一章 望まれない世界と星の申し子

 

 Ⅱ 神を崇めし人類

 

 

 ◆

 

 

「名は?」

「……」

「どこから来た?」

「……」

「親は?」

「……」

「字は書けるか?」

「……」

「―――――月が好きか?」

「……」

 その時だけ、少年はこくりと頷いた。


 ◆


 カトス達の集落は皆同じランシスの部族が老若男女問わず三百人ほど暮らしており、その名の通りランシスの里と呼ばれていた。
 小高い山に挟まれた谷にあるそこは、敵の侵入を防ぐ堀や簡素ながらも壁があり、石と藁草でできた家が幾つも立ち並んでいた。周辺には畑もあり、動物も飼われていた。
 裕福とは言えないけれども部族の結束は強く、上下関係はあるようだけれどもほぼ平等で厳しい縛りはなく、平和な暮らしを送っているようだった。
 そんな場所に少年はカトス達に連れられてやってきた。
 人望のあるカトスが帰還してくるとほとんどの者は作業や仕事の手を止め、石でできた正門まで迎えに出ていた。
 その時に見慣れない少年がカトスに抱えられているのに気づき、人々は様々な反応を見せた。それは驚きだったり、警戒だったり、不安だったり、心配そうな表情であったりと本当に様々だった。
 当の本人である少年はたくさんの人間に囲まれ、じろじろと見られる感覚にはどうにも馴染めない様子であった。
 人と接すること自体が初めてのような緊張感が彼にはあった。  
 だけど逃げ出すつもりはなかった。逃げたところでこの先どうするかなどという目的は一切ないのだから。
 そして少年はカトスに手を繋がれ、一際大きな石の建物に入り、年老いた男の元に連れてこられた。
 皺だらけの体ではあるが痺れるような威厳を持った男は、この部族の長老であった。
 長老の背後には巨大な人型の像があり、触れてはいけないような神聖さが籠っているようだった。
 長老が座る石椅子から少し離れた場所に跪いたカトス達を、少年はぽかんとしながら見下ろしつつも、ひどく疲れていたことを思い出した少年もまた床に腰を下ろした。
 長老の前で跪かずにいきなり座るという行為は本当ならば非常に無礼にあたるが、長老はそれを指摘しなかった。
「長老様。武人カトス、ただいま戻りました」
「無事で何より。成果はどうだ?」
「大型ではありませんが保存用に適した獣を何匹か仕留められました。他にも強度のある石も幾つか回収できました。近隣の集落の異常は特にありませんでした」
「ふむ。それならば良い。最近は帝国に服属する部族が多い。いつこちらに帝国の者の手が伸びるかわからん。これからも定期的に視察、監視を続けるように」
「畏まりました。我々がいない間に何か問題等ありませんでしたか?」
「多少だが西の水門が―――――」
 カトスと長老が難しい会話を交わすため、少年は混乱してしまう。今の少年には誰かの言葉を聞くのも難題であり、ややこしい話しとなると余計に難問であるのだから。
 しばし少年からしたら訳の分からない会話を繰り広げていた長老であったが、ついにぼんやりとしていた少年のほうに目を向けた。

「―――――そこの童はどうした」

 野生の猛獣でさえ黙らせてしまえそうな鋭い眼光に少年はびくりと竦み、恐怖のあまり固まってしまう。
「東の森のほうで独りでいるところを見かけたので、連れてきました。黒髪黄目ですから見たところ敵対する部族の者では無さそうですし、何よりも我々の部族に危害を与えてくるようには思えませんでしたので」
「口は利けるのか?」
「声は出せるようですが、意思疎通は難しいかと。おそらくはどこかの部族から逃げ出した奴隷かと。ろくな教育も受けていないようですし。せめてどこから来たのかを聞き出せればいいのですが」
「ふむ」
 じろじろと注意深く検分するように見られ、少年は泣きだしそうなくらい縮こまってしまった。
 自分の子ともわからず、何が何だかわからないままこんな場所に連れてこられ、少年の心ははちきれてしまいそうだった。
 この後何をされてしまうのか。自分はどうなってしまうのか、ただただそこには不安だけが渦を巻いている。 

「お爺様。その子はだぁれ?」

 唐突に場の空気を和らげるような可愛らしい声が聞こえた。
 長老の間の入口に、いつの間にか一人の少女が立っていたのだ。年齢は少年と同い年くらいだろうか。
「リリアンナ様!」
「リリアンナか。勝手にここに入るなと言っただろう」
「言ったけど、だって知らない子が来ているんですもの。気になっちゃってつい」
 リリアンナと呼ばれた可憐な少女は長老の孫娘のようで、集落の中でも際立つ美しい衣装を身に纏っていた。
 褐色肌の民が多い中で、際立っている白肌。ほんのりと桃色がかって、甘く柔らかな容貌をしている。
 髪だけはランシスの民と同色の黒だが、腰の辺りまで真っ直ぐ伸びた髪は艶やかで、誰よりも華やいでいる。
 まるで妖精のようだと、少年は見惚れる余裕も無い中で、そんなことをぽつりと心の内で呟いた。
 フゥは少しだけ張りつめていた体が溶き解れるのを感じたが、両肩を勢いよく掴まれることによって再び憂慮に突き落とされてしまう。
 気づけばフゥの目と鼻の先にリリアンナがおり、興味津々に瞳を輝かせていた。
「ねぇ、貴方はだぁれ?ここの子じゃないわよね?よそ者?どこから来たの?何歳?男の子だよね?女の子みたいな顔してる!あ、悪い意味じゃないのよ。整った綺麗な顔してるわ!その目も冬の月みたいで素敵。名前は何て言うの?すっごい痩せてる!お腹すいてない?お肉食べれる?」
 おっとりとした雰囲気に似つかわず、リリアンナは非常に饒舌だった。
 おまけに早口で声が大きく、活発に詰め寄ってくる。
「あ、う……」
 満面の笑顔でぐいぐい言い寄られ、少年は困惑せざるをえなかった。
 敵意が無いことははっきりと伝わってくるが、それでも強引に接近されるのは嫌だった。
 カトス達は何者かもわからない少年に近寄るリリアンナを止めようとしたが、長老は「まぁ、待て」とカトスに言いました。
「私はリリアンナ!ランシス族の長老の孫娘よ。リリィって呼んでね」
「リ、り、リィ?」
「そうよ!さぁ私は名乗ったわよ。貴方の名前は?」
「ひっ」
 何の躊躇も無く両頬を少女の両手で挟み込まれ、少年は喉奥から悲鳴を洩らしてしまう。
 リリアンナに良いように扱われる少年が、カトスはだんだんと可哀想になってきてしまう。
 長の娘であるリリアンナは一族の全てから愛される愛娘ゆえに、かなり我儘で言っても聞かない性質をしている。もちろん悪気があってしているわけではないのだが、少々お転婆がすぎる。
 可愛くも好奇心旺盛な姫君が、どこの馬の骨ともしれない汚らしい子供で遊んでいる珍妙な光景に、一同は呆気を取られてしまう。
「リ、リリアンナ様。まだ素性が明らかになっていない者です。それに貴女のように高貴なお方様には、そんな汚らしい童は不釣り合い……いえ、お近づきをご遠慮されたほうが」
「何故?この子何か悪い事でもしたの?」
 純粋な色をした瞳で訊ねられ、カトスはどうにもこうにも気まずくなってしまう。
「不明です。帰還の際に通過した森の中で拾ってきた者ですから。口もあまり利けないようです」
 カトスの言葉に耳を傾けながら納得したかのように何度もうんうんと頷いたリリアンナは、何かを閃いたかのようにぽんと両手を打った。

「へぇ、そうなの。それじゃあこの子、私が貰う!」

「は!?」

「……え?」

 長老以外にその場にいた男共が全員素っ頓狂な声を揃えてしまう。
 しかし天真爛漫なリリアンナの笑顔に、嘘偽りは一切含まれていなかった。つまりは本気なのだろう。
「リ、リリアンナ様しかし!先ほど申し上げたように……!」
「汚らしいのが駄目ならちゃぁんと私が綺麗に磨いてあげるわ。面倒も見てあげるし、遊んであげるわ!私この子のこと気に入っちゃったわ!」
「いや、そういう問題ではなくて……!」
 焦るカトスが不思議でならないのか、リリアンナは何て事の無いように続けた。
「犬」
「い、犬がどうかなされましたか?」
「私の犬。この前の満月の夜に死んじゃったの」
「はぁ……」
「だからね、新しい〝フゥ〟が欲しかったの!」
「ま、まさか」

「今日からこの子が私の〝フゥ〟よ!」

 カトス達は絶句せざるを得なかった。
 フゥ。
 それはリリアンナの亡き愛犬の名前。
 つまりは今度は犬ではなく人間の〝フゥ〟を所有し、友達になるつもりなのだ。 
 即ち―――――この少年は〝フゥ〟の名を与えられることになってしまう。
 死んだ犬の名前をそのまま、受け継ぐ形で。
「……?」
 何もわかっていない当の少年は、リリアンナに無理やり抱きつかれて震えているだけだった。
「ねぇお爺様。良いでしょう?貰い手が無いのなら私の子にするわ!まだ〝フゥ〟の離れがあるからそこに置いてあげる」
 ちなみに離れとは、言わずもがな犬小屋のことである。
 孫娘に強請られ、長老は深いため息をついた。
「お前は犬と人間の区別をつけろ。この童を奴隷にするつもりなのか?」
「そんなつもりないわ!奴隷なんてさせないわ。私奴隷なんて嫌いだし、そもそもここでは奴隷制度は禁止されてるじゃない―――――だってお爺様たち、この子のこと殺しちゃうんじゃないかなって思って。今は他の部族の人達と険悪な関係だから、密偵の疑いをかけるんじゃないかって……だから私が保護してあげるの!」
 根拠の部分以外が致命的に欠けているせいで、ただの子供の意地にしか聞こえなかったが、とにかくリリアンナがこの少年がひどい目に合うのは嫌だと言いたいことだけはわかった。
「……まだ何もわかっていないがな。しかしカトスの話を聞く限りでは、儂にもこの童が密偵や暗殺者であるようには到底思えん。それに、年端もいかない子を殺すほど我々も冷酷ではない」
「それじゃあ一緒に居てもいいの?」
 にわかにリリアンナの表情が花開くように明るくなったが、長老はそこにぴしゃりと言い放った。
「ただしお前に預けるのは不安要素ばかりが浮かぶ。却下だ」
「ええええぇ!?なんで!?私ちゃんと面倒見るよ!?」
「カトス。お前の家は確か子がいなかったな」
「はい。妻はいますが、子は一人もいません」
「お前の所に童を預けても構わぬか?何らかの問題が起きても、族一番の武人であるお前ならば早急に対処できるだろうしな」
「はい。畏まりました」
 深々と頭を下げたカトスに、リリアンナは腹を立てて頬を膨らませる。
「ちょっと何よそれ!ずるいわよカトス!お爺様も酷い!私もう十一になったのよ!?信じられない!もう少し私のこと信用してよ!」
「―――――リリアンナ。午前の勉学の時間はどうした」
「うっ!」
 逃避していた物事を祖父に言及され、リリアンナはぎくりと息を詰まらせた。
 それと同時に二人の女性―――――おそらくはリリアンナの教育係だろう―――――が室内に入り、リリアンナの腕を掴んでは無理やり連行するように引きずった。
「お話中失礼します!リリアンナ様を連れ戻しに参りました!」
「見つけましたよリリアンナ様!さぁお勉強の続きですよ」
「いやぁあああもうお勉強は嫌ぁあ!今日ぐらいは放っておいてよォ!バカ!バカバカバカバカバーカバカ!」
 両腕を振り回して抗議及び抵抗をするリリアンナには、清楚な響きのある姫という名にはまるで相応しくない騒がしさがあった。
 長老が頭を悩ませるのも頷けた。カトス達も「またこれか」と言いたげな顔で苦笑いを浮かべている。
 右も左もわからない少年に至っては、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしては茫然と遠ざかるリリアンナを瞳に映していた。
 日常茶飯事なのか二人の教育係は大げさに暴れるリリアンナをそのまま外に連れ出してしまった。
「……ゴホン」
 リリアンナの姿が完全に見えなくなってから、長老は一つ咳ばらいをした。
「何はともあれ、行く宛ての無いお前をしばらくはこの集落に置こう。ただしただで養ってやれるほど我々は裕福ではない。すぐにでもお前に仕事を与えることになるが、それでも良いのならここにいるがいい」 
 長老の言葉の意図を理解しているとは思えなかったが、少年はびくびくしながらも首を縦に振った。
「宜しい。ならば我が部族の神であるランシス神に、誓いを」 
「……らんし、す?」
「そうだ。我らを見守りし偉大な神であり、平和と豊穣を司るお方だ」
 ランシス神。
 長老の後ろに会った像は、ランシス神を彫った像である。
 途端に少年はその像に見下ろされているような気分になり、ぞくりとしてしまう。 
「竦む必要はない。声に出す必要もない。ただ念じるだけでよい―――――神の名の元に、少なき命のままに、懸命に生き延びると。神の存在を讃えると」
 長老が言い終えると同時に、カトス達も神に祈るように頭を深く下げた。
 少年は念じることもよくわかっていなかったが、とにかく目をぎゅっと瞑っては考えられる限りのことを意志の中で神に伝えようとした。
 それは生きる誓いでもなければ、神を崇める約束でもなく―――――純粋なる問いかけだった。


―――――どうか、じぶんがダレなのか、教えてください。

 
 しかし、神が答えてくれることはなかった。

「今日この日をもって、お前は〝フゥ・ランシス〟だ」
 
 そして、少年は、フゥになった。
 この名が永遠に忘れられない名になるとは、まだ本人でさえも知る由が無かった。
 
 金髪の女騎士にも 
 黒薔薇の魔女にも
 黄昏の聖女にも
 竜人の少年にも 
 星見の子供にも出会う前

 これは彼がまだ〝人間〟として生きていた時代なのだから。
  

 

 

 

 

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