〝星〟が栄え、数多の生命に恵まれたいつの日か、四足歩行の獣は二足で地を踏み、やがて原罪の子供達が目を開けた。

 いつから〝火〟は生まれたのか、いつから〝道具〟は生まれたのか。

 原罪の種はみるみるうちに芽吹き、静かに鈍足に〝星〟を蝕み―――――〝愛〟を犯した

  

 

 これは始まり、全ての終わり。

 

 七の数字を失った概念が、不死の化け物になるまでのお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

GAIA 一章 望まれない世界と星の申し子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初めて〝自分〟という存在を認知できたのは、深い闇の中だった。
 光一つ無く、音も無い場所にただ独り〝自分〟は立ち尽くしていた。
 右も左もわからず、どこを見ても同じ闇色に染まった空間に、〝自分〟だけが取り残されていた。
こんな暗闇に見覚えはなく、そもそもどうして〝自分〟はこんなところにいるのかという疑問だけが、空虚な頭の中で一点の明かりとして灯ってた。
 〝自分〟は、生きている。
 生きているからこそ思考ができて、生命活動を行うことが可能なのだ。
 だけど―――――生きている実感というものがまるでなかった。
 ここにいること自体が何かの間違いなのではないか。
 取り返しのつかない致命的でいて決定的な過ちなのではないか。
 そんな確証のない予感だけが、形容しがたい予想だけが、そこにはあった。おそらくは自我と呼ばれる部分で、その思いにも似た何かがふつふつと湧き上がってくるのを感じていた。言語化は決してできないだろう。何故なら、それはあくまで予感にすぎないのだから。
 〝自分〟は〝自分〟がわからなかった。
 暗闇の中で自身の姿も確認できず、確かめる術も無い。何故なら、目やら腕やら足やら―――――〝自分〟には肉体というものが備わっていなかったのだから。何かに触れようとも、動かす手が無い。〝自分〟自身を触ろうとも、〝自分〟はいないのです。奇妙な意識だけが、そこにはあった。
 形は無いけれども闇は目にすることはできた。目が無いからこその闇なのかは判別不可能ではあったけれども。
 肉も骨も無いけれども、物事を考えることはできた。だけども〝自分〟に関する記憶は一切なかった。大切な思い出がかつて〝自分〟にあったのかもしれないが、すっぽりと抜け落ちていた。知的生命体としての思考ができていたのかさえ、定かではなかった。
 ここがどこなのか。〝自分〟は何故ここにいるのか。〝自分〟はいったい何者なのか。幾つもの疑問が空っぽの脳裏に浮かんでいたが、不思議と気にはならなかった。
 理由はひどく単純で、状況や状態をよくわかっていなかったからです。
 〝自分〟の意識はぼんやりと靄がかかっているようで、長い眠りから覚めたばかりのように、夢現だったのだから。
 今こそまさに夢のような現実であり、〝自分〟は無理やり夢から連れ出され、現側に引きずり込まれてしまったかのようだった。
 朦朧としている意識の中で、突然どこかからともなく物音が生じた。
 それは誰かが倒れたような音であり、〝自分〟は在りもしない耳でそれを聞き取った。
 ここから少し離れた地点が、音の発生源のようだった。
 音の正体が無性に気になった。
 引き寄せられるように、吸い寄せられるように、〝自分〟は歩き出していた。もしくは、浮遊していた。
 歩いて地を踏んでいる感触は一切なく、飛んでいる浮遊感も全くなかった。
 だけども〝自分〟は確かに移動していた。深闇は相変わらずだけれども、間違いなく動いていたのだ。それだけは断言できる。喋る口も付いていないが。
 歩いて、飛んで、音が聞こえた方向にひたすら向かって―――――やがて、何かの衝撃を下部分で感じた。
 痛みは無い。だけどどうやら〝自分〟は転倒したようだった。何かが〝自分〟に引っかかり、不可視の体を支えきれなくなったのだろう。
〝自分〟に仮に手があったのなら、この時手探りをしていたに違いない。地面の柔らかさや硬さなどは一向に感知できなかったけれども―――――不意に、未だかつて感じたことの無い凄まじい感覚が〝自分〟に奔り、〝自分〟は驚愕を露わに声音の無い叫び声を上げかけてしまう。
 驚き。それはすぐに不審感に変わり、最終的に好奇心に落ち着いた。
 いつの間にか〝自分〟は感情を会得していたのだろうか。だけどもそれは知恵の有る生物が持ち得ているものには程遠く、獣じみた反応だった。
 触れられるはずがないのに、〝自分〟は何かに触れていた。
 言葉に言い表すにはまだ難解で、体で表現するのも困難な感覚だった。
 いったい〝自分〟はこの闇の中。永遠に晴れる気配のない闇底の中で、何に接触してしまったのか。
 やがて―――――眩しくも優しげな光が上から降り注ぎ、〝自分〟や周辺を照らし始めた。
 夜の海岸の砂のように煌めく光の粒に無い目を眩ませられ、光の出どころを反射的に見上げてしまった。
 そこにあったのは、闇色の空にぽっかりと浮かぶ丸い物体―――――満月だった。
 壮大で、幽玄で、神々しくもある月の光は闇を追い払い、影を生み出していた。だけどその影に〝自分〟は含まれていなかった。何せ体が無いのだから。
 だけど、〝自分〟の目の前には―――――形あるものが仰向けで倒れていた。
 見たことの無い生命だった。見たこと無いはずの生物だった。
 しかし―――――知っているような気がした。
 ずっとずっと昔から、〝自分〟はこれと同じ類の存在を知っているような気がしたのだ。
 長い黒髪。褐色の肌。擦り切れた衣服。小さく細い体躯。腹部には大きな裂傷があり、赤色の液体が大量に溢れ出ている。
 赤色。
 月によって曝け出された草原の大地が、真っ赤に染まっていた。
 きっと〝自分〟が触ってしまったのは、この赤色だろう。
 滑っていて、冷たくて、温かくて―――――魂を循環させるもの。
 それは、血。
 知っていた。もしくは、忘れていた。これが血だということを。
〝自分〟はぴくりとも動かない目の前の存在をじっと見つめていた。
 
 ―――――ああ、やっぱりこれは知っている。

 

 〝自分〟は目蓋を閉ざして息一つしない存在の頬に、手を添えた。
 確かな温もりが指先から伝わってきた。
 すでに絶えた、命の温度を。

 

 ―――――これは、人間だ。
  
〝自分〟のすぐ傍で、幼い少年が死んでいた。
 血に塗れ、傷を刻まれ、死に絶えていた。
 いつしか〝自分〟は少年の亡骸から漏れ出ていた血液に濡れていて、周りの草や地面と同じように赤色に塗られていた。
 〝自分〟はそれがとても不快で、この汚れを綺麗に洗い流せる場所は無いかと、再び彷徨い歩き始めた。
 名も知れぬ死体は置いていった。冷酷なまでのどうでもよさがあったのかもしれない。 
 今度は月明かりが周辺を照らしてくれているので、足元も周囲もはっきりと視認することができた。〝自分〟は進む。ひたすら。静寂の中を。自分以外に生きている者はここにはいなかった。何もなかった。見渡す限りの草原と、底知れない夜の闇しかない。〝自分〟だけが歩いている。〝自分〟だけが息をしている。〝自分〟だけが、生きている。
 鼓動。
 どくんどくんと、脈打つ音が聞こえる。
 それが〝自分〟のものだと気づくのに、しばしの時間が必要だった。
 だんだんと〝自分〟は形を持っていく。
 腕が形作られ、足が生え、頭ができ、内臓から皮膚まで―――――誕生していく。完成していく。違和感は特になかった。どこまでも自然だった。恐怖感も不安感も、何も有りはしない。
 歩き続けてどれくらい経ったのだろうか。
 〝自分〟は小さな泉に辿り着いていた。
 透明感のある美しい水は、どこか懐かしくもあった。
 泉に近づき、興味本位で水面を覗き込んだ。


 そこには、ありえない顔が映っていた。

 

 黄の瞳。長い黒髪。褐色の肌。擦り切れた衣服。小さく細い体躯―――――腹部に傷は、無い。
 それ以外、全てが一致していた。恐ろしいほどまでに、同一だった。     
 水面に鏡のように映しだされていたのは―――――死者と全く同じ顔と体の、少年だった。
 驚きに目を見開いている〝自分〟は、人間の体を持っていた。人間をしていた。
 先ほど見た死体とは別の意思を持つ、別人として。
 〝自分〟は、〝自分〟ではない声で喋りだす。
 これからはこの声が〝自分〟だけのものになるという事実を、受け止められずに。
 そして、これが初めて〝自分〟が発する声になるということに、構いもせずに。
 〝自分〟が初めて発した言葉は、〝自分〟自身に向けた問いかけだった。

 

「―――――だれ?」

 

〝自分〟は、まだ〝自分〟がわからないままだった。 

 

 

 

 ◆

 

 

 


 夜の森の中でカトスが見かけたのは、虚ろな目をした少年だった。
 泉の手前で座り込んでは、呆けたように月を見上げている。こちらに気づく気配もなく、ただ一心に月だけを見つめていた。
 カトス達一行は近隣部族の偵察と狩猟を兼ねてこの数日集落を出ていた。今はその帰りであった。
 獣たちは炎を嫌うことをわかっている為、他部族の奇襲にあわないようあえて森の中を松明を手に進んでいた。
 少年を見つけたのは偶然だった。部族一の武人であるカトスがこの先危険性が無いかを一足先に確認しに行っていた時のことであった。 
 最初は獣の類かと思い、威嚇もかねて手にした松明で照らした瞬間、眩しげに両手を顔の前にかざした。
 女子に見紛う幼い顔つきだったが纏っているモノが腰布だけだったため、平坦な胸を見ただけで人間の男子であるということがすぐにわかった。
 長い黒髪と細く痩せたその容姿は奴隷を連想させる。
「子供?何でこんなところに」
 自分の部族にこのような少年はいない。どこか遠くの部族の領域から逃げ出してきたのだろうか。
 この森は危険な獣や虫が多く生息している為、好んでやってこれるような場所ではない。  
 恐怖と驚きが入り混じった表情を浮かべる少年に、敵意はなさそうだった。
「お前、どこの者だ?」
 見たところ武器も所有しておらず、筋肉も無いに等しいため、攻撃を仕掛けられても簡単に反撃できそうだ。
 そう悟ったカトスは物言わぬ少年に近づく。少年は心底怯えているのか、がたがたと震えて動けずにいる。
「口がきけないのか?」
 いつまでも何も言わない少年の口を指さすと、少年ははっとしたのかぱくぱくと魚のように何度も口を開閉した。
「だ」
 やっとの思いで発された声はしゃがれており、長い間声を出していなかった者のような声音をしていた。 
「だ、だ―――――だれ……?」
「それはこっちが言いたいことなんだが、まぁいい。俺はランシス族の武人カトスだ」
「カ、カト?」
 口がきけないわけではないようだったが、言語能力に非常に難がある様子だった。
「……参ったなこりゃ」
 これでは聞きたいことも聞きだせそうにない。
 それでいて放置することも、ましてや殺すなど、温厚なカトスにはできるわけがなかった。
「―――――カトス様?カトス様!どうかなされましたか?」
 新たな松明の灯りが後ろから迫り、若い男の声だけでカトスの弟子であるアトルであるということがわかった。
「ああ、アトルか」
「戻りが遅いので心配しました。何か問題でもありましたか?」
 問題と言う単語を訊き、カトスは苦笑しながら肩を竦めた。
「問題とまではいかないけれども、ちょっとした拾い物をしてしまった」
 怪訝そうに眉を潜めたアトルを、カトスの後ろから身元不明正体不明の少年がじっと見つめていた。
 猫を連想させる瞳の星色が、闇の中でも夜光虫のように爛々と輝いていた。

 

 

 

 ―――――地球は、少年の真下で、彼の影を描き出してくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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