名も無き勇者の冒険 第一幕 飛べない勇者と死ねない愚者

 

Ⅶ 目指すは悪巣の館

 

 

 ◆

 

 

 無数の蝋燭に灯された火が、ゆらゆらと陽炎のように揺れ動く。
 閉め切った部屋は外界の光を完全に遮断し、蝋燭の灯りだけで照らされている。高価でいて古めかしい調度品が並べられ、一見すると貴族の高級な寝室だ。
 恐ろしいほど几帳面に整えられた書棚、行儀良く収まるのは様々な学術書から娯楽小説、どの背表紙もバベル語では無い古の言語が記されている。
 皺一つない絨毯、真紅の生地には豪奢な薔薇園が広がる。
 埃一つ積もっていない机、インク瓶には羽ペンが浸けられ、書類と思われる紙束は几帳面に揃えられている。
 重苦しげに吊り下げられたシャンデリア。王冠を象ったそれは、銀と金の薔薇の花弁のように見事に咲き誇っている。
 使われた形跡が全く窺えない衣装箪笥、鍵はかかっていない。
 壁を飾る巨大な絵画、鮮烈な紅薔薇が深緑の茨に抱かれるように無数咲き乱れている。
 あまりにも完璧すぎる設えは、まるで生活感が無い。例えるなら、上品かつこれ以上になく綺麗に磨かれた観賞用ドールハウスだ。
 だが、人の気配が皆無というわけではなく、目立つ天蓋付きベッドの上には暗い人影が有る。
 火の量は豊富なはずだが、それでもその人物を完璧に映し出すことができない。背負っている影が膨大なのか、纏う闇が大量なのか、その者は黒のベールに包まれている。触れることさえ適わないほど、深く淀んだ暗闇に。 
「ご主人様」
 ベッドの前で立ち尽くすマーシアは、我が主に呼びかける。
 随分前からマーシアは命令通りの仕事を終えて、主の自室に戻ってきたのだが、いつまで経っても主はマーシアを相手にしなかった。露骨な無視を通り越して無関心に、ベッド横のチェストの燭台を眺めていた。
 マーシアが主人を呼ぶのはこれで四度目だが、十分前の三度目も、ニ十分前の二度目も、別段マーシアは動揺も苛立ちも見せない。返事が無くとも、律儀に待機する。
 あくまで「私のご主人様はこのようなお方」と認識し、それを受け入れている。
 マーシアは命令でしか動けないのだから。 
「……おや、お帰りなさい。随分遅かったですね」
 四度目の呼びかけでようやくマーシアの存在に気がついたのか、もしくは無視に徹することに飽きたのか、主人は顔をこちらに向けた。口元に浮かべる不敵な笑みは妙に蠱惑的で、ぞくりとするような色気を帯びている。
「申し訳ございません」
「貴女にはもう少し要領良く行動してもらわないといけませんね。時は金なり、光陰矢の如し……いつの時代でも時間は二度と代用の効かない最高級品。価値あるモノとして教えられていますから」
「申し訳ございません」
「今日を最後と思い生きる。明日の死に後悔しないで生きる。限られた寿命は短いのですから、無駄な浪費はいけませんよ。まして、私のお願い事なのですから、私をあまり待たせないでくださいな。退屈してしまうじゃありませんか」
 ごく一般的な思考回路と感性を持つ者ならば、ここで「お前が三度も無視したから余計に時間を無駄にしたじゃないか!」と、怒鳴りたくなってしまいそうだが、マーシアは口が裂けるどころか四肢が捥げても主に対する罵倒を口にしないだろう。
「申し訳ございません」
 マーシアは淡々と単調に、抜け殻のような体から色の無い謝罪の言葉だけを発する。機械的に、事務的に、決められた規則(ルール)を絶対厳守するかのように。
 主人はマーシアに呆れの視線を向けながら右手を眼前に掲げ、手遊びをするように指先をくいくいと動かす。中空で不可視の鍵盤を奏でるような指動は、どこか艶めかしい。
 爪には一枚一枚丁寧に塗装化粧が施されており、濃い赤と緑が薔薇の文様を描いている。
「貴女ってば、いちいち面倒くさいですねぇ。誰がそんなに謝れと言いましたか。これでは第三者様から見たら、私がか弱い美少女メイドに説教しながら遠まわしに追いつめてるみたいだと勘違いされてしまうでしょう」
 主人は饒舌でいて早口に喋るが、言葉の発音が恐ろしく巧みで、聞く者が例えどれほど難聴であったとしても聞き間違えることがないだろう。
即ち、主人の発言は決して聞き逃すことができない。聴者が声を聞かないことを強く望んでも、純然たる言葉は指さえも容易にすり抜けてしまう。
聴覚の逃避を見逃さず、掌握するように。
それほどまでに主人の声は美しく、長時間聞けば気が狂いそうなほど、魅力的なのだ。
「ほら、貴女っていかにも幸薄そうな性格ですし、シチュエーション的には素晴らしくマッチしていると思いますよ。主人に苛められているメイドってポジションに。んふっ!」
「申し訳ございません」
「……えーっと貴女、人の話、聞いてます?そこは謝る場面じゃないんですけど~。それとも何です?貴女って上司にぺこぺこ頭を下げることで何でもかんでも流して許してもらおうとか考えちゃう子だったんですか?いやそんなことはないですよね貴女は私がきっちりみっちり調きょ……じゃなくて、教育したんですから。だったらあれですか?お耳の神経失踪ですが?まさか耳ごと取れたのでは……あ、付いてますねよかったよかった危うく貴女のこと耳無し芳一ならぬ耳無し芳子ちゃんに改名しちゃうことでしたよ。〝日本漢字読み〟なら〝よしこ〟ちゃんにもなりますし!なかなか可愛いですねメイドの芳子ちゃん。きゃー!きっとあだ名はよっちゃんですね!昔そんな駄菓子があったような気がしますよ~」
 嫌味を言い始めた途端、人が変わったように主人はノリノリに喋り出す。ねちねちを通り越して、るんるんでさえある。
 達者に回る舌は放っておけばいつまでも雑談を飛ばし続けそうだが、陽気な話に進んで載ってくるほどマーシアは社交的ではない。
「ご主人様。私は何をすればよろしいでしょうか」
「はい?何をすればよろしいでしょうかですって?貴女、人が久方ぶりに楽しくお喋りしてるってのにいきなり別の話題を振ってくるんですか。ひどいわマーシアちゃん……貴女ってそこまで空気が読めない子だったんですね。社会に不適合でおまけに救いようのないくらいのコミュ障って、絶望的すぎる!それじゃあただのゴミないですかウケる~!ポイ捨てされたキャンディの包み紙くらいどうでもいい~!」
「私は、ご主人様の命令が無ければ行動することができません。新たな命令を受信するまでは、生命活動と現状維持以外は何も実行することができません」
「それはわかってますよ。貴女の〝設定〟は全部私が決めたんですから、取扱説明書は頭の中ですよ。私の記憶力をなめないでいただきたい。円周率の暗唱は世界一の自信がありますから―――――って、そういう話がしたいのではないですよ。可愛いだけのメイド風情がいつまでもやかましいですねぇ」
 いい加減煩わしくなったのか、主人は露骨に眉をひそめて不満を露わにする。
「貴女は殺しの才能があっても、舞台女優の才能は皆無ですね。それ以前に、メイドが主役になれる物語って少ないですよね。特に貴女のような血塗られたメイドは、舞台に上がることさえ許されないでしょう。教会の懺悔室はもはや処刑場。日の元で貴女は永遠に生きていけない…」
「私は、ご主人様のメイドです。」
 やれやれと言いたげに主人が溜め息をつけば、周囲の炎が一層大きく揺らめいた。
 口元が愉悦に歪めば、炎の群れは歓喜絶頂するかのように勢いを増す。
 この空間の王が主人ただ一人であることを、嫌でも思い知らせることができる。
「そうですよね。貴女って〝そういうやつ〟ですからねぇ。だけど、」
 主人は何が面白いのかけらけらと愉快に高尚しながらベッドから降り、ゆっくりとマーシアに近寄る。足音は血塗られたように赤い絨毯が吸収していく。靴を履いていないのか、陶器のように滑らかで真白の素足が、黒リボンが申し訳程度に添えられた質素な靴の前に並ぶ。
 するりと、主の手がマーシアの頬を無遠慮に撫でる。優しい手つきで、血管そのものを肌上からなぞるように。
 ぞくりとするほど冷たい手だが、マーシアは眉一つ動かさない。瞬きさえしていない。
 全ては主の御心のままに、己は主の捧げ者でしかないということをマーシアは何よりも重んじ、受け入れている。逆らえないのではない、逆らう気が無いのだ。
「うふ。珍しく体温が高いですね。結構苦戦したんですか?」
「ご主人様が仰っていた通り、お強い方でした」
「今の時代、あんな無防備な姿で独り旅ができるのは相当な実力者かキチガイだけですよ。それで、腕の一本くらいは圧し折ってやりましたか?」

「いいえ。圧し折れたのは私の斧でした」
「え!?」

主人が声を上げると同時に、マーシアの頬に鋭い爪の先端が突き立てられる。
肉を破った爪先から細い血が流れ出るが、加害者の主人も、被害者のマーシアもまるで気にしない。
「おや、おやおやおや何と!うそーんまじかよ」
 予想外の展開を聞いてひどく驚いたのか、主人は目を見開いたまま硬直してしまう。
「何てことでしょう。あの方は異人でしょうから防魔原石製の斧はかなり有効のはずなのに、まさか圧し折られるなんて!あの斧それなりにお値段張るのに……ちょっとした挨拶がまさか出費に繋がるとは……また盗み直さなければ」
 この主人、高額な盗品を好き勝手に加工したようである。
「ご主人様。お言葉ですが、あの斧は〝失敗作〟の一つと聞いていましたが」
「〝失敗作〟でも防魔原石を使ってるので貴重品高級品には変わりないのですよ。一昔前だったら国が一つ消えるレベルでやばいことです。まぁ今は防魔原石の加工技術は武器職人の間にもポピュラーに出回っていますし、人工石の開発や生産技術も後十年もすれば実用化されるでしょう。それでも痛い出費ですね、マーシア。これこそ貴女に性奴隷になって出稼ぎしてもらわなければ」
「ご主人様がお望みならば、何なりと」
 とんでもない発言に対しても涼しい無表情を崩さないマーシアに、主人はますます呆れてしまう。
「冗談を真に受けないでください殴りたくなりますから。しかし―――――これで、マーシア相手にもそれなりに戦える相手だということがわかりましたね。それなり?否、血の匂いがほんの少ししかしませんし、大した傷も与えられなかったのでしょうね」
「本気を出せば、しとめられます」
「逆に言えば、本気を出さない限りしとめられないってことですね。ふふふふふふふふふふふ……」 
 口が裂ける寸前まで歪み、喉奥から狂気を感じさせる笑い声が洩れ出してくる。
 主人はこれ以上になく嬉しそうに、楽しそうに、期待に胸を膨らませる無垢な子供のように、はたまたは賭博(ギャンブル)に人生を注ぎ込むこと自体を快感としている狂った大人のように、笑い続ける。
「久々に退屈しないですみそうですね。今夜はとびきりのもてなしで迎えてあげましょう。早速準備に取り掛かりなさいマーシア。もちろん、〝他のメイド達〟も起こしてきなさい!思いっきり派手にドカーンと!理性を粉砕するくらいストローングな感じで!」
 最後に景気付けと言わんばかりに、主人がマーシアの頬を引っ掻き傷を残して手を離した。
 マーシアの右頬はすでに痛々しい傷と血で汚れていたが、痛みに顔を歪めることもなく、止血もしないまま、恭しく主人にお辞儀をする。
「かしこまりました」
「急ぎなさい。時間を湯水ように無駄使いしていいのは愚か者と不老不死だけですよ。独り覗いたら全員前者でしょうけどね」
 主人の命令に従い、すぐさまマーシアは部屋を出て、早足に廊下を進み出す。すでに彼女のやるべきことは決定しており、高速に尚且つ円滑に、手順通りの舞台制作を実行し始めていた。
 マーシアを見送ることもなく、主人は部屋の真ん中でくるくると回り出す。踊るようにステップを踏み、軽快なワルツに耳を傾けるようにスウィングする。
「橙の髪に、三房の炎色。緋色の瞳―――――ああ、懐かしい。そして喜ばしい。早くお目にかかりたいですねぇ」
 炎に浮かび上がる主の爪は、マーシアの血によって更に色を濃くし、血塗られた薔薇の花を散らす。

「さあ!私の為の宴を始めようではありませんか!」


 ◆

 月が空高い位置に留まり、不気味な光を爛々と放っている。夜空を巨大な黒顔と表すると、月は山羊のような特殊な形をした眼を連想させる。曇雲が無ければ夜の時間は月の支配下にあり、監視の眼から逃れることはできないと、洗脳的に圧迫されているような気分に陥る。
 夜は魔物と一部の亜人や異人の活動時間。基本的に人間の生活リズムとは真逆ゆえに、好き好んで人間は夜間に行動しない。増してや街の外に出ようなどという考えは恐れ知らずを通り越して、救いようのない愚か者か自殺志願者のみだろう。
 そんな中、ソウリュウとフレイは防魔の結界の外―――――つまりは街を出ていた。
 カシスの街の郊外よりも更に外、防魔装置の加護を受けない外地の先に、問題の森は広がっていた。
 平野には珍しい背の高い木ばかりがそびえ立っており、おまけに四方八方に伸びた枝葉が窮屈にひしめき合い、月の光を完全に遮断してしまっている。森の入り口もすでに真っ暗に近く、中に至ってはぞっとするほどの闇に包まれているのが目に見えている。
 鳥の鳴き声も虫のさざめきさえ聞こえない。静寂に満たされているのではなく、死んだような沈黙。風の音はもはや怨霊の囁き声のようだ。
 いかにも日差しを嫌う魔物が好んで生息しそうな危険地帯だ。
「ここが噂の森か……それにしても暗いな。こんな場所に人が住めるのか?」
 ソウリュウは、純粋な疑問を口にする。
「つい数時間前までは住めるはずないって思ってたよ。館があるってこと自体知らなかったし……」
 明かりの灯ったカンテラを手にしているフレイは、やけに荒い呼吸でソウリュウの後についてくる。
 よく見ると手が小刻みに震えており、顔色もあまり良好とは言えない。
「大丈夫かフレイ。何か震えてないか?」
「ちょっと寒いだけだよ」
「そうか?」
 確かに季節の変わり目の夜風は冷たい。あまり夜に出歩かないフレイのような人間からすれば、なかなか厳しいものがあるのかもしれない。
 しかし、それに反して常に野外で活動しているソウリュウは、これくらいの気温には全く動じない。
 フレイが外套を着こんで厚着をしているのに対し、ソウリュウは袖の無い簡素な薄衣だ。二人が並ぶと、今の季節が非常に曖昧になるくらい差がある。
「俺のマントがあればよかったんだけどな、前の街で売っちまったからな」
「何で冬が近づいているのによりにもよってマントを売るんだい!君は旅人だろう!?」
 フレイなもっともな意見に、ソウリュウは苦笑いを浮かべて腕組みをする。細身な体でも、腕にはかなりの筋肉がついている。
「金が無くってな。街でちょっとした事件に巻き込まれちまって、その時に金が必要になってだな……マント以外にもいろいろ売ったんだぜ。変な形の石とか、変なガラクタ、よくわかんないやつとか」
「そ……そうかい」
 まるで道端で見かけた物を何でも拾って所有物にしてしまう子供のようだとフレイは内心で思ったが、追究はしない。
「それでも金が足りなかったもんで、売る物がマントしかなかったから売った。貰い物のマントだったから結構悩んだけど、しょうがないもんはしょうがない。入手した物はいつか交換するか売りに出さなきゃとてもじゃないがやっていけねぇ……俺みたいな貧乏旅人は特にな……」
 明らかに最後の低音気味な一言だけ重苦しい真実味を帯びており、ソウリュウは相変わらず微風で地平線の彼方まで吹き飛ばされそうなくらい軽い財布のことを思い出し、若干虚しさを覚えてしまう。
「金……今本当にビビるレベルですっからかんだぜ……一番安い肉焼き棒一本も買えないかもしれない……やること終わったらまた日雇いの働き先探さねぇと……」
 しかしフレイからはソウリュウが急激に落ち込み出したように見えたようで、この瞬間ソウリュウには金銭関連の話をあまりしないほうがいいということが判明する。
「た、旅はなかなか大変みたいだね……」
「まあな……でも、延々と働かされるよりはずっとマシだよ。さすがに半年タダ働きは嫌だったから、売れる物は粗方売ったよ。しかもひたすら岩塩の運搬作業だぜ!?髪が真っ白になっちまうよ」
「いったい君は何をやらかしたんだい……―――――まぁそれは後々聞くよ」
 軽快なソウリュウとは裏腹に、フレイは緊張感に体が強張っていた。
 ソウリュウの位置からでも、フレイの奥歯がぶつかり合ってかちかちと鳴る音が聞こえてくるほどだ。
 寒さだけではなく、胸が張り裂けそうなほどの懸念を感じているせいか、顔もまた青ざめている。
「なあ、本当についてきて大丈夫なのか?」
「あ、ああ。大丈夫。大丈夫だよ」
 ソウリュウは訝しげな目で覗き込んでくるので、フレイからすれば目のやり場に困ってしまう。
「その割には顔が全然大丈夫じゃないぞ」
「低血圧でね……」
「〝てーけつあつ〟ってなんだ?」
「きっ、君はどうしてそんなに落ち着いていられるんだ!」
 ソウリュウの無知さにはだいぶ慣れてきた自信があるが、それでも緊迫した空気をあっという間に打ち砕いてしまうマイペースぶりには、思わず頭からすっ転びそうになってしまう。
「と、とにかく……妹がいるかもしれないんだ。早く行って、助け出したい」
「だよな!……俺にも兄妹がいたら、きっとフレイみたいになってただろうな」
「君は独りっ子なのか」
「さあな。親の顔、一度も見たことないし。血の繋がりとかもよくわからん」
 大したことなさそうに言うソウリュウに、フレイは嫌な方面での察しをしていまい、申し訳なさそうに顔を暗めた。
「ごめん。無遠慮なことを聞いてしまって」
「ん?何で謝るんだ?」
 きょとんとするソウリュウだが、森奥から微かに聞こえた草を踏む音を察知し、目つきを変え、身構える。
「待て。誰か来る」
「え?」
 全く気づかなかったフレイは、慌てて外套の内側に隠し持っていた弓矢を取り出す。
 魔法効果を持つ矢と魔道具の弓は樫の枝を模しており、本物の植物以上に物々しい。
 二人が森の暗闇を注視していると、やがて三つの炎がゆらゆらと揺れてはこちらに向かってくる。
 一見すると怪談話によく登場する火の玉のようだが、近づくにつれて正体が明らかになってくる。
 控えめな足音も聞こえてくれば、決してこれが超常現象ではないということが確定する。

「こんばんは」

 夜闇に紛れるメイド服に黒い靴、棒読みに等しい色の無い声。
 森から出てきたのは、三又の燭台を手にしたマーシアだった。燭台以外は手ぶらであり、昼間にソウリュウが破壊した斧の代わりの武器は装備していなかった。
「素敵な夜ですね、ソウリュウ様」
「そうか?俺には素敵な夜と素敵じゃない夜はちっともわかんねえからな……じゃあ、素敵で良い夜ってことでいいや」
「……そちらの方は、お招きされていない方ですね。何故、ここにいるのですか」
 マーシアの視線にフレイはびくりとするが、いつでも矢を放てるように弓を下向きに構え、対象であるマーシアを目で狙い定める。
「君が意味有り気な言葉を残すからだよ。僕の妹や街の女の子達の居所を突き止めるためにも来たんだよ。文句なら好きなだけ言ってくれ。でも、引き返すつもりは毛頭無いよ」
 フレイの宣言に対してマーシアは何の反論もしないが、歓迎もしない。腹の中では図々しい客に苛立っているのかもしれない。
「おい。フレイの一人や二人くらい別にいいだろ」
 無言の牽制の間に立つのに嫌気が差したのか、ソウリュウは面倒くさそうに頭を掻く。
「何だい一人や二人って!」
「あ、悪い。三人や四人のほうがいいか!」
「数が増えても意味はそんなに変わらないよ!」
 あまり緊迫感の無いボケとツッコミを交わしながら、ソウリュウはマーシアに一つ提案する。
「お前らはめちゃくちゃ俺のことを招待したいみたいだからさ、そんな俺に免じて許してやってくれよ。許してやるっていうか……フレイも一緒に連れて行ってくれよ」
 マーシアはしばらく黙り込み、蝋燭の蝋がじりじりと減っていく中、時間をかけて答えを出した。
「畏まりました。それではソウリュウ様、フレイ様、早速お屋敷にご案内いたします―――――どうかお逸れにならないように」
 フレイの同行が許可され、二人は顔を見合わせてほっとする。
「上手く言ったぜ」
「ヒヤヒヤしたよ。いきなり燭台で襲いかかられたらどうしようかと」
「あれで殴られたら絶対いてえよな」
 ひとまず弓矢を使うことなく場を凌げたと、一安心しながらフレイは再び外套に武器をしまいこんだ。
 そのまま先導するマーシアに、ソウリュウ達は足並みを揃えてついていく。
 燭台の灯りとカンテラの灯りの両方働いていても、それでも周囲は夜の海のように暗く、一旦迷ってしまえば永遠に出口に辿りつけない気さえした。
「……それにしても、本当に主人とやらは何を企んでいるんだ?僕達を正面から堂々と招き入れるなんて」
「案外、すげえ暇人なのかもな」
「暇人?」
「暇過ぎて誰かと戦いたいって、思ってたりな」
 ソウリュウの推測に、フレイは口元に手を当てて考える。
「一概には否定できないけど、それなら外に出てしまえばいいのに。あのメイドの口振りだと、ずっと屋敷から出てないみたいだし」
「すげえ引きこもりとか?」
「それも否定できないけど……何か出れない理由があるのかも……って、うわっ!」
 ぐらりとフレイの体が前のめりになったかと思えば、そのままバランスを崩し、足が地面から離れていく。
「あぶねっ!」
 咄嗟にソウリュウがフレイの腕を掴んで支えなければ、今頃彼は雑草と木の根に体に打ち付けていたことだろう。
「足元最悪だ……木の根がこんなに露出してる―――――助かったよ、ありがとう」
 怪我を負わずに済んだフレイを助け起こす間も、マーシアはこちらを気にかけることなく、すたすたと迷いない足取りで森の中を進んでいく。
 フレイが取り落としかけたカンテラを代わりにソウリュウが持ち、二人は急ぎ足で彼女を追う。
「俺と同じ道を通れば多分転ばないで行けるぞ」
 フレイの腕を掴んだままソウリュウは歩き、フレイもその真後ろで歩を進める。
 不思議なことに、ソウリュウが選ぶ道は非常に歩きやすく、枝葉が足を擦ることも無かった。
 ソウリュウがフレイの為に少しでも快適な道を見つけ出してくれているのはわかるが、それ以前に一つ問題があった。
「ソウリュウ」
「何だ?腹でもへったのか?」
「違う。何で君はそんなに速く歩けるんだ」
「そんなに速いか俺?」
「速い。正直速すぎてついていけなくなりそうだ」
 違う意味で、フレイは数度転倒しそうになっていた。
「悪い。いつもこういう場所って独りで来るからよ……そうだな、今日はフレイもいるんだな!―――――よくわかんねえけど森とかは歩き慣れてるからかもな。何となく気配で障害物とかはわかるぜ」
「すごいな……」
「山育ちだしな!あそこはここよりもっと坂があって、岩も転がってきてやばいぞ!」
「は、ははは……」
 フレイは苦笑しながらも、妙な違和感を覚えていた。
 それはソウリュウも同じであり、二人とも〝森〟の異常に気づいてきていた。
「……気づいてる?ソウリュウ」
「おう。気づいてるっていうか、普通気づくよなこれ……」
 



「「―――――帰り道が消えてる」」


 
 先ほど通過した後道は、森の闇に捕食されてしまったのか、奈落の闇空間だけが広がっている。
 振り返っても後方の全てが闇。星の無い宇宙空間のような虚無。
 今ここで数歩下がれば自分達はどうなってしまうのか、試す勇気は残念ながらここには無く、そもそも後戻りするわけにはいかないのだ。
 もう、退却手段は完全に断たれてしまったが。
「僕達はいつの間にか幻術に惑わされているのかな?空間転移が使える魔法使いの術中にはまっているのかな?そろそろツッコミが追い付かないよ?」
「何にしても、ご主人様とやらは俺達を簡単に帰してくれるつもりはないみたいだな。ははは、上等じゃねえかやってやるぜ」         
「どうしよう。感覚が麻痺してきたせいかな、早くもこの状況を受け入れてる僕がいるよ」
「現実逃避するよりはよっぽどマシだと思うぜ。俺もだけどな!」
「はは、奇遇だね」
 背中を伝う冷や汗に気付かないふりをしながら、二人はぎこちなく笑い、覚悟を決めて前のマーシアだけを見ることにした。
 だが、マーシアの足取りは急にぴたりと制止し、勢い余ったソウリュウ達は二人仲良くすっ転びそうになってしまう。
「わ、わわ、わわわわわわわわ!?」
 瞬間、空間が暗転したかのように思えた。
 世界が逆転するように、鏡が一回転するように、重力が切り替わるように、場が揺らいだ。
「おおお!?―――――おっと」
 何とか体勢を立て直したソウリュウだったが、数瞬前とは全く違う気配に、ぞくりと肌を粟立たせた。
 まるで、別の場所に無理やり移動させられたような―――――。

―――――何だ、この。嫌な感じは……?

 事実―――――ソウリュウ達の眼前には、先ほどまでは影も形も無かった黒の壁が忽然と出現していた。

 それはただの城壁ではなく建物の外壁なのだと察した時、ソウリュウとフレイは絶句してしまう。

「―――――おいおいおいおいおいおいおい……何だこの城は」

 見上げても尚見渡せないほどの大きな館が、そこには待ち構えていた。
 本来ならば森の外からでも視認できなければおかしいほど巨大で、膨大な敷地面積を持つ館はもはや城と表するに相応しく、とてつもない威圧感と威厳を纏っていた。
 無数の尖塔は黒水晶を想起させ、目に入る全ての物が、黒い。黒、黒、黒。血を固めたような驚きの黒さだ。
 窓は全部、固く閉ざされている。外界の光を一切取り込むことを許していないと、語るように。

―――――何だこの城は!上から墨でもぶちまけたのか!?

 今までソウリュウは幾つもの居城を見てきたが、これほど広大で重量感のある城を目視したのは初めてだった。フレイに至っては城を見ること自体が初めてゆえに、今にも腰を抜かしそうだ。
 あれほど恐ろしいと思った森が嘘のように小さく縮こまり、館を前に平伏している。夜闇さえも恐れを無し、得体のしれない漆黒の霧が雲のように中空を彷徨う。
 館を囲う高柵は茨の棘を模しており、招かれていない部外者が侵入しようと目論んだところで、たちまち串刺しにされることだろう。
 温度の無い微風に載ってくるのは、甘く、重い、毒のような、薔薇の香り。
 城門が禍々しい重厚な音を響かせて開けば、入場する他の未来は無い。
 人の手が加えられていなかったはずの土の道はいつしか整備清掃が施された石畳へと変貌し、マーシアの靴音がよりはっきりと耳に入ってくる。
 時を刻むように、現実味溢れて。
 

「〝赤薔薇の館〟へようこそ―――――ここが、貴方達の墓標となることでしょう」


 おい、待てよ。
 やっぱりご主人様とやらは俺達と殺る気満々なんじゃねえか!

 
   







 ◆


―――――お客様がお見えになったわ!

―――――なら、わたし達もお仕事をしないと!

―――――ええ!ご主人様の為にも!

―――――ご主人様の宴の為にも!



―――――見目麗しい赤薔薇を咲かせましょう!

 

 

 

 

 

 

次話へ 前話へ 目次へ