方に殺されたかったから貴方をここに招いたのです。貴方は〝炎竜〟ですから、私を殺す権利、義務がある」
「だから何なんだよ〝炎竜〟って!」
「ほんっとーに何にも知らないんですねソウリュウさん。先代さんから話聞かされてないんです?」
「聞いてねえよ誰だよ先代って……そもそも俺は、捨てられて、人間として、何も知らないまま十六年間ずっと山で―――――」
「ほーぅ。なるほどねぇ……」
 不真面目極まりない挑発的な態度で、フランシスはわざとらしく何度も相槌を打つ。
「でも、貴方は私を殺さなければいけないんですよ」
「……嫌だ」
「なぁぜ?」
 猫撫で声に痺れを切らしたソウリュウはついに憤怒の意を持って声を荒がせた。
「俺はもう誰も殺したくないんだよ!」
「誰も殺したくないィ?」
 何言ってんでしょうこの人と言いたげに、フランシスは露骨に自身の耳に手を当てた。
「殺すとか殺されるとか、死ぬとか死にたいだとか、そういうのは好きじゃねえんだよ!楽しくねえし嫌な気持ちになるばっかだ!何で生きようとしないんだよ!―――――〝死にたい〟って思っていても、お前はそれでも好きな奴を蘇らせようと、ここまでやってきたんじゃねえのかよ!」
 説得にも近い言葉に対し、フランシスの反応は冷めきっていた。
 憂鬱そうに溜め息をついたかと思えば、ぱちりと指を鳴らす。
 直後、中空に一本の銀色のナイフが出現し、落下するそれをフランシスは慣れた手つきで柄を握って掴まえる。
「……?」
 怪訝そうに眉をひそめるソウリュウに、フランシスはにっと明るく微笑んだ。
 そしてナイフをくるりと手の内で一回だけ回転させ―――――目を疑うほどの早業で、それを自身の側頭部に突き立てた。
「―――――ッ!?」
 絶句するソウリュウの視界が真っ赤に染まる。
 ぱっと、鮮血が水風船のように弾け、大輪の花を咲かせる。
 頭蓋が砕け、内部を貫く鈍い音。脳が潰れる聞くに堪えない音。水泡が割れてはぐちゅぐちゅとかき混ぜられるような水音。
 常人ならばすぐにショック死するほど深く刺さったナイフの動きは止まらず、もはや破損し無意味になった頭蓋を更に粉砕し、肉という肉をミンチにしていく。
 まるで肉体そのものを突貫工事しているような、悍ましい光景だった。
 脳漿が噴き上がる。
 滝のように溢れ出す大量の血液が床に流れ、あっという間に地獄の血池を作り出す。
 刃こぼれしてもはや鈍器に等しいナイフは既に柄の先端まで血塗られ、血に混じって粘度のある液体やギトギトの油じみた膜を纏っている。  
 ごりごり、ごきごき、ぐちゃぐちゃ、ぐちゅぐちゅ―――――吐き気を催す死の協奏曲が奏でられる。
「や、やめ、やめろ。やめろ―――――やめろおおおおおおおぉお!!」
 いつしかソウリュウは絶叫していた。
 目を閉ざすことも耳を塞ぐこともできないまま、自身の頭部を憑りつかれたようにナイフで殴打するフランシスにやめろと叫ぶ。
 恐ろしい地獄絵図を間近で見ることが耐えられなかったわけではない―――――フランシスの自殺を止めようとしたのだ。
 しかし時はすでに遅く、フランシスの頭は地面に叩きつけられたトマトのように崩れ、どろりとした中身を醜悪に露出させている。きめ細やかな髪は血汁を吸い込み、整った美貌は赤に塗りつくされている。
 どう考えても、誰がどこから見ても―――――取り返しのつかない致命傷だ。
 それなのにフランシスはにたりと笑みを浮かべたまま立ち尽くしている。ふらついて膝をつくことも、倒れ伏して動かなくなることも無く、至って平常にナイフを投げ捨てた。血の海に落ちたナイフはほとんど落下音を発さず、そのまま血錆に覆われていく。
「ふふふ……ふふふふふふふふふ……ねーぇソウリュウさん。貴方には死にたくても死ねない人の気持ちが理解できますかぁ?」
「……ッ!?」
 ゆらりとフランシスが首を回せば、陥没した頭部に変化が現れる。
 損傷部に霧がかかったかと思えば、たちまち喪失したはずの骨や肉がみちみちと〝作り変えられて〟いく。
 ナイフで抉る前の状態に逆戻りするかのような信じがたい再生力を目の当たりにし、ソウリュウはいよいよ喉がつまり、声が出せなくなる。 
 白骨が柱のように伸びて正確に形作られれば、大脳や小脳、大打撃を与えられた脳幹も元通りになる。
 その上を重要器官を保護する肉鎧が覆い、引き剥がされた頭皮も直り、髪がみるみるうちに生えていく。
 まるで夢を見ているようだった。
 とびきり達の悪い悪夢に苛まれているかのように、史上最悪の狂気を孕んだ狂人の夢を見ているかのように。
 現実逃避こそしないが、はたしてこれは現実なのかと疑ってしまう。
 一分も有さないうちにフランシスの大怪我は完治もとい再生し、開いた口が塞がらないソウリュウを滑稽なモノをねめつけるような視線をやる。
「これは魔法でも幻術でも貴方の視神経が狂ったわけでもない。わかったでしょう?私はしがない紳士―――――〝死が無い〟紳士です」
「死な、ない……?」
「有り体に言えば〝不死身〟ってやつですよ。更に細かく言えば〝不老不死〟。でも私は〝老〟の字は好きじゃないので〝不死身〟って覚えておいてください」
「嘘だろ……死なない、なんて……」
 ソウリュウは青ざめる。
 死の概念が無い超越生物など、存在するはずがない。
 歴史上において数えきれないほどの者が永遠に終わらない生を望んでは手に入れようとして躍起になり、あらゆる手段や方法を試して得ようとしたがついに誰一人として得られなかったモノ―――――〝不死〟。
 それをフランシスは体現していると宣言したのだ。
 この主張が嘘ならば、今頃フランシスは間違いなく出血多量で死んでいる。〝不死身〟でなければあんな傷が一瞬で回復するはずがない。
 冗談だろと言う気力は、もうソウリュウには残っていなかった。
 血花は乾いた砂地に溜まった水が蒸発するようにもわりと煙をたなびかせたかと思えば、陽炎めいた揺らめきを最後に消滅した。
「……〝彼女〟を作ろうとしたのは一種の気の迷いでした。突き詰めて言えば本当にもうそれしかやることがなかったんです。学問の美の極致を追求し心行くまで堪能だとか実力を発揮し霊長類の進化系が素晴らしいと拍手喝采するような成果を出したかっただとかそういうありふれたことじゃないんです。そういう系統の研究やら探求やらはやりつくしましたから。嫌ってほど暇潰しの一環として―――――飽きたんですよ。生きて何かをするという行為自体に」
 空っぽの笑顔で、フランシスは落ちたナイフを蹴り飛ばした。吹っ飛ばされたナイフは弧を描き、薔薇園のどこかへと呑み込まれていった。
「随分と長い間死にぞこなっているので、必然的にいろんな人生経験を積んだのですよ。考え出したり編み出したり、壊したり殺したり―――――千人分の手の指でも足りないくらい様々なことをやりましたよ。でも、それにももう飽きたんです。生きれば生きるだけ退屈感だけが水底に沈殿する泥砂のように溜まり、歩めば歩むだけ鬱憤と虚無感だけが行列しては私に機械的にお辞儀をするだけ……人間が羨ましいですよ。精々六十、七十年程度しか生きられない弱小哺乳類に羨望の眼差しさえ向けてしまいますよ私は。死のうと思えばすぐ死ねるんですから」
 終わりの無い生を送り続けるのは、拷問と表するよりも〝生き殺し〟ってやつですよ。本当にね。
「やりたいこともやりたくないことも全部やりました。それじゃあ残りの永久不変の永遠不滅の余生は何をして過ごすべきなのか、ぱっと考えて浮かんだのが〝命を作り出すこと〟でした―――――おっと、今ちょっとやらしいこと考えましたね?」 しかしソウリュウは相変わらず茫然としたままであり、フランシスは「どうやら貴方の無知さでは愉快な猥談もできそうにないですねぇ」と、少しばかりつまらなそうに軽く肩を回した。
「……死ねないくせに殺してくれだなんて矛盾してるだろって言いたげな顔ですね。ええ、ええ。そりゃあそう思われてもしょうがないです。まぁ、すごーくわかりやすくいうならあれです―――――私は死ぬことが大好きなんです」
 苦痛を甘受しながら絶命すること。
 原形がなくなるほど派手に荒々しく抹殺されること。
 あらゆる惨いやり方で生命活動を強制的に停止させられること―――――とにかく死を与えられることが好きで好きでたまらないと、フランシスはうっとりした様子で説明する。
「約束、してるんですよ炎竜には。私を殺さなければならない、永遠の約束です。うふふ、貴方ははたして何番目の方?今度はどんな風に私を殺してくれるんですか?首を長くして待っているんですよぉ」
 ああ、駄目だ。駄目だこいつ狂ってる。支離滅裂ってやつすぎて、何言ってんのかわかんねえ。
 ソウリュウの全神経が危険信号を点火し、けたたましい警鐘を鳴らす。
 彼が〝逃げたい〟と、心から思ったのはこれが最初で最後の出来事かもしれない。
「誰も殺したくない、傷つけたくないだなんて。今のご時世でそんなお綺麗でいて無茶な自論、馬鹿馬鹿しいにも程がありますよ。冗談じゃない。コメディアンでもそんなネタ使いませんよ」
「俺は、誰も殺したくない」
「嘘ですよねソウリュウさん。誰も殺したくないだなんて、真っ赤な嘘。赤薔薇のような嘘ですよねぇ」
「嘘じゃねえよ」
「嘘は貴方の虚言そのものです。それもこれもあれもどれもぜーんぶ嘘。貴方だって気づいているはずですよ」
「な、何がだよ」


「本当は人を殺したくてたまらないのでしょう?ソウリュウさん」


 刹那、ソウリュウは猛烈な息苦しさに喉を詰まらせる。
 脈拍数が跳ね上がり、額には油汗が浮かぶ。
 歯を食いしばれば奥歯がかたかたと鳴り、身震いする。
 フランシスから投射された不可視の猛毒の言葉が胸の内を深々と抉り、全身という全身を寒気立たせる。
 何よりも一番問い詰められたくなかった言葉が、熱い心臓を冷たく握る。
「違う……」
 否定する。逃れられない今、否定することしかできない。
 声が情けなく震えている。
 肯定してしまえば―――――確実に戻れなくなる。
「破壊衝動を抑えるのは苦しんでしょう?誰にも理解してもらえない悲しみを必死に堪えているのでしょう?何もかも壊したくてたまらないのでしょう?」
 壊したい。
 異形な者達の住まう世界からはあえて離れ、人間社会で自由気ままに旅をして早一年が経過するソウリュウの身の内で、蝋燭の火のように矮小ながらも爛々と灯り続けている衝動―――――それが殺意と定義されるべき衝動だとすれば―――――。
「違う……!」
 あの日、師匠であるショウインは言った。
 もう二度と人を殺すなと。人間も異形なる者を含めて、誰一人として殺めるなと誓わされた。

 〝次に誰かを殺せば、間違いなくお前は欲求に負け、破壊者になる〟

 自分を追ってきた竜人達を皆殺しにしたあの時―――――血に塗れた自分の手を見下ろして真っ先に抱いた感情は―――――。
「守りたいだなんて嘘っぱち!目に映るものの全てを壊したいのが本音でしょう?本性でしょう?貴方は貴方に関わるあらゆるものを粉砕したくてたまらない。生き物ならば、真っ赤に染めたくてたまらない。潰れたトマトのような醜悪な屍にすることを所望している」
 高揚感。満足感。加虐思考。破壊願望―――――命を奪うことは愉快だと。命を踏みにじることはこの上なく楽しいと―――――ひたすら飽きもせずに十年以上も続けてきた修行を遥かに上回る充実感を、殺し合いの中で見つけ出してしまった。
 それ以来、誰かと戦うたびに心の奥底で黒い炎が燃え盛る―――――ああ、殺してしまいたい!壊してしまいたい!と、残虐な歓喜を渇望している。
「違う!」
 命に関わる勝負―――――無意識のうちに必死になって破壊願望を押し込めている自分がいた。
 命に関わる勝負―――――無自覚の内に何度も何度も何度も何度も相手を殺しそうになっていた。
 はめが外れれば、何もかもをめちゃくちゃにしていた。
 誰も殺したくないとこんなにも願っているはずなのに、フランシスに暴かれた途端に沸き上がるこのどす黒い感情はいったい何なのだろうか。
 ああ、これでは、とても、人間になんか、人間に認められることもできない、これでは、これじゃあただの―――――。
「本当は私のことだって殺害したいと望んでいる。喉から手が出るほど、心臓を握り潰したくてたまらないと渇望している。我慢することがつらく、苦しく、息ができなくなりそうな中で、不殺の誓いとやらを破棄しようと何度も迷っているのでしょう―――――貴方は人間を愛そうにも愛せない、なろうにもなれない化け物です!」
「違うって言ってんだろうがあああああああぁッ!」
 喉を張り上げて咆哮すれば腕の筋肉がみちりと嫌な音を立て、加えられた渾身の力によって薔薇の蔓が引き千切れる。
「おや」
 まさか自力で拘束から脱されるとは思っていなかったのか、目を丸くするフランシスに向かってソウリュウが突攻する。
 怒りの形相で擦り傷だらけの拳をフランシスの顔面めがけて振り上げ―――――振り下ろせずに眼前で急停止した。
 直撃していればフランシス程度の年頃の頭ならばあっという間にかち割れている。
 むしろフランシスはそうされることを望んでいたのだろうが、荒い呼吸を繰り返しながら懸命に攻撃の手を引っ込めようとするソウリュウに拍子抜けしたとばかりに溜め息をつく。
 命に関わらない勝負への信念は、いったいどこに消えてしまったのか。
「……そのまま殺してくださってもよかったのに」
「う、う、ぐぅ……!」
「あーもー何なんですかぁ!期待してたのに!私のことぶっ潰してくれる人がようやく登場すると、すっごーく楽しみにしていたのにィ!―――――いいですよもう!そっちがとことん意地張ってるのなら、嫌でも殺させてやるんですから!」
 今にも地団太を踏んで駄々を捏ねそうなフランシスであったが、数回深呼吸をすればたちまち冷静になり、ずれたシルクハットを被り直しながらちらりと待機中のマーシアに合図を送った。 
 奇妙な術を使ったのか、いつの間にかフランシスはもとの玉座の手前まで一瞬で移動しており、悠々と玉座に腰掛ける。赤薔薇の王の着席、帰還だ。 
「カモーン、マーシア。最初のお手並み拝見はとっくに済んでいるので、最後のお仕事ですよ―――――あの分からず屋な炎竜を殺しなさい。首を刎ねようが四肢を捥ごうがご自由に、貴女のやりたいようにやりなさい」
 指示を出されたマーシアは「はい」と短く応える―――――いつの間にか以前ソウリュウが破壊したモノと同種の大斧が装備されていた。
 戦う準備はすでに整っていますと、無言で主人であるフランシスに告げている。
「かしこまりましたご主人様。ただ、一つ疑問点があるのでお尋ねしても宜しいでしょうか」
 するとフランシスは実に鬱陶しそうに眉をひそめ、冷徹な態度で声の音程を低くする。毛嫌いしている相手に嫌々返事をしているかのようでさえあった。
「何ですかさっさと言いなさい。貴女が私に口答えなんて珍しいですねぇ明日は世界滅亡の大豪雨が降りそうですよ」
「ソウリュウ様を殺してしまえば必然的に今世代の炎竜が耐え、結果的にご主人様が殺められることが不可能になってしまいますが、宜しいのでしょうか」
 何だそんなことですかと、フランシスはマーシアを鼻で笑う。
「構いませんよー。貴女程度に敗れる炎竜に用はありません。殺されるのは大好きですがいつまでも妄言ばかり吐いてる雑魚に殺されるのは真っ平御免です。本気で殺しにかかりなさい。これは実質、試験のようなものですから。ソウリュウさんが負ければ彼が死に、逆もまた叱り―――――私、別に貴女が死んでも悲しくもなんともないので、できればソウリュウさんに勝ってもらいたいですね」
 慈悲の一つも無いその言葉に反応したのは、マーシアではなくソウリュウだった。
「……おい」
「はい。なんでしょうソウリュウさん」
「お前はマーシアを物か何かだと思ってんのか」
「ええ。そうですけど何か問題でも」
 フランシスはにこりと嫌に社交的に微笑む。
「失敗作には用は無いんです。特にマーシアは出来の良い失敗作だったので、壊れているほうがいいんです。マーシアは〝あの人〟にそっくり、でも中身は丸っきり別物―――――もういいでしょう?〝魂〟のほうはどうにもならなかったんですから」

〝マーシアは機械人形のようなモノですから。死んだところで別のマーシアは作れます。替えは利くんです〟
〝マーシアは紛い物なのです。貴方様が今までに見て、聞き、戦ったマーシアは、失敗作なのです。偽物なのです〟

 不意に蘇るマーシアの言葉が重く圧し掛かる。 
「承りました。ご主人様―――――マーシアは貴方の紡ぐ言葉に従い、望み通りに奉仕し、身も心も捧げ、使命を執行しましょう」
 当の本人であるマーシアはソウリュウと対峙し、大斧を構えた。
 殺意も無ければ殺気も感じないが、それでもマーシアがソウリュウを本気で殺しにかかってくるのは一目瞭然だった。
「ソウリュウ様」
 視線こそ交わしても、交わす言葉は悲しいくらいに短かった。
「―――――マーシア、お前は」
「―――――逝ってらっしゃいませ」
 逃げる間もなく横薙ぎに振るわれた大斧は豪風を生み、瞬時にソウリュウは跳躍して回避する。ひゅっと踵を鎌鼬が掠め、その部分の足布が破ける。
 この攻撃は本気だと、ソウリュウは頭を戦闘状態に切り替えようとするが上手くいかない。フランシスに突き付けられた言葉が骨が拉げそうな重量感を持って意識に巣食っている。
 しかしマーシアは親切に待つことも情けをかけてくることも無く、ひたすらにソウリュウの命を刈り取ろうとする。連続して振るわれる漆黒の大斧は死神の鎌を彷彿とさせる。ただでさえメイド服が黒いせいで尚更そう思ってしまう。
 黒と白の給仕の衣装は、喪服のようだ。
 破滅を望む主に使える従者ならば、相応しい装束なのだろか。
 何て皮肉だ―――――かつて愛した人と瓜二つの外見を持つ少女を破壊者に仕立て上げるだなんて。
「マーシア!お前俺に言ったよな?何のために戦ってるんだって。誰のために戦ってるんだって!」
「死んでください」
 一撃一撃に渾身の力が込められている重い打撃を懸命に受け止め、ソウリュウは斧をもう一度壊そうと柄の部分を乱打する。
 しかしマーシアの握力もさながら、斧自体の耐久力も以前とは桁外れに強化されているのか多少殴ったところではびくともせず、むしろソウリュウの右拳が痛むくらいだった。
 右手だけではなく左手も使って打ちまくれば話は別かもしれないが、左手はすでにダイアナ戦で負傷しているためこれ以上酷使すれば壊死は免れない。竜人の治癒力でも一旦壊死した部位を修復するのは不可能に近い。
 舞い散る薔薇の花弁に視界を眩まされながらソウリュウは体制を低くし、マーシアの追撃をかわす。しつこく追いかけてくる斧の刃をぎりぎりのところで見切りながら、マーシアの隙を窺うが、例え死角であっても突き込めそうになかった。
 すでに疲弊している状態では判断力も鈍り、体の動きも鈍足になる。
 早くも上がりつつある息を整えながらも、ソウリュウはマーシアに話しかけ続ける。
「それじゃあ〝お前〟は、何のために戦ってるんだよ。誰のために戦ってるんだよ」
「動かないでください」
 鞭のように軽やかに、槌のように重く放たれる連続攻撃を回し蹴りでそらし、マーシア本人に掴みかかる勢いで跳びかかっていく。強引に固定していた左手を繋ぐ線の一つが引き千切れる。
「お前だって―――――お前だって〝人間〟になりたかったんだろ?〝人形(作り物)〟じゃないんだろ?」
「マーシアは〝人形(作り物)〟ですよ。戦闘用の玩具にも等しいモノ。ソウリュウさん。貴方何か勘違いしているみたいですけど、心無いモノに感情移入しちゃあ駄目ですよ」
「うるさいっ!俺はマーシアに話してるんだ。お前じゃない!」 
 防御姿勢のまま怒鳴るソウリュウに対して傍観しているフランシスはおやまぁと含み笑いするが、表情とは裏腹に瞳は何か眩しいモノを直視しているかのようだった。
 自分には無いモノを羨望するかのような目。もしくは、過去を振り返って懐かしむような目をしていた。
「お前はマーシアだろ?生きてるんだろ?あいつに尽き従うことだけが存在理由って言うのか?」
「私は、ご主人様のメイド」
「他にやりたいことはねえのかよ!お前はマーシアだ。他の何者でもない!」
 めまぐるしく拳と斧がぶつかり合う打音が連なる中で、ソウリュウはひどく悲痛気に歯噛みした。
「―――――全然わかんねえんだよ。こんなに戦いたくない勝負、初めてなんだ」 
 一番最初にマーシアと戦った時の心躍るような興奮は沸くどころか、気力さえも削ぎ取られるように消沈していく。
 異様なほど強く、首を振って拒否の意を示したくなるほど、戦いたくないと思ってしまう。
 こんな形でマーシアと戦うのは嫌だった。
 どちらかの敗北が死に繋がるだなんて真っ平御免だった。
 力比べをするように、高め合うように、絆を深めるように―――――誰の心も痛まないやり方で、戦いたかったというのに。
 護りの手を止めればマーシアは躊躇なくソウリュウの首を刎ね飛ばすことだろう。静止をしている暇はない。動き続けなければ、殺されてしまう―――――殺してしまう。
 衝撃で凹んだ穴を更に踏み切れば、薔薇の世界で踊るように戦う二人が在る。
 王の膝元で壊れた円舞に取り込まれる、二人が。
「―――――ソウリュウ様」
 長い三つ編みと夢のように空気に膨らむスカートが、ふわりとソウリュウの視界を横切る。
「マーシアは戦闘メイドですよ。最初から最後まで、それだけです―――――これが〝私〟なんです」 
 何にも成れないと言った人造人間は、自分を戦闘メイドだと言い切る。
 これしかない。
 自分にはもうこれしかないのだと、瞳は謳う。
 ああ、本当に。
 本当に、お前は―――――。
「―――――わかったよ」
 もう、戦うしか道が無いのなら―――――とことん付き合ってやるよと、ソウリュウは今できる限りの精一杯の笑顔を即席で作った。
 よくわからない系譜だとか、意味不明な約束だとか全部どうでもいい。
 敵を倒す。
 敵は―――――一人のメイドと一人の不死者だ。
「だったらお前を倒して、あいつもぶっ倒してそれで全部チャラにしてやる―――――再戦ってやつだ!俺はお前を殺さないで勝つ!それが―――――」

―――――それが〝俺〟だ!

 胸を張って高らかに宣言しながら、人間に成れない二人の化け物が正々堂々正面からぶつかり合った。



 ◆


 彼女は言った。
 「あの人に尽くすことが唯一でいて最大の存在意義であり、あの人のために戦えることは光栄であり、これは自分自身の紛れも無い意志である」と。
 それが正当とも不当であるとも宣告できなかった。裁く権利などあるはずもなく、声を大にして否定することも適わなかった。
 彼女はそれでいいと言う。
 使い捨てられるだけの人生に何の後悔も悲壮感も無い。
 それだけが光。それが最善策―――――それが幸福であると、言いきった。
 それに応える術は、無いに等しかったのだ。
 
「だらあああああああああああああああああああぁあああ!」
「―――――!」
 目にも止まらぬ連続技が疾風と共に迫り、マーシアは斧を盾代わりに構える。
 一撃だけでは収まりきらない肉迫とした衝撃音が連なり、それでも尚突進してくるソウリュウは勢いをまるで衰えさせない。
「まだ、だああああああぁ!」
 すでに穴ぼこだらけの凹凸激しい地形となってしまった床を蹴るマーシアにアッパーを叩きこもうとするが、間一髪のところでいなされてしまう。それでも掠めたエプロン一部が破け、繊維が引き千切れる。
 舞うように体を捩じるマーシアの一発を避けて弾き上げるが、一向に武器を手放そうとはしない。身の一部だと主張せんばかりにしっかりと握られた柄を棍棒のようにして、続けざまに繰り出される蹴り技を防ぎきる。
 それでも勢いではマーシアのほうが押し負けており、膝ががくりと折れそうになるが顔色一つ変えずに対処してくる。
「……ッ!」
 激しい攻防を繰り返しながら急所を狙おうと突き出された斧の柄がソウリュウの腹部に炸裂する。
 呻き声と一緒に吐き出された血が薔薇に混じる。
「いってぇ……!」
 その威力に圧倒されつつも倒れることは無かったが、ダメージは大きい。
 滴り落ちる血で足が滑り、不格好な姿勢で何とか転倒するのを防ぎ、ソウリュウは口から垂れる血を乱暴に拭った。
「ああ、でも、ちょっとは、楽しくなってきたかもしれねえな。なあ、マーシア、お前は、どうだ……?」
 息も絶え絶えに血を流しながら、ソウリュウは破顔する。立っているのもやっとな状態は今にでも倒れ伏し、そのまま二度と日の目を拝めなくても何らおかしくない。
 対峙するマーシアは息こそ乱れていないもののあちこちを負傷しており、ソウリュウほどまでとはいかずともかなり弱っているには変わりない。
 戦闘を開始してからどれほどの時間が経過しただろうか。
 時の流れの感覚はもはやないが、館での数々の戦いの中で最も実力が拮抗し、緊迫し、長時間におよぶ激戦になっているということは理解している。
 ぶつかり合う一瞬一瞬が命懸けであり、常に張りつめている―――――殺し合い。
 咲き乱れる薔薇の箱庭の地面には花弁によく似た血痕が花開いては、残酷な傷を染み込ませている。
「さあさあどうするんです?このまま楽しく死ぬんですか?」
「死んでたまるかよ!」
 休む間もなく襲いくる攻撃を避け、抑え、舌を噛みそうになりながら無理な姿勢で技を繰り出す。
 ソウリュウはすでに満身創痍だが、マーシアも動きが鈍きなりつつある。 
 広大な室内の全てを利用し、駆け回る戦いは急速でいて長期だったが、時期に終焉が見えつつあった。
 どちらが勝ち、どちらが倒れるのかは予想しかねるが。
 途切れない攻防の嵐の中で、不意にマーシアは小さな声で呟いた。
「ソウリュウ様。あの時マーシアは少し嬉しかったのです。きっとこれが嬉しいと言う感情なのだと気づけるくらいに、ありがたさを感じたのです」
「……何だよ」
「貴女はマーシアのことが〝マーシア〟に見えると言ってくれました。マーシアは、嬉しかった」

「お前はお前だよ。これからもずっとそうだ。だから―――――」

 こんな悲しい戦いを止めて、一緒に―――――。
 そう言いかけたところではっとソウリュウが目を見開けば、マーシアのボロボロの姿が映る。
「だから、もう―――――このまま〝停止〟するだけなのです」
 マーシアは言う。
 相変わらずの無表情が僅かに解け―――――笑っているように見えた。
「―――――」
 そしてそのままがくりと膝をつき、目を閉じる。
 処刑を待つ罪人のような姿で、俯きながら。
「マーシア!?」
 慌てて自分の身を顧みずに駆け寄るソウリュウだったが、それが罠であることに気づけない。
 終わりの刹那まで。
「マーシア―――――お疲れ様です」
 マーシアを一瞥し、フランシスは言い放つ。
 最後の言葉を。
 終幕の言葉を。
 破滅の言葉を。
 死の言葉を。

「もういいです。充分です。貴方には飽きました」



「さようなら―――――そして」


















 おやすみなさい。






「―――――あ」





 

 轟音と爆風。
 熱波と衝破。
 弾けるような快音。
 吹き飛ばされる体。
 切り刻まれるような激痛。
 焼けつくような高温。
 包み込まれ霞む視界。


 

 



――――散り散りに裂け、爆ぜたマーシアを見た。

 

 

 

 





〝ご主人様。マーシアは幸セでス。ご主人様のタメに死ネるダナんテ―――――ドウカごブウンを〟






 誰かの叫び声が、反響した。

 

 

 

 

 

 
 ◆




―――――暗闇の世界の下で泣く少年を見た。

―――――「あのヒトを、コロさないで」

―――――少年はかき消える。



―――――暗闇の世界の狭間で目を閉じる少女を見た。

―――――「これが貴方の運命?でも、眠るにはまだ早い。きっと、そう」

―――――少女は凍りつく。



―――――暗闇の世界の空でこちらを見つめる青年を見つめ返した。

―――――「立て」

―――――「それともここで朽ちるか」

―――――「この結末を否定するのならば、足掻け。血反吐を吐いてでも、這いつくばってでも突き進め」

―――――「世界を変える―――――炎―――――が――――――――――導く――――――――――」



―――――崩れていく世界の中で黄昏を見る。

―――――一輪の花は聖女に転じ、優しく微笑んだ。

―――――「大丈夫。貴方は間違っていない。答えは自分で見つけ出すものだから」

―――――「貴方は――――――私達の―――――大切な―――――――――――――――」


―――――声が、途絶える。

 

 

 



 ◆

 
 宙髙く放り出された斧が回転しながら落下し、やがて床に突き立った。
 一つの墓標のように、真っ直ぐと。
「―――――呆気ない」
 もうもうと立ち込める煙幕じみた炎煙に辟易しながら、赤薔薇の王は実につまらなそうに首を回した。
「本当に、本当に、本当に、本当に、他愛ない。感情とはなんて脆く悲しいものでしょう―――――まるで人間のよう」
 そう笑うのもつかの間、立ち込めていた煙の檻から豪快に飛び出してくる影があった。
「!」
 信じがたいほどの速度で接近してきたそれは、たちまち高みの見物をしていたフランシスの細首を掴み、背後の玉座の背もたれに張り付けにした。 
 ぞっとするほど熱く、憎悪に染まった呼吸音。吐き出された息がフランシスの頬を舐める。
 そこにいたのは―――――一匹の獣だった。
 人の姿をした、獣だった。
「けほっ―――――ちょっぴり吃驚しちゃいましたけど、この程度じゃあ骨も折れませんよ?もっと力を込めないと」
 軽く咳き込みながら微笑すれば、ぐっと首を絞める手に更に握力が込められる。
 後十秒ほど絞め続けていれば幼い子供の首骨が圧し折れるほどの力だ。
「うふふふ。そうです。そうこなくっちゃ楽しくない。楽しくない夢なんて、ただの悪夢でしょう?」
「―――――なんで、殺した 」
 獣―――――ソウリュウは無に近い表情で憎々しげに吐き捨て、フランシスを床に引き倒した。
「貴方を壊してしまいたかったからです。でも、駄目でしたね。失敗です。失敗失敗また失敗、うんざりですねホント」
 受け身が取れなかったのか最初から取るつもりも無かったのか、背中を強く打ったフランシスは冷酷な目で自分を見下ろしてくるソウリュウを仰ぎ見る。
 ぼたぼたと垂れてくる多量の血は、致死量を越えているかもしれない。
 傷だらけのソウリュウが、ここにいる。
 見開いた炎の瞳から血の涙を流しながら。
 ―――――マーシアは、いない。
「ははは……ははははは……!」
 フランシスは括目し、腹を抱えて笑う。大笑い。爆笑した。
 失われた命を嘲笑うように。望み通りの展開になったことに狂喜するように。
「あはははははははははははははは!ははははははははマーシアが死んだ!マーシアが死に、貴方が生き残った!貴方の勝ち!やっぱり貴方最高ですよ。さすがは私の見込んだお方!」
「―――――立て」
 そんなフランシスをソウリュウは蹴飛ばす。フランシスは嬉しそうに転がる。
「立てよ。マーシアがどんな思いでいたか、教えてやるよ。お前をぼこぼこにして、叩きこんでやる」
 掠れた声は憎しみに彩られ、自身の肌がぞくぞくと興奮で粟立つのをフランシスは感じていた。
 ああ、ああ、これだ。これを待っていたんだと―――――炎竜の血の涙を!
「私が憎いですか?―――――ならば、殺しなさい」
「憎い。今すぐ、殺したいほど―――――でも、殺さねえ」 
「何故です!?マーシアを殺したのは私のようなものですよ!?―――――殺しなさい!私を!無残に!塵一つ残さずに!」
 邪悪な笑顔のまま愉悦の絶叫をするフランシスに、ソウリュウは冷ややかに―――――それでも確かな猛炎を宿して、言った。

「マーシアが、それを望んだからだ」

 彼女の最後の遺言を、主人に伝える。
 
 長い沈黙が、その場を満たす。
「……何なんですかもう。調子狂うじゃないですか―――――〝マリーベル〟と同じこと、言わないでくださいよ。偽物のくせに……」
 フランシスはくつくつと笑いながら、手で目元を覆った。
 泣くように、笑うように、嘆くように、自責するように、嘲笑するように―――――〝不〟幸せそうに、嗤う。
「本当に、本当に本当に本当に本当に本当に本当に本当にッ!どいつもこいつも失敗作ですよ!本当にもう……〝そっくり〟なんですからぁ!」
 静かにゆらりと立ち上がれば、周囲に寄生する薔薇達がめきめきと急成長する。
 先端部が尖った一輪の薔薇は空中で分身を作りながら無数にばらけ、針となってソウリュウに四方八方―――――全方位から狙いを定める。
 茨は楼閣を築くように天高く伸び、王の領域を構築していく。
 フランシスの目は―――――虚無色だった。
「そんなに私と〝勝負〟がしたいんです?―――――どうなっても知りませんよ?」
「お前のことは殺さない。その代わり、何度でも戦ってやる。戦って戦って、お前を倒してやる―――――勝負しろ。フランシス!」
「―――――ならば死ね。飛べない炎竜。赤薔薇の王の前にひれ伏せ」
 


「俺は死なない―――――生きて帰るんだよ」


 真っ赤な世界が渦を巻く。
 閃光のように瞬いては空を切り裂く一閃を、粉砕する。
 輪廻の輪を結ぶように、踊るように、二つの光が堕ちる。
 赤と橙。
 微かな黒紫を目裏へと閉じ込め

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 そして―――――

 

 

 

 

 

 

 

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